コッポラ監督『ドラキュラ』(1992)でアカデミー賞衣装デザイン賞を獲った石岡瑛子が、筆者の留学していたロサンゼルスの大学で講演したことがある。講義のあとの学生との雑談で、石岡に「あなた映画しか知らないんじゃない、日本人なんだから尾形光琳くらい見てなきゃダメよ」と言われた。
「金にダーク・ブルーのアイリスがいっぱい描かれた屏風があるでしょ」。カキツバタやショウブは英語では「アイリス」なわけで、つまり国宝「燕子花図屏風」のこと…ではなく、「ニューヨークのMETにあるから、必ず見て帰りなさい」と石岡が言ったのは、メトロポリタン美術館が所蔵する「八橋図屏風」のことだった。いや保存に配慮が必要な紙に顔料の日本絵画で常設展示はできないので、見られるのはせいぜい年に1〜2ヶ月程度のはず。天才なだけに石岡瑛子もずいぶん無茶なことを言う人…のはずがその数ヶ月後にニューヨークに行った時、メトロポリタン美術館の日本美術コーナーでいきなり、控えめな照明のギャラリーの柔らかいスポットに金が燦然と輝き、濃厚な青の無数の花が一面に浮かび上がる光景が目に飛び込んで来た。
石岡という天才の魔力というか、運気を引きつける力を、少しだけお裾分けして貰えたのかも知れない。
「八橋図屏風」の話が出たのは、石岡の映画デビューでアメリカに拠点を移すきっかけにもなった『MISHIMA: a Life in Four Chapters(三島由紀夫:四つの章からなる人生)』(1985)の劇中劇部分(三島の小説の劇化パート)の美術デザインについてだった。諸般の事情でいまだに日本未公開の同作を留学中にやっと見られたばかりだったのだが、その第1章「美」に挿入される小説「金閣寺」の映像化の、金閣が総金箔なだけでなく、風景全体が金箔の、極端に抽象化された「美」の世界観は、尾形光琳がインスピレーションだったということらしい。
なるほど、あれは金屏風の中の世界だったのか? 緑で描かれた北山なども光琳の屏風に共通する配色で、板をジグザグに渡した「八橋」状の橋も、あんな橋は実際の鹿苑寺の鏡湖池にはないわけで、光琳から着想したということなのだろう。映画の中で、この「八橋」の複雑な配列が変化し続け、あたかも三島の小説の主人公の、そして三島由紀夫その人の心の迷宮に見えて来る。
そして「八橋図屏風」自体、反射率の高い金地の薄暗いギャラリーの中の輝きが、不思議な魔力、神々しさと生命を持って、まるで観る側が金屏風の中の世界に迷い込んでしまいそうに錯覚させられる。ちょうど「金閣寺」の主人公・坂東八十助(のちの十世坂東三津五郎)が金閣の神々しい完璧な美に誘惑され、取り憑かれ、美意識や快楽の感覚まで乗っ取られて追い込まれるあまり、空襲で焼け野原になってしまえ、とまで思い詰めるように。
「八橋」と「燕子花」、在原業平と尾形光琳
以下の写真は撮影:藤原敏史
主催者の特別な許可で撮影
前置きが長くなってしまった。「八橋図屏風」はもちろん、国宝「燕子花図屏風」とよく似ているだけでなく、そもそもモチーフが同じ在原業平の歌と「伊勢物語」だ。
から衣
きつつなれにし
つましあれば
はるばる来ぬる
たびをしぞ思ふ
最初の一字を繋ぐと「かきつばた(杜若、燕子花)」が詠み込まれていて、「伊勢物語」の第九段で左遷され都を追われた男が、カキツバタの咲き誇る上に渡された板橋の上で京に残した妻を懐かしむ場面に脚色されている。江戸時代初期には大名庭園でカキツバタやショウブを植え、ジグザグ状の板の橋を渡してこの景色が再現されるなど、人気のモチーフになっていた。光琳の作品にも「燕子花図屏風」「八橋図屏風」だけでなく、国宝の「八橋蒔絵螺鈿硯箱」(東京国立博物館蔵 https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=other&colid=H86&t= )があり、着物の柄のデザインのモチーフにも使っていたはずだ。
文芸作品の場面を、その登場人物を描かないで表現するのは「留守文様」「留守模様」と言って陶磁器や漆芸、染色でよく使われていた手法だ。省略による抽象化のアイディア自体は尾形光琳のオリジナルというわけではない。
しかし「燕子花図屏風」はそこからさらに大胆に一歩先に踏み込んでいる。主人公の業平がいないだけでなく、なにしろ肝心の橋がないのだ。
実は筆者は長らく、とんだ勘違いをしていた。「八橋」のモチーフをまず幾何学的に大胆に抽象化・分解して再構成した「八橋図屏風」が描かれ、さらに抽象化を進めて橋も消した完成形・到達点が「燕子花図屏風」なのだろう、と思い込んでいたのだ。実際には順番が逆で「八橋図屏風」は光琳が江戸にも人脈を広げて大名家などの注文も受けるようになって以降、「燕子花図屏風」はその前の、まだ光琳が京都中心に活動していた時期の作なのだそうだ。
だとしたら、思っていた以上の光琳の恐るべき大胆不敵さだ。その大胆不敵をいきなり極限まで突き詰めた「燕子花図屏風」を完成させ、これでは抽象化が大胆過ぎてさすがになんのことか分からない者もいたのか、「もう少し分かりやすく、定例通りに」と頼んだ注文主がいて、それで妥協で橋も描き込んだのが「八橋図屏風」なのだろうか? それとも「燕子花図屏風」の評判を知った注文主が「八橋」モチーフの屏風を依頼し、光琳の方が同じことを繰り返すのもつまらない(というか、こんな大胆なことは一度完璧に完成させてしまえば繰り返しても意味がない)ので、今度は橋の実験にチャレンジしてみたとか、そういう事情でもあったのだろうか?