聡子の場合 ── 先生との別れと初恋の終わり

冒頭のネブライザーに象徴されるように、聡子のパートには、表情豊かに変化する彼女の顔を捉えたショットが数多く登場する。社会科見学で訪れた歌舞伎で、堂々と居眠りをする場面。国語の寺尾先生(吉田羊)から渡された作文ノートを、自宅の机でひとり書き進める場面。一方、将棋部の教室でひとりタバコを手にノートを見つめる寺尾先生の顔は大人の顔であり、至ってクールだ。豊かな顔とクールな顔。対照的な2つの顔は、どちらもやはり何かを見つめている。

はじめて寺尾先生から創作を勧められたとき、聡子は遠慮して断ってしまう。自分は才能がない「普通」の人間だから小説なんて書けない、と。ここで思い出したいのが、『横道世之介』(13)である。あの映画は世之介(高良健吾)という青年を中心に据えながら、かつて彼と関わりをもった人々の現在と過去が交錯していく物語だった。彼らは世之介を思い出す。ところが思い出しているうちに、振り返られているのは世之介ではなく、彼ら自身のほうになっていく。いまここにいる自分と、その自分を形づくってきた歴史とが、世之介という他者をレンズにして、逆の側から照らし出されるのだ。他者を見ているつもりで、照らされているのは自分である。つまりあの映画は、構造そのものが対象化によって自分=他者を見つめ返すという沖田の方法論になっていた。

そのレンズが世之介でなければならなかった理由も、はっきりしている。彼の魅力を問われた祥子(吉高由里子)は「普通すぎて笑ってしまう」と答えていた。あの「普通」とは、凡庸という意味ではない。自分を特別に見せようとする力が働いていない、ということだ。普通であるとは、透明であるということである。透明だからこそ、通り抜ける像が歪まない。だからこそ私たち観客もまた、世之介というどこにでもいる市井の人の目を通して、自分自身の来し方行く末に思いをはせることになる。

画像6: ©2026「さとこはいつも」製作委員会

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内にあるものを外へ出すことと、それが他人を通って自分へと戻ってくること。この2つは、対象化という同じ動きの往路と復路である。沖田の映画はほとんど例外なく、この往復のうえに成り立っている。書くとは、自分のなかにあるものを紙の上の文字に変えて、外へ出すことである。つまり、聡子が綴る物語は、自分を外に置いて眺めてみる行為にほかならない。それゆえに、彼女の物語は劇中劇というかたちで展開していく。だが、その脱線と暴走が始まった矢先、寺尾先生は突如として学校を辞任してしまう。

物語を届ける宛て先を失ってしまった聡子。そして本作のなかでも印象的な長回しの場面がやってくる。先生のいない教室を出て呆然と歩いていた聡子は、初恋の相手である早瀬が廊下で元カノに告白されているのを目撃するのだ。陰から見つめていた聡子は、やがて自分が劇中劇の登場人物のひとりであるかのように自ら語り出す。作文=言葉による語りと、映画=台詞による語りが同期する瞬間である。

見る側と、演じる側と、書く側が、ひとりの少女のなかで一度に重なる。自分が伝えることのできなかった愛の告白を陰から見つめながら、彼女は自分の言葉を紡いでいく。目の前で起きている一回きりの残酷な出来事を、語りうる素材へと変えていく瞬間。そして聡子は書きためた作文ノートをゴミ箱に捨てて、校庭へと走り去っていく。

遊びとは記録を残すためのものではない。聡子はノートを手放し、鬼ごっこを終えた子どものように走り出す。駆け出した彼女は、そのまま大人の世界へと一歩を踏み出していく。物語を書くこと、つまり自分を演じ対象化することによって、ひとつの別れと始まりが描かれている。美しく見事な場面だ。

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沙都子の場合 ──3重の対象化=フィクション

35歳の沙都子もまた、絶えず何かを見つめている。自宅のテレビで見る韓流ドラマ。会議で使う資料を映すモニター。そして「ドラマよりもドラマみたい」な自らの物語を綴るツールとしての、ノートパソコンの画面。

中学生の聡子と異なるのは、沙都子はさまざまな人生経験を積んできた女性ゆえのしたたかさを持っているところだ。浮き沈みの激しい映画の配給宣伝という世界を賢く生き抜いてきた冷静さと、損得を考慮できる客観的な視点で彼女は武装している。韓国映画の日本版ポスターを決める企画会議で見せるキレキレの沙都子がそうした表の顔だとすれば、居酒屋で不倫相手の村本(オダギリジョー)と一緒にいるときの沙都子は裏の顔だろう。眉間に皺を寄せて人に威圧感を与えてしまう沙都子がいれば、自宅に帰って塩辛をつまみながらニヤけた顔で韓流ドラマに見惚れ、颯爽と風呂へ向かう沙都子もいる。趣味と仕事、純愛と不倫、憧れと幻滅。そのギャップを嫌というほど実感しながら日々を過ごしてきた女性の、リアルでありきたりな「普通さ」を、ここでも沖田は温かくユーモラスに見つめている。

考えてみれば、映画宣伝とは、他人のつくった作品を切り取り、キャッチコピーやポスターに集約し、紹介することで成り立つ仕事である。彼女は人やものを外から眺めて値踏みすることの、いわばプロなのだ。その沙都子が、仕事で使っているのと同じノートパソコンをはじめて自分のために開く。それは仕事の道具がそのまま遊びの道具に変わる瞬間でもある。

画像8: ©2026「さとこはいつも」製作委員会

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そうして聡子や里子とも交錯しながら、沙都子もまた自らが綴る物語の登場人物のひとりとして語り出す。しかもここには、もう一捻りある。彼女が観ている韓流ドラマという、もうひとつのフィクションによる視点が加えられているのだ。劇中の現実と、沙都子の綴る物語と、韓流ドラマ。3重のフィクションが対比され、同時に映し出される。

やがて沙都子は自らの物語を静かに描き終える。そのときに彼女が見せる、モナリザのような微笑のが忘れ難い。沖田監督自身が「僕は沙都子が読んでいる顔を見ただけで泣けてきました」と語る、3重のフィクション=境界を収斂させたその表情と微笑の瞬間を見逃さないでほしい。そして彼女もまた、書き上げたものを手放していく。2人目の「さとこ」も記録を残さない側を選ぶのだ。それでいて、サラッと新たな幸せを見つけてしまいそうな顔で。

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里子の場合 ── 本と小鳥とトランポリン

55歳の里子がまず見つめているのは、卒業式を迎えた高校生の息子に持たせるお弁当だ。3人の息子を育て上げた最後のお弁当作りを終えた彼女は、その足で自分のために花を買いに行く。

「食」という、あまりにも自明で、それゆえに誰もが当然のこととして気にも留めていない、しかしその支えがなければ成り立たない大切な生の一部。『南極料理人』然り、沖田作品において食は重要なモチーフのひとつである。あの映画のむさ苦しいおじさんたちも、極地という非日常のなかで、米を炊き、麺を茹でるという日常を反復しつづけていた。ゆえに、息子たちが高校を卒業して自立するまで20年間欠かさず続けてきた里子のお弁当作りが、やがて夫の重明(筒井道隆)によって、返礼のように美しく反復されることになるだろう。

現実では3人の息子を育て上げた母親である里子は、自らが綴る物語のなかでは雪深い書店に通う小鳥となり、静かに本を読む書店員(細田佳央太)とともに同じ時を過ごす。この里子の創作世界を彩るのは、一コマ一コマ気の遠くなるようなコマ撮りアニメーションだ。その飛翔する小鳥の身軽さに対比されるように、趣味のトランポリンで宙を飛ぶ里子のユーモラスで飄々としたバイタリティが印象的だ。トランポリンの場面で、里子役の石田ひかりは沖田監督から「“無”の表情で跳んでください」と指定されたという。20年間、毎朝お弁当を作り続けた身体が誰のためでもなく、無表情で何の役にも立たない反復をしている。そんな里子の姿を見ていると、こちらも可笑しみとともに肩から力が抜けていく。

画像10: ©2026「さとこはいつも」製作委員会

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書店員に淡い恋心を抱いていた里子は、やがて彼が読んでいた本そのものに惹かれるようになっていく。愛の対象が人から物語へと移る。何気ない述懐に見えて、これは本作の設計図そのものでもあるのではないか。人に向けられた恋は、その人との関係が終われば行き場を失う。聡子の初恋も、沙都子の6年間の不倫生活も、そうやって閉じていくものだった。ところが物語に向けられた恋は閉じない。誰かに手渡すことができるからだ。遊びは相手がいなければ続けられないけれど、遊びそのものは、次の誰かとまた始められる。だから3人のなかで里子だけが、書いたものを捨てることはない。

彼女は自分の綴った物語を家族に見せ、入院中に隣室になった沙都子にも見せる。そして里子が綴る物語のなかで、本作を決定づける象徴的な台詞を書店員が口にする。「人は誰でも一冊は自分の本が書ける」のだと。この世には、生まれてこなかった物語=本が無数にある。だから、他の人に見てもらわないと、それはなかったことになってしまう。病院で里子が沙都子にかけるこの言葉が、やがて自らの物語を綴るきっかけにもなることを、このときの沙都子はまだ知らない。

画像11: ©2026「さとこはいつも」製作委員会

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誰かに見てもらわないと、なかったことになってしまう

聡子は物語を捨てた。沙都子も手放した。里子だけが他人に見せた。3人の書いた物語がたどった運命に正解はない。それは遊びに正解がないのと同じだ。何より大事なのは、この3つが並列ではなく、繋がっているということだろう。

里子が見せたからこそ、彼女の言葉は沙都子に届いた。さらに里子の書いた物語を寺尾先生が読んでいる。時系列の理屈は、明らかに合わない。だが沖田は「その時点で既に時系列的な理屈は合わないけれど、観客の脳内で面白く繋がっていけばいいなと考えた」と振り返る。プロデューサーである筒井竜平の言葉はさらに踏み込んでいる。人が人に影響を与えながら、それが循環していくような映画を作りたい、だからこそメビウスの輪のように、その起点をはっきりさせたくなかった、と。

つまり、この連環には始まりがない。誰が最初に自分の一冊を差し出したのかは、決められないようにできている。20年間、毎朝お弁当を作り続けてきた普通の母親が、35歳の映画宣伝担当者と15歳の中学生を「書く」という行為へ送り出しているようにも見えるし、聡子に作文ノートを渡した寺尾先生が、里子の本によってそこへ導かれたようにも見える。どちらが先でもいい。どちらでもないから、この輪はどこまでも回り続ける。

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書店員の言葉を、もう少し考えてみたい。人は誰でも一冊は自分の本が書ける、というのは、文章がうまいかどうかの話ではない。人が生きてきた時間には、誰にも話さなかった出来事、自分だけが覚えている風景、言えなかった感情、些細すぎて記録されなかったこと、失敗や後悔、誰かからもらった言葉、誰にも知られないまま消えていった関係が無数にある。ここで言う「本」とは物体ではなく、その人が生きてきた固有性そのものだ。だからそれは、誰の内にもすでに存在している。

問題はそれら内側にある物語と、世界に存在する物語が同じではないということである。語られなければ、聞かれなければ、記憶されなければ、それは世界のなかに現れてはこない。見られること、語られること、記憶されること、受け継がれること。この連環は、どこかで切れればそこで終わる。見られなければ語られず、語られなければ記憶されず、記憶されなければ受け継がれず、最初からなかったのと同じことになってしまう。だから世界には、実際に書かれた本よりもはるかに多くの本が、生まれないまま消えていくのだ。

そう考えると、書く=対象化という行為の意味が少し変わってくる。相手を都合のいいカテゴリーに閉じ込めるという支配が、そこにあることは間違いない。しかし同じ操作が、他者を発見する行為にもなりうる。誰にも注目されなかった一人の人生を、誰かが読み、受け取る。その瞬間、その人はただの母親ではなくなり、雪の日に書店へ通ったことのある一人の人間になる。書くこと、見ることは、単に対象を認識することではない。他者のなかにある、まだ語られていない物語を世界に出現させる行為でもあるのだ。

それでも書かれなかったもの

もっとも、書けば済むという話でもない。

沖田は昨年、『おーい!どんちゃん』(25)という奇跡のような一本を公開している。生後半年の自分の娘を家庭用のビデオカメラで撮りはじめ、その周りに、演じることを生業としながら演じる機会のない俳優たちを置いて、3年間、赤ん坊の成長を見守り続けた作品だ。

あの映画で起きていたことを、私はこう考えている。演じている俳優たちは、自分を対象化して遊んでいる。カメラもまた彼らを対象化して記録している。ところが中心にいるどんちゃんは、演じていない。演出も届かない。泣くときに泣き、笑うときに笑い、カメラが回っていることの意味を知らない。演じることの根本には見ること=見られることという「まなざし」があるとするなら、唯一の例外は自分が見られていることをまだ知らない者だろう。どんちゃんは対象化されることはあっても、それに応答することがない。自分を外から見ることがなく、だから演じることもできない。

それゆえに、俳優たちの演技は赤ん坊の反応に合わせて毎回変わってしまい、台本どおりにはいかない。つまりあの映画には、決して捉えきれないものが、ひとつだけ中心に置かれていた。だからこそ、周りで繰り広げられる大人たちの遊びがあんなにも愛おしく、可笑しく見えたのだと思う。それは愛する子の成長を記録したホームビデオであると同時に、物語=フィクションによる祝福でもあるのだ。人はなぜ演じ、撮り、作品をつくって他人に見せるのか。あの映画はその答えを、まさに演じ、撮り、作品をつくることによって描いていた。

では、『さとこはいつも』における「どんちゃん」は何だろうか。それは、書かれなかったもの自体ではないか。捨てられた聡子のノートにも、手放された沙都子の原稿にも、出版された里子の本にも、いちばん大事なところは書きつくされていない。里子の一冊は雪深い書店に通う小鳥の話であって、20年分のお弁当そのものではないのだ。物語は生きられた時間の代わりにはならない。しかし、だからこそいいのではないか。書きつくせないから、映画はそれを裁くことができない。裁けないから、受け入れるしかない。書かれなかった一冊=人生が、この映画の中心で赤ん坊のように守られている。

画像13: ©2026「さとこはいつも」製作委員会

©2026「さとこはいつも」製作委員会

まなざしを受け継ぐ

沖田作品には、常に人間への優しいまなざしと愛情が流れている。カメラで人を撮るとは、人を対象化し、イメージ=像にすることだ。沖田はそれを隠さない。あるときはロングショットのなかに小さく人を置き、鼻にホースを差し込み、無表情でトランポリンを跳ばせ、そして何かを見つめている人物の顔に寄る。だが彼はそれを支配のためではなく遊びとして、一回きりの判決としてではなく何度でもやり直せる試みとして行う。だからこそ、イメージ=像にすることが裁くことにならず、受け入れることになる。書けないまま、普通すぎるまま、格好がつかないまま、その人の歩んできた人生を丸ごと肯定すること。

まなざすことの反対は、見ないことだけではない。あなたはこういう人だ、と決めてしまうこと。それもまた、見ないことの一種である。その人の物語がこれから変わりうる可能性を、先回りして奪ってしまうからだ。『モリのいる場所』(18)の熊谷守一が、庭の虫を分類も意味づけもせずに30年見つめ続けたように、沖田のカメラは対象を手放さないまま過程を捉え、結論を出さない。彼が判断を下さないのは、優柔不断だからではない。一度決めてしまえば、その人はもう見られなくなるからなのだ。

そして遊びには、支配にはない性質がもうひとつある。ひとりではできない、ということだ。鬼ごっこには、必ずもう一人いる。そして役は入れ替わる。撮る者と撮られる者、見る者と見られる者、書く者と読む者も同じだろう。沖田は撮る前に、まず自分を撮って見せた。里子は書いて見せ、それを読んだ沙都子が書き手になり、その本を読んだ寺尾先生が聡子に作文ノートを渡した。差し出された物語は、受け取った人のなかで動きはじめ、その人を次の書き手に変えてしまう。対象化という行為は、そうやって循環するとき、支配であることをやめるのだ。

ラストシーン、3人の「さとこ」が小説の書き方を教える講座に集う。捨てた人も、手放した人も、見せた人も、そろってまた同じ教室にいる。教室の開け放たれた窓からは、穏やかな陽光と、風に揺れる鮮やかな緑が差し込んでいる。授業が始まり、3人のさとこが黒板を背にした講師へと視線を移したところで、物語は幕を閉じる。

だが、その3人のまなざしは私たち観客へと受け継がれ、新たな物語の始まりへと繋がっていくに違いない。沖田作品の人物たちがいつも何かを見つめているように、いつのまにか私たちは映画を見ることで、私はこの人をどう見ているのだろう、と自分のまなざしのほうを意識しはじめる。誰かの人生があり、それを演じている俳優を見つめる監督のまなざしがあり、映画を見つめる観客のまなざしがある。

画像14: ©2026「さとこはいつも」製作委員会

©2026「さとこはいつも」製作委員会

映画とは、本来なら誰にも見られずに消えてしまったかもしれないものを記録し、そこに観客のまなざしを与える行為だ。だとすれば、まなざしを受け継ぐとは、誰かのものの見方を真似ることではないだろう。それは誰かの物語を見つけ、それを世界から消さないでおくという、ささやかな責任を引き受けることなのだと思う。

まなざしは一方向ではない。見る者が、見られる者をつくる。しかし、見られた者の物語が、今度は見る者をつくり変える。里子の一冊が沙都子と聡子を書き手に変えたように、私たちは誰かの物語を読むことによって、自分自身の一冊=人生を書き換えていく。沖田作品における「対象化」とは、そのような相互的な生成を秘めたものなのだ。

主題歌「シミレ」を書いた折坂悠太はこう記している。「創作の途中にふと、『これは誰かの物語とつづいてる』と思う事があります。(中略)エンドロールが終わりじゃなく、句読点になるように。またここから物語を紡ぎ出す誰かに、思いをはせながら歌いました」。句読点は、文を終わらせない。3人のさとこは、いつも試している。だからこれは、自分の一冊なんて持っていないと思っている、すべての人たちの映画だ。そして映画館を出た私たちのなかでは、まだ生まれていない一冊が、少しだけ、生まれかけている。

『さとこはいつも』予告編

画像: 9月18日(金)全国公開✍映画『さとこはいつも』本予告! youtu.be

9月18日(金)全国公開✍映画『さとこはいつも』本予告!

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STORY

同級生に恋する鼻炎持ちの中学 3 年生・ソフト部所属の中井聡子(15 歳)。姪っ子と韓国カルチャーLOVE!映画配給会社の宣伝部でバリバリ仕事しつつ、6 年目になる不倫が倦怠期を迎えている西田沙都子(35 歳)。子育てがひと段落、ようやく自分の時間ができた飯島里子(55 歳)。
三者三様、まったく違う人生を歩む 【 さとこ 】 たち・・・。それぞれに降りかかる出来事や運命的な出会いをきっかけに、自分の人生を“物語”として書き始めたとき、3人の「さとこ」たちが少しずつめぐり合っていきーー!?

出演:有村架純、石田ひかり、姫野花春
黒田大輔、青木柚、細田佳央太 / 吉田羊、オダギリジョー、筒井道隆 ほか

監督・脚本:沖田修一
音楽:柴田聡子
主題歌:折坂悠太「シミレ(feat.柴田聡子)」

2026年|日本|139分|ビスタ|カラー|5.1ch
製作幹事:アミューズクリエイティブスタジオ
配給:ハピネットファントム・スタジオ
制作プロダクション:オフィス・シロウズ
助成:文化庁文化芸術振興費補助金(日本映画製作支援事業)独立行政法人日本芸術文化振興会
©2026「さとこはいつも」製作委員会

公式 X(旧 Twitter)/公式 Instagram/公式 TikTok:@satoko_movie #さとこはいつも

9 月 18 日(金)TOHOシネマズ日比谷ほか全国ロードショー

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