法蓮上人坐像 鎌倉~南北朝時代・14世紀 大倉集古館 蔵

浄土への憧れと、ひたすら救済を求めて阿弥陀如来の名を唱える念仏

「南無阿弥陀仏」と慈悲と救済の仏・阿弥陀如来の名をひたすら唱えることで死後の救済を願う「念仏」は、平安時代の中頃から流行して藤原道長などの重要人物も帰依している。特に武士が支配階級となった鎌倉時代以降には、庶民が仏教の信仰の重要な担い手になる上でも大きな位置を占めることにもなった。今日でも浄土真宗は日本の仏教の中で信徒数が最大だ。

阿弥陀三尊来迎図 鎌倉~室町時代・14世紀 大倉集古館 蔵
死に行く者を浄土に導くためにいわゆる「お迎え」に来る阿弥陀如来の姿。魂を載せる蓮台を持った観音菩薩と勢至菩薩を従えている。こうした仏画はしばしば亡くなる人の床の側にかけられ、阿弥陀如来の手から糸を伸ばして亡くなりつつある人の手に結んだりした。

そうした念仏の信仰の先駆者で、平安時代の中期に「市聖(いちのひじり)」と呼ばれて身分階級を問わずあらゆる人に念仏の教えを布教したという空也上人は、鎌倉時代に作られた六波羅蜜寺の重要文化財・空也上人立像も有名だが、大倉集古館にはその生涯を描いた室町時代の掛け軸がある。

空也上人絵伝 室町時代・16世紀 大倉集古館 蔵
最上段は出家前の、鹿と猿と共に暮らす空也。二段目でその鹿が狩人に殺される。三段目で出家して剃髪する空也と、その空也の前に出現した毘沙門天。下の三段は布教を続ける空也の姿。

上から下に時系列で、鹿と猿をかわいがって一緒に生活していた空也が、その鹿が狩人に殺されたことで世を儚んで出家し、毘沙門天の導きで「念仏」の教えを体得し、布教に努めるまでが描かれている。上下六つに分かれたこの絵の中で、毘沙門天は上から3番目の段に描かれている。

北川喜内(生没年不詳) 毘沙門天立像 江戸時代・18世紀 大倉集古館 蔵
「毘沙門天」は四天王の多聞天が単体で信仰されるときの名、「多聞天」は意訳であるのに対して「毘沙門」はサンスクリット語の元の発音に近い。四天王としては北方の守り神である多聞天は「毘沙門天」として単体としても信仰を集めた。

毘沙門天というと現代人ならたとえば、戦国時代の上杉謙信が自らをその化身と称したことなどを思い浮かべるが、そうして軍神として信仰される以外にも、この神には日本の仏教ではさまざまな役割があり、たとえば聖徳太子を毘沙門天の化身とみなす信仰があって、たとえば勝鬘経を解く太子の像に毘沙門天が組み込まれていることは、先にも触れた通りだ。

そして阿弥陀信仰・浄土信仰ではしばしば、毘沙門天は阿弥陀如来の使いとして登場する。

大倉集古館の「空也上人絵伝」がちょっと変わった絵なのは、六波羅蜜寺の空也上人立像が苦悶と宗教的な恍惚の入り混じった荘厳な顔立ちなのと比べても、空也の顔がいかにも楽しそうというか、ほとんど滑稽に見えかねないほどに浮世離れしたような至福感に満ちた顔であることだろう。

空也上人絵伝 室町時代・16世紀 大倉集古館 蔵 (部分)

学校の歴史教育などでは、念仏と阿弥陀信仰が広まった大きな理由として、ただ無心に「南無阿弥陀仏」と唱えることが簡単だったから庶民に受け入れられた、というように教わるが、確かに経典を読解したり厳しい修行をしたり、秘伝を習得して修法を行なったりするほど難しくはなさそうにも思えるものの、それだけではあるまい。

法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗の信者は農民などの庶民階級に限ったことではなく、鎌倉時代から武士もその重要な担い手だった。戦国時代に「一向一揆」が大きな勢力となって加賀一国を統治したり、織田信長(石山合戦)や徳川家康(三河一向一揆)にとってすら脅威ともなったのも、武士が門徒に多かったからこそ、戦国大名に対抗するだけの軍事力を持つことができたのだ。

当麻曼荼羅 南北朝~室町時代・14~15世紀 大倉集古館 蔵
中央に、阿弥陀如来に救済された者たちが生まれ変わる西方阿弥陀浄土の光景と、周囲に「念仏」を体得して救済に至るいわば「マニュアル」が描かれる。奈良の當麻寺で中将姫が織ったと伝承される巨大な當麻曼荼羅を原本とし、このようなその写しが盛んに作られて普及した。

武士とは、はっきり言ってしまえば人を殺すことが職業であり、それだけの罪を犯し続ければ普通なら救済は難しくなる。だが阿弥陀如来はそもそも全ての衆生の救済を一心に願って仏となった存在であるのだから、その慈悲にさえ一心にすがれば救済される、というのが阿弥陀信仰の根幹である。つまり、多くの命を奪って恨みも罪も背負った武士ですら救済され、阿弥陀如来の治める西の彼方の浄土に生まれ変わることができる、と信じることができたのだ。

空也上人絵伝 室町時代・16世紀 大倉集古館 蔵 (部分)

天災や戦災、疫病などに常に命が危機に晒されていたのが、中世の人たちの生きた世界だった。そこを生き抜くためには罪を犯さざるを得なかったことも少なくなかっただろう。

そうして苦しみながら罪も重ねて生き抜いた人もいずれ必ず死に、遺体は墓場に葬られたり野に晒されたりしてついえて行く。大倉集古館の「空也上人絵伝」の最下部には、墓場と、そこに散らばる人骨、遺体を貪っているのであろう野良犬が描かれている。ひとだまも飛び交う不気味で不吉なはずの光景の中でも、空也上人はなにやら楽しげに、踊るように念仏を唱えている。彼の唱えた「南無阿弥陀仏」の一言一言が、金色に輝く阿弥陀如来の姿になっている。

一心に念仏を唱えればその苦しみと恐怖から解放されて阿弥陀如来の西方浄土に生まれ変われる、という信仰はだからこそ熱狂的に受け入れられたのだろうし、それは現代の我々が想像するような悲壮なものでは、必ずしもなかったのではないか?

この素朴なタッチの、恐らくは庶民向けの絵伝を見ると、「念仏」に出会うことで死後の救済の希望を持てたことは、むしろ躍り上がるような大きな喜びであったのではないか、とふと思ってしまう。

鉦鼓 江戸時代・17~18世紀カ 大倉集古館 蔵
念仏を唱える者が首からかけて撞木で鳴らす鐘。空也上人の絵や像でも首に掛けられている。

と、同時に、あまりに嬉しそうな表情で念仏を唱える空也の、その喜びの発声が阿弥陀如来の姿になっているかのような描き方には、空也にとってはこの地上世界、墓場でさえ浄土と化しているのではないか、念仏を通して阿弥陀如来が本当にもたらす救済とは本当はあの世ではなく、この世のことなのではないかとも思えて来る。念仏の信仰が与えたのはこの世の絶望を逃れられるというあの世への希望ではなく、この世を生き抜くためにその意味を変換することなのではないか?

実際、鎌倉時代に浄土宗の法然の弟子・一遍の開いた「時宗」は「踊り念仏」で知られる。僧侶たちや信徒たちは「南無阿弥陀仏」を唱え、首からかけた鉦鼓を鳴らしてリズムを取りながら集団での熱狂的な踊りに身を投じ、皆で一心に念仏を唱えながら踊り狂ったのだ。

平安時代の空也上人も首から鉦鼓をかけた姿で描かれることが多いが、大倉集古館の「空也上人絵伝」の空也も、あたかも「踊り念仏」を踊っている姿にも見えて来るようだ。

重要美術品 冷泉為恭(1823~64) 山越阿弥陀図 江戸時代・文久3(1863)年 大倉集古館 蔵

徳川家康は菩提寺の浄土宗の僧に授けられた「厭離穢土 欣求浄土」という言葉を旗印にしていた。元来の意味は現世は「穢土」だからそこから離れることを望み、浄土への転生を願う言葉だ。しかし桶狭間の合戦のあと自刃を覚悟していた家康は、今の戦国の世が「穢土」だから、誰かが平和な「浄土」をこの国にもたらさなければならないのではないかと説かれ、それは自分ではないのか、と諭され、思い留まった、とも伝わっている。