2021年東京国際映画祭で上映され、日本社会のジェンダー不平等を問いかけた作品として話題を集めた舩橋 淳 監督最新作『ある職場』が、3 月 5 日(土)よりポレポレ東中野にて公開されます。
また、同時に『ある職場』の公開を記念し、その時代ごとの問題意識をテーマにしてきた舩橋淳監督の22年に及ぶ監督作品を一堂に上映する特集上映が代官山のシアターギルド で3月4日より開催されています。
この度、「シネフィル」では、注目の最新作『ある職場』、特集上映で上映される作品とその制作、そして今後の作品や日本の映画界についてなど質問を投げかけました。
『ある職場』について
●『ある職場』は実際にあったハラスメントだそうですが、それはどちらで知って、またどうして映画にしようと思われたでしょうか?
【きっかけ】
10年間ニューヨークで映画を撮り続け、2007年に帰国して以来ずっと僕の脳裏に引っかかり続けてきた問題意識が、男女の性差だった。日本社会はあまりにも男性社会で、「女性活躍推進」と政府が謳うフレーズは何ら実態が伴っておらず、封建社会以来の男女差別が根底にあり続ける旧態依然が本当に嫌だった。この社会が変わってほしい、この問題に一石を投じる映画を撮りたい、と長く考え続けていた。
そんなあるとき、都内にあるホテルチェーンでのセクシャル・ハラスメント事件を耳にしたのだった。個人的にコンタクトし、被害者、加害者、同僚のホテルスタッフなど関係者に撮影なし、個人名を明かさないという条件でペン取材として話を聞いていった。下調べの段階ではあったものの、本当に辛い思いをした当事者たちの言葉がただならぬ熱量をもって僕に伝わった。特に被害者からはセクハラそのものの辛さに加え、事件後、職場の組織の中でどう生きてゆくのか、周囲との関係が本当に辛い、本音を言い合えない環境で皆の目線を気にしながら生きてゆくのが苦しいという言葉が突き刺さった・・・。なんとかドキュメンタリーにできまいか、と探ったのだが、これ以上騒ぎを大きくしたくない、個人名を知られたくない、顔をキャメラに明かすなんてありえないと拒まれ、当事者の了承を得て「ネタ元が全くわからない」形で脚本を再構成して劇映画にすることを決意した。個人名や職場(ホテル)のことは一切明かさずとも、自分が聞いた様々な思い、熱量は真実であり、それに向けて映画を撮ることが、この歪なほど男性に偏った日本社会には必要なのではないか。思い上がりかもしれないが、そのような強い確信に至った。
●日本においてはme too運動も多く広がったとは思えなかったのですが、日本の女性の持つ価値観が、違うのでしょうか?
国連によるジェンダー平等ランキングで日本は世界120位と、先進国の中でも最下位に低迷している。そして、国連の女性差別撤廃委員会はセクハラの禁止規定を持たない日本に対し長い間勧告を続けている。
厚生労働省の調べによれば、日本におけるハラスメント件数は年間82797件。
民事上の個別労働紛争で最も多い問題であり、過去12年間毎年増え続けている。
パワハラやセクハラに加え、ネットでの誹謗中傷など多重被害のケースも増えており、働く成人男女の約4人に1人がなんらかのハラスメント被害を受けている計算だ。
そして、その45%は被害後、特に何もせずやり過ごしたという。無論、これは氷山の一角であり、労働局に訴え出ることのできなかった人々が山ほどいることは容易に想像がつく。
そして、半数近い45%が事件後なにもしなかった(できなかった)というのは、問題解決の方法が限られたまま放置されていることを示唆している。
MeToo運動が起きなかったのではなく、起こせないほど男性の既得権益社会が強固であり、性差別が根深いということだと思う。その大部分が男性の責任である。
●この映画をこれからご覧になる方へメッセージを
映画『ある職場』予告
3月5日(土)ポレポレ東中野ほかロードショー
公式サイトhttp://arushokuba.com
特集上映について
●監督はNYで映画を学んできましたが、日本とは、学び方が何か違うのでしょうか?
映画に対する姿勢や熱量はかわりません。しかし、システム化されたフィルムスクールがいくつもあって競争があり、より刺激的なのだと思います。日本の撮影方法と、アメリカの撮影方法も決定的に違いますね。
●今まで、監督はドキュメンタリーとドラマなど、境界なく制作されていますが、それはどうしてなのでしょうか?
ニューヨークで第二作の劇映画「ビッグリバー」を準備していたときに、911に遭い、社会が一変するという経験をしました。そこから911関連のドキュメンタリーを撮ったり、また帰国後は劇映画「桜並木の満開の下に」の撮影2週間前に東日本大震災があり、撮影が中止、そして原発避難のドキュメンタリー「フタバから遠く離れて」を撮ることになった。僕自身の人生が、日米で起きた大災害・大事件に翻弄されてきたからだと思います。
●ドラマとドキュメンタリーでは、どのように制作姿勢を変えているのでしょうか?
変わりません。僕は最初にどのジャンルを取るかは決めません。テーマを決めてアプローチ法を決めています。こちらの連載でいまその話を詳しく論じています。
https://cinefil.tokyo/_ct/1751808
●20年ぶりの劇場上映ということなんですが、NYで撮られた『echoes エコーズ』と短編『Talkies&Silence』について
『echoes エコーズ』は、僕としては、もはや恥ずかしいを通り越して、うれしい感傷を持つ作品・ロードムービーです。とにかく映画が好きで16ミリのキャメラを持って、相棒たちと一緒にNew Yorkのイーストヴィレッジとお隣New Jerseyを車で往復しながら撮ることが楽しくて仕方なかった。モノクロームの粒子を愛してやまないのも、この頃から始まっています。
また、その前に作った短編も上映します。
『Talkies&Silence』は、ロベール・ブレッソンの「トーキーは、静寂を生んだ」という言葉にインスピレーションを得て撮った映像詩です。
●『谷中暮色』については、ドキュメンタリーと劇映画を混在させていく手法で撮られていますが、なぜ?また、この場所を主題にしたのはどうしてなのでしょうか?
2007年、ニューヨークに10年間住んだのち、僕は母国へと戻り、東京の谷中と呼ばれる地域に住み着いた。寺社と墓地に埋め尽くされた静かな下町になんとなく惹かれたのがその理由だった。「寺と坂の町」と呼ばれる谷中は、本郷と上野の二つの台地に挟まれた谷であることがその地名の由来といわれている。僕は大都会東京の喧噪の深部にありながら、墓石と寺に埋め尽くされ、いつもしんとしているこの「谷」にひかれた。そこを貫く路は言問(こととい)通りと呼ばれ、谷はまるで言霊の漂う此岸と彼岸の間のようにも感じられた。
ニューヨークからの荷を解き、いざ谷中に腰を下ろしてみると、そこは江戸以前から長らく続く伝統工芸職人が、ひっそりと暮らす昔ながらの下町だと言うことを知った。墓石の仏名を記す書の職人や、お面や纏(まとい)作りの名人、江戸宮大工の棟梁など、資本主義経済の中でそのニッシュを見失うことなく、手工芸を守り抜いてきた方々だった。
僕は「谷中暮色」で、現代において形骸化したものを見つめることで、過去の精神性を浮き上がらせたいと思った。五重塔の礎石、家族が集まる法事、昭和32年に撮影されたフィルムなど、形だけは残っているものの本質、精神性がもはや消失しているものをドキュメンタリーのキャメラで見つめてみようと思った。それは、五重塔が焼け落ちた1957年(昭和32年)という過去、幸田露伴「五重塔」の作品世界である江戸時代中期という大過去へと想像力を飛翔させ、時代劇のフィクションへと結びついた。大過去、過去、現代と3つの時代の映像の記憶を往復することで、時間と共に変わったもの、変わらぬものがより鮮明に浮き上がってくるのではないかと思えたのだ。
温故知新といえば単純だが、映画においては「温新知故」もありうる。現代と向き合うことで、過去の価値が見えてくるということだ。今あれほど懐かしがられている五重塔の礎石をみて、過去の五重塔へ想いを馳せたり、今恋に落ちる男女を見つめながら大過去に妻夫を契った若者へ想像力を羽ばたかせたり。すると、現代よりも過去がよりヴィヴィッドに、より生き生きと我々の脳裏に浮き上がってくるのではなかろうか、と。
●監督の代表作のドキュメンタリー『フタバから遠く離れて』ですが、東日本大震災から11年の月日が立ちました、実際この作品は、二部に渡って制作なさっていますが、現在、当時の撮影のことを思い返されるとどのように感じますでしょうか?現在思われていることについて、教えてください。
原発事故は遠い昔の出来事だったかのように、風化が進んでいる。
今も福島から避難している人々を映した映像は、時折メディアのここかしこに散見されるが、それはみな「被害者」「かわいそうな人たち」というレッテルを張った描写である。
それを見て「ああ、かわいそうだ」と思うもの
「そんな話題、もう見たくもない」と思うもの
こうした認知の在り方そのものが僕はおかしいと思う。
その認知全体をひっくり返し、見直したいと思う。
なぜか。
福島第一原発の電力はほぼ100%関東圏に送られて来た。
僕たち東京の人間、都市部の人間が使って来た電気である。
そして、60年代〜日本の高度成長の中、「原子力 未来の明るいエネルギー」(双葉町に架かっていた標語アーチ)として原子力のポジティブなイメージを支え、原子力にGOサインを出してきたのは、僕たち日本人全員、日本社会そのものだからである。
元は、原爆と同じ核の毒であり、悪魔に魂を売ったゲーテのファウストのように、その大きなしっぺ返しを受けながら、それが自分達に起因していることをどうしても認めたくない。
そんなしっぺ返しの強烈な<痛み>に対し、僕たちは距離を置いて直視を避けている。他人のせいにする方が楽だから、国と東電を責める。
遠く離れることで、それを直接には感じなくなることで、うやむやに過ぎ去ってゆくものがこの世の中に、たくさんあるということ。
原発避難民は「かわいそう」なだけじゃない。
僕たちもその加害の一端を担っているのだ。
正義の欠如に僕たちも加担しているという不都合な真実。
他人の痛みを思いやるだけじゃ足りない、自分の加害について思いを馳せる。
それがぬくぬくと電気を使いつづける、悪魔に魂を売り続ける、私たちが感じるべき、ささやかな倫理であると思う。
●『フタバ--』と前後して、制作された『桜並木の満開の下に』ですが、成瀬巳喜男監督の遺作『乱れ雲』のリメイクだそうですが、どうしてこの作品を作られようとしたのでしょう?
震災直後の2012年、以下のように考えました。
「人が他人を憎んだり、愛したりするのはなぜだろうか。
子孫を繁栄させるため、動物としての本能的欲求なのだろうか。現に人間に限らず、ゴリラや象など他のほ乳類も愛憎の感情を持つことは確認されている。人間が他の人間を殺したいほど憎んだり、逆にその人物を受け入れたりするのは全てこころの動きにある。他の動物のように生理的な好き嫌いもおおいにあるが、自分の住む国や文化、習慣など、人間の生み出したフィクションに縛られ、愛するか憎むかが動機づけられることもある。
そうやって、人間世界は憎しみ合いで満ちている。それは何が原因なのか。関係を踏みつぶして悪化させるのも、憎しみを乗り越えて他人を受け入れるのも、「こころ」がなす作用だとわかっているのに、どこか自分では制御しきれない。それが人の「こころ」だと思う。ほんの小さなきっかけで「こころ」のつなぎ目が壊れてしまったり、再び結ばれたり、僕はその微妙な、ささくれだった機微が、とてもおもしろいと感じる。
そこにこそ、人間存在のいとおしさがあるように思える。」
このような思いから、人間の心を深掘りするような心理劇を作りたいと考えたのです。
●日本人監督初のポルトガル合作となった『ポルトの恋人たち 時の記憶』なのですが、なぜポルトガルと合作という形がとられたのでしょうか?今作は18世紀と21世紀という時空を超え、役者さんもそれぞれ一人二役という設定で、多層的な構成がされていますが、この作品はどのような発想から生まれたのでしょうか?
『フタバから遠く離れて』、『桜並木の満開の下に』を通して「被災」というテーマを至近距離で見つめました。その後、一度遠くに引いて、俯瞰した目線から歴史を捉えてみたい、と思ったんです。1755年のリスボン大震災は、マグニチュード9.0、ヨーロッパ史上最大の地震と津波による複合災害で、ヴォルテールが神の不存在を言い出したりとヨーロッパの精神史に大きな衝撃を与えた事件でした。東日本大震災もそれと同じような現象が起きました。「想定外」という言葉が飛び交ったように、人々が大前提として信じていたことが大きく失われた。多くの命が絶え故郷が破壊し尽くされた時、大袈裟に言えば、文明の発展を疑う声も上がりました。この震災による深い傷は、被災直後よりも10年経ったあたりに人々の心の中に認識されてくるのではないか。東京オリンピックの直後、2021年の近未来に第二部を設定したのは、そんな意味があります。第一部も第二部も、「信じるべきものを失った」時代に生きてゆく人々の話なのです。
特集上映作品詳細は下記より
https://cinefil.tokyo/_ct/17522117
3月4日より代官山シアターギルド で開催中
チケット予約は下記より
https://theaterguild.co/movie/
映画界の状況と次回作
●監督は、やはり時代時代の空気の中でより問題意識のあるテーマを作品化し、作家性を出した作品を作り続けていますが、今後どのような作品を撮っていかれるのでしょうか?
次回作、今編集中なのですが、日本の自己責任社会をテーマにとっています。
人は過去の過ちを一生引きづらなければいけないのか、それともどこかで「リセット」してもらえるのか、を問いかけています。
●日本の映画界、文化状況についてはどう思われますでしょうか?
日本の映画、文化芸術を取り巻く状況は危機的だと思います。
先日も「宮本から君へ」の助成金不交付訴訟で、ピエール瀧氏の薬物使用により、映画自体の公開が「公益性」に反するとして、裁判で原告が敗訴しました。つまり、よく定義もされていない「公益性」の名の元に、国が芸術表現を押しつぶすということがまかり通ってしまった。また、コロナ禍で映画館、ミニシアターの弱体化が顕在化してしまった。
パワハラ、セクハラも業界の中で、未だ散見され、変えていかなければいけないと思っています。映画業界のインフラを根本的に改善すべき、地点に立っているんじゃないかと思ってます。
いま僕は、是枝裕和さん、諏訪敦彦さん、 岨手由貴子 さん、西川美和さん、深田晃司さんらと一緒に、映画監督の有志が中心で話し合い、フランスのCNCや韓国のKOFICのような、映画の統括機関を作ることを目指す運動を始めています。本日(3/4)発売のキネマ旬報に対談が載っておりますので、ご覧ください。
舩橋淳
映画作家。東京大学卒業後、ニューヨークで映画制作を学ぶ。
『echoes』(2001年)から『BIG RIVER』(2006年)『桜並木の満開の下に』(2013年)などの劇映画、『フタバから遠く離れて』(2012年)『道頓堀よ、泣かせてくれ!DOCUMENTARY of NMB48』(2016年)などのドキュメンタリーまで幅広く発表。メロドラマ『桜並木〜』(主演:臼田あさ美、三浦貴大)はベルリン国際映画祭へ5作連続招待の快挙。
他に『小津安二郎・没後50年 隠された視線』(2013, NHKで放映)など。2018年日葡米合作の劇映画『ポルトの恋人たち 時の記憶』(主演柄本祐、アナ・モレイラ)を監督。
柄本佑はキネマ旬報最優秀男優賞に輝いた。
最新作はハラスメントとジェンダー不平等を描く「ある職場」。
『ある職場』公式サイト
舩橋淳監督 レトロスペクティブ [特集上映]