聖なる色としての青、金、そして緑
根津美術館では「燕子花図屏風」をほぼ毎年、庭のカキツバタの季節に合わせて1ヶ月前後展示するに当たって、毎回異なったテーマの切り口で展示を構成して来た。今年はこの作品の極端に限定された色彩、群青の濃紺と金と緑に注目した展覧会だ。
いわば目玉作品である「燕子花図屏風」はあえて展示順路の冒頭に持って来ておらず、展示会場に入った時には、多くの観客にとってお目当てのこの屏風は、紗幕の向こうにおぼろげに見える。
その「燕子花図屏風」の存在を背中に感じながら、江戸時代の「琳派」の代表作の展示だというのに、我々がまず見るのはなんと平安時代に遡って、紺地に金の文字で描かれた写経だ。そして鎌倉時代の仏画の、阿弥陀来迎図が続く。
2件の紺地の写経はどちらも冒頭に金の緻密な線で仏画が描かれており、来迎図2枚はどちらも金泥つまり金粉をにわかで解いた絵の具で塗られた阿弥陀如来や菩薩たちの衣服の上に、より純度の高い金で引かれた繊細な線が見える。金の上に金を重ねるという、とても微妙な違いを使ってよく見ないと分からないほど繊細で緻密なやり方で、細部が描き込まれている。背景は平安時代の写経と同じ紺地で、そこに薄い金箔を切った極細の金(截金・きりかね)で阿弥陀如来の後光が広がる。
経典の記述に従えば、悟りに到達した如来の顔と体は金色に輝き、頭髪は「螺髪」という独特の、無数のとぐろを巻いたような状態になり、その色は濃い青、群青と決まっている。展示されている二件の来迎図も、その決まり通りの配色だ。また阿弥陀如来や菩薩の乗る蓮台には、緑色が使われている。
「燕子花図屏風」の配色を原材料の高価さから「豪華でぜいたく」と受け取るのもひとつの見方だが、金と群青はまず光学的に補色関係で明解なコントラストが際立って美しく目を引く配色であり、そして日本の文化史を遡れば、仏と救済を表す聖なる色でもあった。
そして「燕子花図屏風」のもうひとつの色彩である緑青の緑もまた、「八百万の神々」が山々や大自然に宿ると考え、神の領域であると同時に山そのものが仏の化身として信仰されて来た日本人の精神文化の中で、やはり聖なる色だ。
そんな実例として展示されている鎌倉時代の「春日宮曼荼羅」は、春日大社に祀られた神々がその東の御蓋山に降臨し、本殿の4柱と若宮の神はそれぞれに、不空羂索観音(ないし釈迦如来)、薬師如来、地蔵菩薩、吉祥天(ないし千手観音菩薩)、童形の文殊菩薩(若宮)の化身であるという、神仏習合の信仰体系を図像化したものだ。
現在の奈良公園・奈良国立博物館辺りから東の風景だ。最上部つまり東の彼方には、その神々の本来の姿である仏の下に春日大社の至聖域である御蓋山、手前・画面左下には現存しない春日両塔が描かれる。その塔や回廊の屋根の瓦は濃い青で、塔の最上部の相輪や水煙は金だ。金は画面上に向かって一直線に伸びる参道にもあしらわれており、御蓋山の上つまり東の方角から昇る月と、もちろん最上部の仏たちにも使われている。
だがこの曼荼羅の最大の見所はやはり、葉の一枚一枚までが緻密に描きこまれた無数の木だろう。大自然とその生命の営みこそが、奈良の東を聖なる空間としている。
九州の太宰府に左遷されて非業の死を遂げた菅原道真が怨霊となり、神として祀られるまでの経緯を絵説きした「北野天神縁起絵巻」には、生前の道真が山に登って神の感得を受けて自ら神になる場面がある。
大自然の中に屹立する道真の姿を取り巻く大自然の色は当然、緑に溢れている。根津美術館の所蔵する室町時代の作例では、岩に濃い青も使われている。
山と大自然は神々の領域であると同時に、人間にとって異界、そして鬼神の支配する魔界でもある。この場面で神となった道真は、人間としては死んで怨霊となり、眷属の雷神を操って御所の清涼殿に落雷を起こし、自分を冤罪に陥れ左遷させた藤原氏の貴族を焼き殺すことになる。
平安時代に京の都を脅かした鬼の「酒呑童子」を退治した源頼光の伝説を、江戸時代・京都の狩野派の狩野山楽が描いたと伝わる絵巻では、山伏に変装した頼光の一行が緑鮮やかな深い山にわけ入る。
酒呑童子にさらわれて奉仕させられている女性が着物を洗う川は、群青だ。水もまた古来の日本人にとって聖なるもの、命と生活を支え、命の象徴であると同時に、水害・洪水を引き起こし人の命を容赦無く奪うものでもある。京都は酒呑童子のようなさまざまな鬼に苛まれた伝説が刻印された町であると同時に、近世の豊臣秀吉以降に治水工事や河川の改造整備が進むまで、現実に数限りない水害に悩まされて来た都市でもあった。
聖なる色にして、魔性さえ帯びた誘惑の色としての金
「燕子花図屏風」について、石岡瑛子に「八橋図屏風」を見ろと言われたことを思い出したのは、この「聖なる色」をめぐる展示構成からだ。しかも三つの色彩に宗教的な意味付があったことを見せて行きながら、展覧会題名はあえて「誘惑」である。
だいたい石岡瑛子が単に「日本人なんだから」と言いたかっただけなら、手垢のついた安易な話でしかないし、そもそも「日本人だから」で言えば石岡が映画『MISHIMA』の「金閣寺」のデザインに尾形光琳を使ったのも…いやそれをいうなら、三島の小説の映像化に光琳っぽいデザインをする日本人が起用されたのであれば、ハリウッドにありがちな安易なエキゾチシズムの植民地主義に過ぎない、との批判も当然だろう。実際には、ポール・シュレイダー監督が石岡を起用したのは兄レナードの妻が日本人で、自身も映画『ザ・ヤクザ』の脚本をそのレナード・シュレイダーと共同で担当したなど、この映画の企画以前から何度も来日し(ちなみに当時から演歌好きで藤あや子のファン)、石岡瑛子が一世を風靡したPARCOの一連の斬新にコンセプチャルな広告デザインを見ていたからだった。なおPARCO時代の石岡のデザインには、そんな見るからに「和風」なテイストはまったくない。
それに三島由紀夫の「金閣寺」をうわべだけで読むなら、光琳や琳派を連想すること自体がひどく飛躍している。だいたい金閣は室町時代・足利義満の建立だし、小説では主人公は幼少時から話だけで聞いていた金閣寺を、この世のものとは思えない絶対的な美と思っていた。だが実際にその金閣がある鹿苑寺の書生・修行僧になると、金箔がほとんどハゲ落ちて構造も歪み、傷んでみすぼらしく、醜い。発語に障害があり、自らの醜さに深いコンプレックスを抱える主人公は、現実の醜く荒廃した金閣に幻滅しつつ、そのみすぼらしさに自分自身を重ねて安堵もする。
石岡のデザインとそれを踏まえたシュレイダーの演出は、この部分を一切、大胆に割愛している。原作では金閣の醜さに一度は安堵したはずの主人公はしかし、性的な誘惑やエクスタシーの瞬間瞬間に、その脳裏に本来のあるべき姿の、完璧な美としての金閣のイメージが現れ、自らを醜いと思い込んでいる主人公はその完璧な美の観念に取り憑かれ、苛まれ、追い詰められていく。このイメージとしての金閣は小説ではあくまで抽象的な概念としての完璧な美で、具体的な描写は一切ない。だが映画では、その抽象の究極の美にこそ具体的に見える視覚的なイメージを与えなければ、観客には見えない。
そこで小説では主人公の内面だけにある観念としての美を、主人公を取り巻く世界として視覚化するという大胆不敵な逆転のコンセプトを石岡は考え、そこで出て来たのが「金屏風」の中に入り込んでしまう世界観だったのだろう。しかもこの解決策をインスパイアされたのが、光琳の極度に抽象的な表現だったということになる。
その光琳の金屏風を、石岡は確か「神々しい」、そして「生命」という言葉で形容していたし、「セデュース(誘惑)される」と言っていた記憶もある。
金屏風はもちろん、まず極めて高価だったので、歴史的にも社会的・世俗的な財力・権力の象徴として機能したのも確かだ。だが一方で、金が極端に反射率が高くまるで自ら光を発するように見え、酸化し錆びて劣化することもなくほとんど化学反応の影響がない特性から、多くの古代文明で呪術的に崇拝されていたし、のちの人類史のなかで宗教的に重要な意味を持って来たのも、すでに見てきたような仏教の約束事に限ったことではない。たとえば中世のキリスト教でも、イエスや神や聖人を示す後光は金で描かれるのが約束事だ。
実際の金閣寺、足利義満の別邸・北山殿の金閣には、公家の影響力を無視できない京都に置かれた幕府の政治的威信を、財力と文化力で誇示する目的も大きかったのだろうし、現に義満が始めた日明貿易で、明の皇帝が派遣した答礼の使者の接待にも使われたという。だが金箔貼りの寺院の装飾は浄土信仰の、特に庶民信仰の浄土真宗でよく用いられる。本願寺派の財力の誇示なぞよりも、信徒がイメージする浄土の雰囲気を分かりやすく視覚化する宗教的な意味が大きかったはずだ。
もちろんこの展覧会に出品されている2件の阿弥陀来迎図も、浄土信仰の表現で、死に行く者を「お迎え」に来る阿弥陀如来たちを描いたものだ。
時代を遡れば東大寺の大仏は、創建当時は全身が金メッキだった。大仏殿は開眼法要の後で建てられたものなので、それ以前には朝に平城京から東を見れば、高台に逆光の朝日を浴びた黄金の巨大な仏が燦然と輝いていたはずだ。平安時代末期に奥州藤原氏が平泉の中尊寺の山の中腹やや下に、総金箔貼りの阿弥陀堂(金色堂)を建てたのも、当時は地上の平泉市街から見て、やはり燦然と、浄土の救済のイメージとして、輝いていたのだろう。
日本美術の金の使われ方は、こうした直接的に宗教的な、神聖さのイメージの枠内に収まらなくもなっていく。展覧会では光琳の「燕子花図屏風」に辿り着く前に室町時代の金屏風を2件、まず見ることになっている。
どちらも自然や風景を描いたものだ。そのうち一件の「松槙図屏風」では、手前の大きな二本松の背後の山の稜線などの遠景と近景の違いと遠近の奥行きが、反射率の違う金泥の組み合わせで描き分けられている。
極め付けは、遥か彼方の海か雲海の向こうに上部だけが見える太陽で、金属片を貼り付けて出っ張らせ、そこを金箔で覆って表現しているところだ。太陽の大部分を隠す水平線の下には、周りの金泥より反射率が高く明るい金がサッと塗られていて、朝日あるいは夕日が海面に反射する光景になっている。
現代の日本の我々は、金屏風を伝統文化の一部としてなんとなく理解しているので、なにも考えずに受け入れているが、よく考えると極めて不思議な表現だ。青空だったり森や林の暗がりだったり、山や海だったりする背景を、なぜ中世の日本人は金で描き始めたのだろう? キリスト教の東方正教会でも、ことイスタンブール(コンスタンティノープル)のアヤ・ソフィア以降、ギリシャでも東欧でもロシアでもイコンの背景には主に金が使われて来た。この場合なら宗教的な意味づけははっきりしているが、日本の金屏風は世俗的なモチーフや風景でも、空が金だったり雲が金だったり地面が金、時には森や山々、水までもが金なのだ。「燕子花図屏風」や「八橋図屏風」でも、カキツバタの下は水面のはずが、金箔だ。
日中の自然光と、月夜ならほのかな月明かり、人工の照明は灯明と庭で炊く松明くらいしかなかった時代(蝋燭ですら日常生活に普及したのは江戸時代後期)には、人々は月の満ち欠けにも、そして金が反射する光にも、おそらくは現代人が想像もつかないほど敏感だったはずだ。「松槇図屏風」や、あるいは仏画に見られるような金に金を重ねた表現の、微妙な金の反射率の違いの使い分けも、そうした光への感受性を反映して、より強いインパクトを当時の見た人々の心にもたらしただろう。
室町時代の人々の感受性であれば、「松槙図屏風」の金一色の、一見抽象的で現実離れした表現にこそ触発されて、逆に現実の具体的な日の出あるいは日の入りの姿を心の中に見たのではないか? 日の出ならば生命のサイクルの始まりで生命の復活を示す自然光のもっとも神聖な瞬間であり、もし日没なのであれば、西は阿弥陀如来の西方浄土の方角だ。