国宝 観音菩薩立像「百済観音」 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺

唐招提寺に伝来する、奈良時代の「一木造り」の、おそらく鑑真に同行した唐の仏師が関わった、つまり当時の東アジアの最先端の技術と最新のスタイルで造られた木像のうち、今回は薬師如来に加えて伝獅子吼菩薩立像(額の中央に第三の眼があることから、不空羂索観音かもしれない)も出品されている。

展示風景、唐招提寺の伝獅子吼菩薩立像は鑑真が来日時に伴った唐の仏師の作と考えられる。奥の大安寺の伝多聞天は、そこから技術を学んだ日本の仏師の作か?

隣には、平城京の巨大寺院のひとつだった大安寺に盛時から遺された9体の奈良時代の木像のうち、多聞天立像が展示されている。唐から伝わった最先端の彫刻技術がすぐに日本に取り入れられて、平安時代以降の木の仏像全盛の時代へとつながった歴史を辿る上でも、重要な作品群だろう。

重要文化財 伝多聞天立像 奈良時代・8世紀 奈良・大安寺

こうした作品からは美術史の歴史的経緯、日本にとどまらないシルクロードとアジア世界の文化交流史まで辿れ、文化財保護法にいう国宝の定義「世界文化の見地から価値の高いもので類いない国民の宝たるもの」に堂々と列せられるものとして国宝指定なのは、多くの人に普通に納得されるだろう。

一方でこの「超 国宝」展では大安寺の伝多聞天立像をはじめ、国宝指定に至ってはいない重要文化財や、未指定の厳選された作品も展示されている。

展示風景、唐から遣唐使が持ち帰ったであろう白檀製の檀像(右)と、模倣して日本でカヤを代用として造られて醍醐寺に伝来する檀像(左)。唐の白檀製の十一面観音菩薩立像(右)は藤原鎌足の長男で遣唐使で僧侶になった定恵が持ち帰ったという説もあり、明治以前にはその定恵が鎌足を祀って創建した多武峰妙楽寺(明治以降は談山神社)にあった。多武峰も正式には寺院だった聖地が明治政府によって神社に変更された一例で、多くの仏像がこの時に流出している。十一面観音菩薩立像は東京国立博物館の所蔵となって無事保護された。

大安寺の奈良時代の木像は「そろそろ国宝にしてもいいんじゃないか?」、やはり唐の影響と日本における発展の好例として並べて展示されている二体の「檀像」、白檀など稀少で硬い香木で彫られた素地の木の小型の仏像で、唐から遣唐使によってもたらされた十一面観音立像(東京国立博物館、中国・唐時代8世紀)と、日本でそれを模し、東南アジア産で輸入でしか入手できない白檀の代わりに国産のカヤを用いた虚空蔵菩薩立像(醍醐寺、平安時代・9世紀)は、前者は重要文化財で後者が国宝だ。

国宝 虚空蔵菩薩立像 平安時代・9世紀 京都・醍醐寺
腕に掛けた天衣の躍動感、指先がかがやかんばかりに生命感に溢れた手。

平安時代初期の木の仏像は、元興寺の薬師如来立像でも衣のひだの凝りようが圧倒的だが、醍醐寺の虚空蔵菩薩立像は小さな像だけに、彫刻技術の精緻さと衣の執拗なまでの細密さ、躍動感、指先が光輝くように見えるまで生気がみなぎった手に、息を呑まされる。「それは国宝だろう」と言われれば納得する理由は揃っていると同時に、しかしなぜ隣の十一面観音は重要文化財なのか?

虚空蔵菩薩は体部と衣の凝りに凝った彫刻技術の粋の一方で、頭部の髪と顔の彫り方の簡潔さが対象的で、鑿跡さえ見えそうなほどあえて素朴さを狙った表現なのも不思議だ。

国宝 虚空蔵菩薩立像 平安時代・9世紀 京都・醍醐寺

東京国立博物館の、唐の白檀製の十一面観音はその後、平安時代から中世にかけて、多くの日本製の檀像、白檀の代用としてカヤやサクラなどの硬い木材を用いた「一木造り」で素地の仏像が作られるようになるなど大きな影響を及ぼした作品だ。神護寺の本尊像のような大きな像でも「檀像」で「白檀」製と記録にはあったりする。歴史的な重要性も含め、国宝であってもおかしくないと思うが、重要文化財だ。

重要文化財 十一面観音立像 中国・唐・7世紀 東京国立博物館

その直接的な影響が指摘できそうな仏像に、奈良国立博物館に寄託されて来た霊山寺の十一面観音菩薩立像がある。醍醐寺の像ほど凝りに凝った表現ではなく抑え気味の表現だが、適確でシャープな彫りには、明らかに優れた木彫技術が見てとれる。

重要文化財 十一面観音立像 平安時代・9世紀 奈良・霊山寺

だが重要文化財には指定されているこの像、非常に奇妙なプロポーションだ。変わってい過ぎて一見しただけではそんなに優れた作品とは思わない人も多いかもというか、たとえば横から見ると弓なりにピンと張った身体で腹を前に突き出しているのは東京国立博物館の十一面観音に共通する特徴だが、それにしても腹部の膨らみが極端で、妙に太っているようにも見える。

撫で肩というにも肩がないほどで腕も寸詰まりのように短いのは、観音像は救済を表す腕が強調され、不自然に膝下まで腕が伸びている場合も少なくない中で異例だ。鼻が極端に立派な鷲鼻になっている顔も含め、独特過ぎるフォルムに「下手」とか、褒め言葉を探して「素朴」と形容する人もいるかも知れない。しかし「素朴」どころか細部の彫刻があまりに精緻で、極めて高い技術で作られているのは一目瞭然だ。

重要文化財 十一面観音立像 平安時代・9世紀 奈良・霊山寺

なぜこんなに変わった風貌なのか? 解明する文献が見つかったら、独特の表現の重要性から国宝に指定されることだってあるかも知れない。だがそれを言うなら、「百済観音」の謎の長身のプロポーションも、理由はまったく不明だ。なお醍醐寺の虚空蔵菩薩立像が近年に国宝になったきっかけは、従来は聖観音として伝来していたのが文書の調査で本来の尊格と来歴が判明したからだった。

文化財指定には歴史的な重要性も考慮されることから、醍醐寺、あるいは東大寺、興福寺、かつて平城京でも有数の大寺院だった元興寺や大安寺、鑑真という仏教史上極めて重要な僧侶が創建した唐招提寺などの寺宝や建造物が、より国宝や重要文化財になり易いのは当然だろうし、朝廷や有力貴族、中世以降では有力な武将といった政治史でも重要な人物の援助や祈願、寄進を受けたものだった場合も多い。

だが「祈り」そして「宝」と言うときに、それではあまりに一面的な、政治権力側によった歴史観ではないか、という批判もあるだろう。

弥勒菩薩立像 鎌倉時代・13世紀 奈良・林小路町自治会

奈良市・林小路町自治会の弥勒菩薩立像は文化財指定は受けていない。いかにも鎌倉時代らしいリズミカルな躍動感のある立ち姿と緻密な表現が実に端正で、運慶と共に慶派の礎を造った仏師・快慶の流れを組むとみられる。衣に施された金蒔絵の紋様も美しく、林小路町の場所(現代のJRと近鉄の奈良駅のあいだ、三条通の北で開化天皇陵の東)から考えても、かなり栄えた商人・町人たちが寄進して造ったものだろうか?

祈りは権力者の専有物ではない。今日でも奈良でも京都でも大阪でも、ちょっとした街角に石仏を納めた祠があったりするのは(実は東京でも)見落とされがちな日常の風景だ。廃寺になった寺院の仏像が地域コミュニティの「宝」として何世紀にもわたって大切に護られてきたり、地域の人々が資金を出し合って造った祈りの対象や、神仏分離令で居場所を失った神社の仏像が自治会の集会所に安置されている、と言ったことも少なくない。

弥勒菩薩立像 鎌倉時代・13世紀 奈良・林小路町自治会

この弥勒菩薩は奈良国立博物館に開館当時から寄託され、昨年大掛かりな修理が行なわれて華麗さが蘇った。こうした「宝」で今までは地域コミュニティが守り続けて来ているものでも、高齢化や過疎化で地域では護りきれなくなった時に、博物館に寄託というのも重要な選択肢になる。