近代資本主義、その最初の絶頂期の「幸福」と矛盾、その双方の煌めき

20世紀は大量生産・大量消費と、文化的な付加価値の高いモノの大衆商品化の時代だ。産業革命の成果を受けてモノ造りは「職人仕事」から脱し、機械技術によってこれまで不可能だった加工技術も導入され、工業化を前提とした「デザイン」と言う概念と、その付加価値性の高さも、1910〜20年代に産まれたものだ。

モダン・デザインは、ドイツのバウハウスならば、大衆のための良質で機能的かつ美的な製品によって日常生活の向上をもたらし市民意識改革を促すという明確な思想性も帯びて社会主義にも接近したのが、ほぼ同時代のフランスのアール・デコはバウハウスの追及した「機能美」の美学はしっかりイタダキつつ、近代産業化の時代にブルジョワ化した中産階級の欲望を満たし、そこをさらに刺激する者としての新しい商業芸術の潮流として発展した。

画像: ルネ・ラリック 電動置時計「昼と夜」1926年 北澤美術館藏

ルネ・ラリック 電動置時計「昼と夜」1926年 北澤美術館藏

当時流行ったスローガンは「L'art de vivre」、「生きることの芸術」ないし「生活の(ための)芸術」と訳せるが、要は生活の必要最低限ではない、言い換えればいわば「ぜいたく」品、実用的機能とは別個の次元の「付加価値」の大量生産化・商業化に基づく芸術運動とも言える。

なかでもガラスは原材料自体そう高価なものではないが、見るからに美しく目を引き、繊細で緻密な加工が可能、かつ壊れやすいという特性を持つ、アール・デコにとって象徴的かつもっとも適した素材のひとつだったのではないか? ラリックの仕事を見ていると、ついそう思えてしまう。

画像: ルネ・ラリック 円形灰皿「ナイアード」 1930年 北澤美術館蔵

ルネ・ラリック 円形灰皿「ナイアード」 1930年 北澤美術館蔵

分かり易い例が、労働者も含む大衆のための大量生産可能で安価な機能美を追求したバウハウスなら、灰皿ならば薄い金属で幾何学的かつ洗練された、軽くて丈夫で削ぎ落とされたデザインの、装飾要素を排し単純化されたフォルムそれ自体の美しさで勝負している。

ところが、ラリックはその灰皿だけではなく、文鎮もインク吸いも封蝋の印形も何もかも、その用途には必ずしも適しているとは思えないガラスで作っている。実用性・機能美という観点からすれば首を傾げたくなりつつも、下側の曲面にインクの吸い取り紙を貼って使うインク吸い(ブロッター)にはちゃんと表面の透明度を低く加工して柔らかな手触りに見えるガラスを用い、デザインも角ばったところが一切ないのだから、芸が細かい。

画像: ルネ・ラリック ブロッター「抱き合う二人のシレーヌ、座像」 1920年 楕円形灰皿「メディチ」1924年 円形インク壺「蛇」1920年 他 すべて北澤美術館蔵

ルネ・ラリック ブロッター「抱き合う二人のシレーヌ、座像」 1920年 楕円形灰皿「メディチ」1924年 円形インク壺「蛇」1920年 他 すべて北澤美術館蔵

ガラスなのに暖かみがある。

全体ではモダンさを追求しながら、しっかり古典的な裸体や動植物などの受け入れられ易いモチーフを装飾的要素として絶妙にアレンジもしている。

こうしたぜいたくな文房具は「無駄」と言われれば無駄かも知れないが、デスクにこうした品々が並べば見るからに煌びやかで日常の潤いにもなる以上に、来客や商売相手に強い印象を与えるステータス・シンボルにもなる。

画像: ルネ・ラリック 左より、楕円形印章「翼のある人物」「ぶらんこ遊び」円形印章「二人の人物と花」 いずれも1919年 封筒などを閉じる封蝋が固まる前に押して刻印をつける道具で、蝋は高熱なため普通なら真鍮などの金属で作るものだがラリックはガラスで。ブロッター「抱き合う二人のシレーヌ、座像」 1920年 楕円形灰皿「メディチ」1924年 円形インク壺「蛇」1920年 他 すべて北澤美術館蔵

ルネ・ラリック 左より、楕円形印章「翼のある人物」「ぶらんこ遊び」円形印章「二人の人物と花」 いずれも1919年 封筒などを閉じる封蝋が固まる前に押して刻印をつける道具で、蝋は高熱なため普通なら真鍮などの金属で作るものだがラリックはガラスで。ブロッター「抱き合う二人のシレーヌ、座像」 1920年 楕円形灰皿「メディチ」1924年 円形インク壺「蛇」1920年 他 すべて北澤美術館蔵

ラリックは近代工業社会に順応し、先導する創作に身を投じつつ、その矛盾にも敏感だったのかも知れない。合理性と機能性・機能美を追求することは社会の進歩に繋がり、大量生産による安価な製品化は製造販売側には利潤を産み、消費者側では生活水準の向上に結びつくのも確かだが、それだけでは没個性で息苦しい、幾何学的で人工的な、整理された同じパターンの空間に人間を押し込めることにもなる。

人間は合理性だけで消費生活を送るわけではない。どんな道具を持つのでも「他人に見せる」ことで自らのイメージの価値を高めたい欲望も付随する。

貴金属や宝石を使った過剰な装飾はこれ見よがしな成金趣味になりかねないが、洗練されたガラスのデザインは違い、知性やセンスのよさ、上品さと、それらの道具を自分でも見て楽しむ文化的な満足感を得るには適した表現媒体なのだ。

画像: ルネ・ラリック カーマスコット「ハヤブサ」 1925年 「シレーヌ」1920年 北澤美術館蔵

ルネ・ラリック カーマスコット「ハヤブサ」 1925年 「シレーヌ」1920年 北澤美術館蔵

機能性をまるで無視したと言えば、近代機械文明の機能性と利便性の象徴とも言える自動車は、当時はボンネットの先頭部分中央にラジエーターに給水するためのキャップがあり、このキャップにアクセサリーとして飾りを付けるのが一般的だった(今でもロールスロイスやジャガーなどの一部の超高級車にはこれがある)。ラリックが、普通なら金属で作るこのカー・アクセサリーをガラスで製品化したのは、さすがに実用性を度外視し過ぎ、とは思う。

しかも当時の高級車は、機能性を強調したスポーティーなスピード感こそが「付加価値」つまりセールス・ポイントだ。その先頭にガラスとは、それこそ「すぐ壊れるだろう」としか思えないのだが、これがヒットしたのだから現代の工業化社会が生み出した消費文明というのは、まこと奥が深いというか、一見合理性を追及するように見えてその実、わけが分からない。

画像: ルネ・ラリック カーマスコット「ロンシャン」第二バージョン 1929年 北澤美術館蔵

ルネ・ラリック カーマスコット「ロンシャン」第二バージョン 1929年 北澤美術館蔵

その近代資本主義の消費文明は最初の絶頂期が、ちょうどラリックのガラス活躍期と重なる。近現代消費文明は、現代にも共通することとして、矛盾した価値観の欲望があってこそ発達するものなのかも知れない。だとしたらラリック作品の個性は、その矛盾した消費の欲望を適確に射抜くものでもあった。

This article is a sponsored article by
''.