四天王の足下、左右対称に様式化された邪鬼の下には、曲線を対角線状に並べた規則的なパターンに様式化された岩山、あるいは須弥山が表現されていて、大地を鎮める方位神の役割が視覚化されている。
国宝 四天王立像 多聞天 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺(台座)
岩山に立つ四天王、「百済観音」の台座は、なぜか異例の奇数の五角形、それもよく見ると左右対称ではない不等辺だ。
仏像の台座は円形が通例で六角形、八角形、あるいは四角の偶数ならわかるが、なぜなのか? 後方に張り出した角から伸びる光背の柱は竹を象り、下の方にはタケノコの皮も彫られすくすくと伸びゆく生命が表されていて、その根元に小さく、ここにも山が彫られている。
国宝 観音菩薩立像「百済観音」 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺(部分)
他に例がない不等辺五角形の台座。筍が竹へと成長して伸びる様を表した光背の支柱の最下部に、山を表す紋様が見える
三角形の岩山の形は、竹の下部の筍の皮の三角に相通じ、山が筍でそれがぐんぐん伸びて天をつくように伸びゆく竹になった、と見ることもできるだろうし、本体の全体のシルエットが極端に縦に伸びた二等辺三角形なのは、筍の皮の三角形と相似形が意識されているのかも知れない。なにしろ「百済観音」のユニークな造形は、江戸時代以前の記録がなく似た作例も皆無、手がかりはこの像そのものだけなので、逆に言えばそこに見えるモノから意味づけをどれだけ自由に発想しても、誤りにはなるまい。
山岳の風景画は法隆寺金堂の創建当時からの諸仏の台座にも描かれていて、神聖なるものと大地との関係、大地の奥底から産まれる生命といったことも想起される。こと日本列島には、仏教伝来の遥か以前から山岳信仰の伝統があった。江戸時代までこの像が置かれていた金堂の壁画にも、「阿弥陀浄土図」などに日本の山々が描き込まれている。
「法華経」の「観世音菩薩普門品(観音経)」によれば、観音菩薩は南の海に浮かぶ補陀落山にいて、南から北に向かって衆生の世界を見渡し、衆生の発するあらゆる「音を観る」(ゆえに原語のサンスクリットからの漢字訳で「観世音」)とされる、その補陀落山を表しているのが、この岩山かも知れない。
岩山が筍になり、天を突くような巨大な竹へと成長する。
展示風景 ※写真は報道内覧会より。会期中写真撮影はできません、念のため。
それこそが観音の顕現で、天災や天変地異、さらには人の煩悩が産む悲劇の底知れぬ闇に沈んだ現世を照らす救済の光・希望の灯となる。そんなイメージで構成されたこの展示室が、海底のように深い青の闇と、天井からの青い光に照らされているのも、観音菩薩が南の海の彼方から顕現して衆生を救うという教えを反映したもの、単なる博物館側の「思いつき」ではなく信仰の歴史に根差した解釈なのだ。
深海の闇に「百済観音」が自ら温かい光を発するように見えるのは、この菩薩像のまったくユニークな造形である不思議な長身と頭部だけの大きな光背の創り出す全体のシルエットが、正面から見ると蝋燭の灯火のようだからでもあろう。正面からは潔いまでに直立した長身が、横から見ると飛鳥時代の仏像の特徴でもあるS字型を緩やかに描くカーブがまた美しく、周囲を歩いて視点を変えるだけで、今度は像の全体が炎のゆらめきのようにも見えて来る。
「祈りのかかがき」という展覧会の副題は、かがやき、あるいは光は、単に「明るい」というだけでも電灯の発明の以前では体感が決定的に異なっていた。日が落ちれば闇夜になるからこそ、古代の人々は光や灯火そのものに祈りと希望を見ていたのではないか?
闇と光、「祈りのかがやき」としての金色
奈良の大仏、東大寺に聖武天皇が建立した盧舎那仏は銅の鋳造の全面に、金メッキが施されていた。大仏殿ができる前は平城京の東に朝日を浴びて燦然と光輝いていたのだろう。今日でも平城宮跡から大仏殿は一際目立って見えるが、そこに金色の巨像があることを想像してみてほしい。
国宝 金銀鍍透彫華籠(16枚のうち1枚) 南北朝時代・14世紀 滋賀・神照寺
華麗な金銅の花籠は、平安時代から室町時代にかけて同じ意匠のものの全16枚揃い。この一枚は南北朝時代のもの
大仏殿ができた後でも、「信貴山縁起絵巻」の「尼公巻」の東大寺大仏殿での参籠のシーンでは、夜でも金色の大仏が開かれた扉の向こうにかがやいている。夜でも小さな灯火があるだけで、金は光の反射率が高いのでその灯火でもよく反射して、あたかも大仏が光を放っているように見えたはずだ。
国宝 金亀舎利塔 鎌倉時代・13世紀 奈良・唐招提寺
鑑真が唐からもたらした「如来舎利三千粒」を収める白瑠璃(ガラス)の器を内部に収納するために、鎌倉時代の唐招提寺復興時に造られた金属工芸の粋。鑑真が渡航を試みた船が難破した際、海に沈んだ舎利を亀が背に載せて浮かび上がってきた、との伝承にちなんで台の部分が亀のデザインで、中央の金の打ち物の透かし彫りの中に白瑠璃の舎利容器が納められる。
光と闇の体感が電灯の発明で大きく変わってしまった現代の、闇の圧倒性がなくなった夜に慣れ切った我々が失ってしまった「光=希望と祈り」的な感覚。鏡が古代から神聖なものとされて来たのも、光を反射してかがやくものだったことも大きかったはずだ。古代の金属鏡は経年変化で色が変わってしまったり、ガラスの鏡が普及した現代では想像もつかないかも知れないが。
国宝 海獣葡萄鏡 中国・唐・7世紀 千葉・香取神宮
特別に分厚い鏡を飾る神獣と葡萄紋の驚異的な鋳造技術。なお博物館などでの展示で見られるこうした凝ったデザインが施された面は鏡としては裏面で、この反対側の平坦な金属面を磨き上げて鏡面に仕上げる。
『日本書紀』の仏教伝来の記述によれば、百済王から贈られた仏像は金でかがやいていた。仏像とくに如来や菩薩の像が経典に基づいて身体や顔が金で仕上げられていたことも、反射率が極めて高く文字通り光りかがやくことは有無を言わせぬ「体感」だったことだろう。
国宝 両界曼荼羅(子島曼荼羅)、胎蔵界 平安時代・11世紀 奈良・子嶋寺 展示期間:4月19日~5月18日
胎蔵界曼荼羅は世界の中心に大日如来がいて世界の存在する根本的な叡智そのものが大日如来、その化身と変化の関係性によってあらゆる神仏は大日如来から派生し、世界は大日如来の慈悲に満ちた母胎のようなものである、とみなす大日経の世界観に基づく宇宙の全体の有り様を図式化したもの。
深い紺地に金と銀で描かれた曼荼羅ということは、世界そのものの本質はかがやかしい光である、ということも意味する。
平安時代の中後期に、貴族たちが写経に金銀を散りばめた豪華な料紙を使ったのも、決して現代人が安易に連想してしまうように、金が高価で富や権力を象徴し、それを誇示するためだけではなかった。
仏への寄進に財産の糸目をつけないのは救済への願いの強さの現れでもあったが、それ以前に何よりも、これらの装飾写経を見てこそ実際に気づくことがある。
国宝 法華経(久能寺経)薬草喩品 平安時代・12世紀 個人蔵 この巻の展示期間:4月19日~5月18日、以降は随喜功徳品を展示
たとえば東京の浅草寺に伝わる華麗な装飾法華経は、全面が金箔を細かく刻んだ砂子で仕上げられているだけでなく、渋紙の見返しには金銀の描線で風景画が描かれている。
国宝 法華経(浅草寺経) 平安時代・11〜12世紀 東京・浅草寺 この巻の展示期間:4月19日~5月18日、以降は別の巻を展示
薄暗い菜種油の灯火しかなかった夜でも、この経巻を開けば光とかがやきに満ちた世界が目に飛び込んで来ただろう。ありがたい経の文言が光に包まれている。その言葉のありがたみを文字通りのかがやきとして体感したい、という意味があったのではないか?
見返しに描かれているのはごく普通の山水とそこで働く人々の姿だ。救いの光に満ちた仏の浄土世界とは、実は我々が生きている世界そのものである、という思想が表現されているのかも知れない。
国宝 法華経(慈光寺経) 鎌倉時代・13世紀 埼玉・慈光寺
※この巻の展示期間:4月19日~5月18日 後期は別の巻を展示
後鳥羽上皇とその后を中心に製作されたと考えられる、王朝文化の結晶のような華麗な写経。
王朝文化の最後の煌めき、鎌倉時代の後鳥羽上皇の宮廷で写経されたという慈光寺経では、見返しに描かれた山水に、葦手の手法で経文の文字が隠されている。あたかも経文の一文字一文字が仏を表し、この世界の大自然、風景のそこらじゅうに仏が宿っていることを表しているようにも思える。
「祈り」が生死に関わる真剣な行いだった時代
「信貴山縁起絵巻」の大仏殿の場面が描かれたのは、源平合戦の平家による南都焼き討ちより前、つまり聖武天皇が建立した大仏と大仏殿の姿と、それがどう見られていたのかの、貴重な記録でもある。大仏は鎌倉時代に再興されたが戦国時代の松永久秀の多聞城の戦いで再び焼失、今の四角張った顔は江戸時代・元禄年間、胴体は鎌倉時代だが、この絵の大仏はずっとたおやかで柔らかで慈悲深く、衣のラインも顔立ちも優美だ。
国宝 信貴山縁起絵巻 尼公巻(部分)平安時代・12世紀 奈良・朝護孫子寺 展示期間:4月19日~5月18日
一晩中大仏殿に籠って盧舎那仏に祈る命蓮上人の姉・尼君のさまざまな姿が、ひとつの画面に重ね合わせて描かれる「異時同図法」の代表例の場面。
「信貴山縁起絵巻」は朝護孫子寺の中興開山・命蓮上人をめぐる奇想天外な伝承を生き生きとした躍動感と飛翔感、ユーモアもたっぷりに描き、宮崎駿と高畑勲や、手塚治虫にも強いインスピレーションを与えて「元祖・日本アニメ」とも称賛される。「尼公巻」では、信濃に住み老齢を迎えた命蓮の姉・尼公が、奈良の戒壇で戒律を授かると行って旅立って以来ずっと生き別れの弟を探そうと思い立ち、奈良を訪れる。だが手がかりが見つからず、尼公は大仏殿に一晩籠って祈りを捧げる。すると夢のお告げで弟の命蓮は信貴山にいると知らされ、彼女はお告げに従って信貴山に向かう。
つまり夜の場面なのに、大仏が金色に輝くものとして表現されている。夜の闇の中でも、かすかな灯火のゆらめきでも金の反射率の高さで、太古の人々はこのように大仏を見ていた。
絵画史的には「異時同図法」、時間の経過をひとつの画面で見せる日本の絵巻物で用いられる手法の代表例とされる。大仏の右下で祈りを捧げる尼公、左下では瞑想していたり、正面に寝そべっていたり、扉の外で眠ったり。そして大仏殿の柱の前、左の扉の外に、夢のお告げを得た尼公が旅立つ姿が描かれる。
国宝 金銅燈籠 平安時代・弘仁7年(816) 奈良・興福寺
非常に細かな展示の工夫だが、照明で燈籠の灯を納める部分が光を放っているかのように見せている。
なお「尼公巻」で大仏の正面に描かれている、東大寺の金銅の八角燈籠(国宝・奈良時代)の扉は、後期5月20日以降展示される。
一晩をここで過ごして朝を迎えた尼公のその夜の、異なった時間の姿が、一体の大仏の前で展開する様がひとつの画面で描かれているわけだ。映画でいうならマーティン・スコセッシがよくやる、同じ構図のショットをいくつもディソルブで繋いで時間の経過とそのシーン内の人物の一貫した行動やその心の集中を表現するのに、極めて近い見せ方だ。
だがここで注目すべきなのは、単に絵画による物語表現のおもしろさだけではない。夜通しお堂に篭るような懸命な、心からの祈りが、かつてこの国の人々にはあった。夢のお告げなど現代の我々であれば「迷信」と鼻白んでしまうだろうが、そこにも太古の人々が捧げた真剣さがあった。
国宝 信貴山縁起絵巻 尼公巻(部分)平安時代・12世紀 奈良・朝護孫子寺 展示期間:4月19日~5月18日
大仏のお告げを受けて信貴山に向かって旅を続ける尼公。大自然の描写が美しく、丸みを帯びた山々はやまと絵風景画の典型。迎えるの鹿は春日明神の使いの霊獣で、つまりこの大自然はそのまま、仏と神々が宿る神聖な大地なのだ。
あるいは「信貴山縁起絵巻」を彩る傑出した風景描写(なお「飛倉巻」が大阪市立美術館の「日本国宝展」で展示)の数々も、今でも神木扱いの大木や滝、巨大な奇岩をパワースポットとありがたがる人々もいるが、かつては身近だった「人間世界の外」としての大自然、たとえば山々に神仏が宿るといった感覚から、我々の日常は隔絶されている。熊や猪、鹿や猿が人里に降りて来ても「事件」「社会問題」「獣害」としか受け止められないほどだ。