禅宗最古の「お茶を飲んでいた」記録

喫茶の習慣がまず禅寺に広まったもっとも古い記録のひとつ(これ以外に天台宗により古いものがある)が展示されている。鎌倉時代に北条執権家に招かれた中国出身の名僧・無学祖元と日本の禅僧・高峰日顕の会話で、軸装されて前半が相国寺に、後半が鹿苑寺(「金閣寺」の通称で知られる)に伝来し、展覧会のI期(12月22日まで)にはその前半、年明けに展示替えがあってII期(1月11日以降)では後半が展示される

画像: 無学祖元・高峰顕日墨跡 問答語 鎌倉時代・弘安4(1281)年 切り分けられて軸装され、前半は相国寺蔵 。後半は鹿苑寺蔵で、来年1月11日以降の II期に展示される 重要文化財

無学祖元・高峰顕日墨跡 問答語 鎌倉時代・弘安4(1281)年 切り分けられて軸装され、前半は相国寺蔵 。後半は鹿苑寺蔵で、来年1月11日以降の II期に展示される 重要文化財

無学祖元が話をしないかと弟子の高峰顕日に言うと、「もう方丈でお茶を飲んでいるので」と答えたというような会話で、内容自体は現代人には他愛もないことにも思えるが、無学祖元が師で高峰顕日は弟子、つまりお茶を飲むことが修行の一貫であることが、この会話には含まれている。

ちなみにこの文書は「会話を記録したもの」ではない。中国の高僧は日本語ができず、日本の禅僧は漢籍や中国文献の読解が基礎教養で中国語の読み書きは当然できたので、漢文の筆談で意思疎通をしていた、その筆談がそのまま保存され、軸装されたものだ。

ちなみに無学祖元はまず鎌倉の建長寺の往時(大きな禅寺の住職・トップ)を務め、その近くに円覚寺も開山しその往時も兼任、日本の禅宗に多くをもたらした名僧だ。このサイトの映画ファン読者のために付記すると、円覚寺には小津安二郎、木下恵介、田中絹代と小林正樹の墓があり、建長寺には塔頭の回春院に大島渚が葬られている。

ちなみに相国寺には他にも無学祖元の書が伝来しており、今回の展示に含まれている。こちらが堂々たる筆で、公式の文書でもあり、国宝に指定されている。

画像: 国宝・無学祖元墨跡 与長楽寺一翁偈語 鎌倉時代 弘安2(1279)年 相国寺蔵

国宝・無学祖元墨跡 与長楽寺一翁偈語 鎌倉時代 弘安2(1279)年 相国寺蔵

画像: 無学祖元の書の名作4幅を、2幅ずつをI期・II期に分けて展示

無学祖元の書の名作4幅を、2幅ずつをI期・II期に分けて展示

高峰顕日は後嵯峨天皇の第二皇子で、無学祖元に師事した。天皇家と禅宗も関わりが深く、有名なところでは亀山天皇が譲位後に禅の修行に励んだ草庵が今の南禅寺になり、花園天皇は譲位後の住居の花園御所を寄進して妙心寺を開いた。今年即位した新天皇が皇太子時代の記者会見でもっとも尊敬する過去の天皇としてその遺訓を挙げていた天皇だ。

画像: 玉畹梵芳 「石竹図」 室町時代 相国寺蔵

玉畹梵芳 「石竹図」 室町時代 相国寺蔵

いやもっとも有名なのはもちろん一休宗純、アニメの「一休さん」でもおなじみの型破りな名僧は、後小松天皇の皇子だ。

画像: 一休宗純 「梅図」 室町時代 相国寺蔵

一休宗純 「梅図」 室町時代 相国寺蔵

将軍と禅とお茶

承天閣美術館は相国寺と、一般には「金閣寺」「銀閣寺」として有名な山外塔頭の鹿苑寺と慈照寺の寺宝を収蔵・展示するために建てられた美術館だ。「金閣寺」「銀閣寺」と言えばたいていの人は気づくだろうが、相国寺は室町幕府・足利将軍家とゆかりが深く、開基(創建のスポンサー)は、「金閣」(正式には「鹿苑寺舎利殿」)を作ったことで知られる、三代将軍の足利義満だ。

画像: 夢窓疎石 墨蹟 「別無工夫(別に工夫なし)」室町時代 相国寺蔵 【II期展示】

夢窓疎石 墨蹟 「別無工夫(別に工夫なし)」室町時代 相国寺蔵 【II期展示】

足利将軍家は初代・尊氏が、のちに相国寺の開山にもなる日本史上屈指の禅の名僧・夢窓疎石を師と仰いで以来、禅宗と深い関わりがあり、夢窓疎石は義満まで三代のブレーンとして活躍した。II期にはその夢窓疎石の一行書「別無工夫」も出品されるが、これは明との正式国交樹立を目指す義満に、夢窓疎石が授けた外交の極意と伝わる。

無学祖元と高峰顕日の会話の筆談からも分かるように、日本でも禅僧ならば中国語の読み書きができて、禅宗寺院は当時の東アジア国際社会の最新事情の最先端の情報や、学術知識が集積する場だった。

画像: 無学祖元・高峰顕日墨跡 問答語 鎌倉時代・弘安4(1281)年 後半・鹿苑寺蔵 【II期展示】 重要文化財

無学祖元・高峰顕日墨跡 問答語 鎌倉時代・弘安4(1281)年 後半・鹿苑寺蔵 【II期展示】 重要文化財

孫子の「兵法」のような文献も禅寺に入って来ていたので、戦国時代には禅僧の軍師までいた(有名なのが今川義元の軍師・太原雪斎)。こうした禅寺の最先端の情報・文化・教養の一環として、喫茶の文化も将軍家のような武家にも取り入れられて広まってていく。

相国寺に伝来する、日本の禅画・水墨画のパイオニアの1人・周文が描いた有名な「十牛図」はもともと、その義満のために描かれたものだという。

画像: 絶海中津墨蹟「十牛頌」室町時代 相国寺蔵 重要文化財 全10幅を I期・II期に分けて5幅ごと展示 周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵

絶海中津墨蹟「十牛頌」室町時代 相国寺蔵 重要文化財 全10幅を I期・II期に分けて5幅ごと展示
周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵

義満は「十牛図」を、この絵の元になった、牧童と牛との関わりを禅僧の修行と悟りの過程の喩えにした寓話の各節が書かれた書を掛けて、その前に絵を広げて瞑想をしていたという。

将軍が見て、心の支えとしていた絵だと考えると、悟りを表す空白(八つ目の円相)のあと、主人公が布袋の姿になって人間の世界に戻るラストには、より深い意味が見えて来ないだろうか?

画像: 周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵 牧童が逃げた牛を探し出し、最初は暴れる牛をなんとか手なづけ、ついにはとても仲良くなるが、牛はある日突然消えてしまう。悟りを表す空白の円相と、変わらぬ世界を表す山水の後、牧童は布袋に姿を変えて再び世間に戻る。

周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵 牧童が逃げた牛を探し出し、最初は暴れる牛をなんとか手なづけ、ついにはとても仲良くなるが、牛はある日突然消えてしまう。悟りを表す空白の円相と、変わらぬ世界を表す山水の後、牧童は布袋に姿を変えて再び世間に戻る。

義満の祖父・尊氏が幕府を開いたこと自体、強烈な野心で天下の覇者に、と言うよりは、後醍醐天皇の「建武の新政」の失敗で武家に不満が渦巻く中、清和源氏の系譜のなかでも屈指の名門で、人望もあった尊氏が、後醍醐天皇とその周辺を固めた公家勢力に対抗する武士の利害代表として担ぎ上げられた面が強い。尊氏自身は後醍醐帝を、自分が京都から追放したにも関わらず深く愛していたとも読める、複雑な感情が滲み出た文書も残っているし、その崩御を深く悲しんだ尊氏が、菩提を弔うために夢窓疎石に開かせた寺が、義満の定めた「京都五山」の第一・天龍寺だ(なおこの上に別格筆頭として、亀山上皇の退位・出家後の草庵が基になった南禅寺が来る)。

足利の幕府は将軍を頂点にした上意下達型ヒエラルキーの強力な軍事政権ではなく、将軍は有力武家連合政権の上に置かれたトップ的な位置付けで、直接動かせる巨大な軍事力もなく、政権基盤も決して盤石ではなかったのだ。南朝相手の戦いでは勝利を続けたものの、開幕のわずか10年弱で足利氏内の骨肉の内紛で観応の擾乱も起こったりして、政治はなかなか安定していなかった。

画像: 周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵 四つ目の円相の絵

周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵 四つ目の円相の絵

そんな困難な立場で三代将軍を継いだのが、義満だった。軍事力を背景に権力を集中させて統治の安定を図るどころか、逆にこれ以上の武力闘争は起こせないのが大前提、と言っていい立場だ。一方で日本社会の全体では、鎌倉時代には日本的な農村共同体が成立し、徐々に農民層とそのリーダー的な在郷の地方武士も力を持ち始めていた。ゆっくりと、しかし着々と発展を続けていた農村では農業技術も進歩し、並行して平安後期からの宋との貿易で大量の銅銭が輸入され続けていたことから貨幣経済も浸透していて、社会構造が激変する過程に成立したのが室町幕府だった。

しかも足利将軍家は、京都政界を警戒して東国の鎌倉に本拠地を置いた源頼朝と違って、その京都のど真ん中を本拠とせざるを得なかった。義満が将軍の公邸=幕府の中枢を置いた「花の御所」は相国寺のすぐ隣、現在の京都御苑の西北すぐそばだ(同志社大学今出川校地の室町キャンパス)。

画像: 八つ目の円相。空白

八つ目の円相。空白

画像: 絶海中津墨蹟「十牛頌」室町時代 相国寺蔵 空白の八つ目の絵の基になったテクスト 重要文化財

絶海中津墨蹟「十牛頌」室町時代 相国寺蔵 空白の八つ目の絵の基になったテクスト 重要文化財

足利氏は現在の栃木県が本拠の東国武士。それが京都の公家たちと、特に(尊氏の力で天皇位を継承できた北朝とはいえ)天皇と直面して、政治的に渡りあわなけばならなくなったのだ。

そこで義満が目指したのが、経済の活性化で豊かさによって不満を減じ国を安定させること、その具体的な手段のひとつが中国の新たな王朝の明と正式国交を樹立しての貿易振興だった。

画像: 明永楽帝勅書 中国・明時代 相国寺蔵 重要文化財

明永楽帝勅書 中国・明時代 相国寺蔵 重要文化財

中国を中心とする東アジア国際社会の最先端の文明と文化・知識が集積する禅寺は、夢窓疎石のような優れた禅僧のアドバイスや、宗教的な権威も含め、幕府の重要な支えになり、その禅寺から得られる文化の力は、公家や天皇に見下され、してやられないための、重要な政治的武器ともなる。

画像: 周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵 最後の円相、悟りを得た牧童は布袋の姿になって世間に戻る

周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵 最後の円相、悟りを得た牧童は布袋の姿になって世間に戻る

「十牛図」のラストの、布袋に姿を変えた主人公が世間に戻る姿に、義満が自分の将軍としてやらねばならない仕事を重ね合わせ励ましとし、また戒めともしていたことは、十分にあり得るのではないか?

画像: 周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵

周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵

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