So close, no matter how far
Couldn′t be much more from the heart
Forever trusting who we are
And nothing else matters

どんなに遠く離れていても、心はすぐそばにある
これ以上ないほど、心からの想いなんだ
ありのままの自分たちを、ただ信じ続ける
それ以外は何も大切じゃない

──ラーズ・ウルリッヒ、ジェイムズ・ヘットフィールド「Nothing Else Matters」

声から現れる女性

修道院の暗がりのどこかから、喘ぐような声が聴こえてくる。フェデリコ(ピエール・ジョルジョ・ベロッキオ)はその声に引かれて歩いていく。辿り着いた先にあったのは、生きたタロットの札のように、天井から逆さ吊りにされた女性の身体だった。修道女ベネデッタ(リディア・リバーマン)は、まず声として現れる。姿より先に声が来る。この順序に、この映画の機制がすでに現れているように思う。

私たち観客がその声を最初に聴く瞬間、原因はまだ画面に映っていない。何の声なのか判断できない。そして苦痛に喘ぐ声は、快楽のさなかに漏れる息づかいと、聴覚のうえではほとんど区別がつかない。吊るされた身体を目にした時点で、その声はようやく「拷問の悲鳴」として意味づけられる。だが、先に聴いてしまったものは取り消せない。この居心地の悪さは観客の邪推ではなく、演出の順序そのものが作り出している。

異端審問がこの女性に求めているのは「言葉」だ。悪魔と契約したという自白である。ところが拷問という装置が身体から引き出すのは、言葉ではない「声」だ。意味を持たない、ただの息と音。しかもその声は、審問官たちが探し当てようとしていたもの──この女性が肉の欲に取り憑かれているという証拠──を、彼ら自身の手で作り出してしまう。抑圧の装置が、抑圧しようとしたものを生み出しているのである。

画像1: 声から現れる女性

ベネデッタにかけられた嫌疑は、男を誘惑したというものだった。だからこそ、この場面は恐ろしい。映画はまさにその誘惑を演じてみせるのだ。男は声のするほうへ歩いていき、引き寄せられていく。ただし誘惑しているのは彼女ではない。彼を引き寄せたのは、あくまでも彼が仕える側の教会が動かした装置である。

逆さ吊りといえば、タロットの「吊るされた男」が思い浮かぶ。あの札が示すのは停止と、視点の反転だ。落ちることも立つこともできない、中間の姿勢。この声を痛みとして聴くのか、それとも別のものとして聴いてしまっているのか。私たちが決めきれずにいることも、おそらく同じ宙吊りの一部だろう。

この一点から先、映画の空気が変わる。修道院の独房にも、周囲の森や川にも、ベロッキオ特有の不穏な官能が霧のように立ちこめはじめる。そしてやがて、驚くべきことが起きる。兄の潔白を証明し、名誉を回復しに来たはずのフェデリコは、いつのまにか兄を殺したとされる女に囚われているのだ。

画像2: 声から現れる女性

代替としての落下

第一部の舞台は1630年、イタリア北部の町ボッビオ。反宗教改革のただ中、異端審問と魔女裁判が最も苛烈だった時代である。フェデリコの双子の兄ファブリツィオは神父で、トレッビア川に身を投げて死んだ。自殺者は聖別された地に葬られない。兄を救うには、彼を誘惑した「魔女」の自白が要る。母に急かされて、弟が名誉回復に走る。兄の魂を救うために、一人の女性を差し出すということ。ここに、本作の核心がある。

異端審問がベネデッタに課す最初の試練は、鎖を首に巻かれたまま同じ川へ落とされることだ。兄が自分から落ちた水へ、女性が他人の手で落とされる。のちにフェデリコは、ベネデッタから渡された鍵を同じ川へ投げ込む。兄の身振りを、そのままなぞるように。

落下という現象は、ベロッキオの作品を貫く重要なモチーフだ。1965年の長編デビュー作『ポケットの中の握り拳』では、主人公アレッサンドロが盲目の母を谷底へ突き落として殺す。妹ジュリアは階段から落ち、以後ほとんど起き上がれなくなる。そもそもアレッサンドロという人物は、木の枝から飛び降りて画面の中へ跳び込んでくる。彼は歩いて入ってこない。落ちてくるのだ。1980年には、まさに『虚空への跳躍』と題した映画を撮っている。窓からの落下で始まり、窓からの落下で終わる映画だ。最後に身を投げるのは、妹を自殺へ追い込もうとしていた判事のほうである。しかも彼は、自分が妹のために思い描いていたのとまったく同じやり方で死ぬ。

なぜ、これほど落ちるのか。2021年のドキュメンタリー『マルクスは待ってくれる』で、ベロッキオは初めて双子の弟カミッロの死を正面から語った。カミッロは1939年11月9日、兄であるマルコの3時間後に生まれ、体育教師として活躍していたが、1968年12月、29歳の若さで自ら命を絶っている。そのとき指摘されたのは、彼がそれまで映画で描いてきた死=自殺が溺死や飛び降り、あるいは銃弾ばかりで、弟が実際に選んだ縊死ではなかったということだった。

落下や溺死は、直視できなかった死の身代わりだったのかもしれない。半世紀にわたって、彼は語れない一つの死を、別の仕方に置き換え続けてきたことになる。1630年という時代設定も、そう考えると考証の結果ではなく、距離として選ばれたものに見えてくる。実際にベロッキオは、製作会社カヴァック・フィルムの公式サイトに寄せた演出ノートで、そのことをはっきりと書いている。この映画の深い動機は双子の弟の死に対して、間接的に「変容した」形で立ち返ることであり、それはすでに『Gli Ochi, labocca(目と口)』(82)で語ったことだが、無意識の縛りが強く、結果として映画を損なってしまった、と。「1630年という遠い設定が、自分の伝記に追い回されずに同じ主題へ戻る自由を与えてくれた」。380年という距離を経て遠ざかることでしか語れないものがあったのだ。

画像: 代替としての落下

監禁される者と自ら監禁する者

異端審問が課す拷問に対して、ベネデッタは不敵なまでに何も語らない。言葉=告白を求める教会と彼女との関係に、マンゾーニの古典『いいなづけ』を思い出す者は多いだろう。ベロッキオ自身、演出ノートでこの古典に登場するモンツァの修道女を下敷きにしたと書いている。モデルとなったマリアンナ・デ・レイヴァ(1575-1650)は、修道院で密通し、拷問を伴う尋問の末に、1608年の判決でミラノの悔悛女子院へ生きたまま壁に塗り込められた。食物と光のための隙間を二つだけ残して。マンゾーニは彼女が堕ちる瞬間を「あの不幸な女は答えた」の一行で済ませ、その先を書かなかった。イタリア文学史上でもっとも有名な省略である。

しかし、ベロッキオのベネデッタは答えない。マンゾーニの修道女が答えた=堕ちたのに対し、彼女は答えないことで、告白を引き出す仕組みそのものを内側から無効にしてしまう。ベロッキオはマンゾーニが省略した位置に、あの言葉ではない声を置いたことになる。そこで教会が最後に選ぶのが、「壁詰め」だ。言葉を諦めた権力による最終手段。落としても殺せなかった身体を、こんどは動かないように固める。壁の中の彼女は、落ちることも立ち上がることもできない。そしてそれは、身体の周囲に型を取る作業でもある。石膏が像を包むように、石が生身を包む。生きたままデスマスクを取る、と言い換えてもいい。

落下と同じく、この壁詰め=監禁もまたベロッキオ作品における重要なモチーフの一つだ。1972年の『Nel nome del padre(父の名において)』の寄宿学校は監獄であり精神病院でもあり、『夜よ、こんにちは』(03)のアルド・モーロは赤い旅団の用意した「人民の牢獄」に押し込められる。『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(09)のイーダ・ダルセルはムッソリーニの妻だと主張しつづけたために精神病院へ送られ、そこで死ぬ。彼女は独房の壁にまで文字を書きつけ、封をした手紙を窓から外へ投げる。手紙は中庭に落ちるだけで、拾い集めるのは修道女であり、投函されることはない。

イーダは「妻である」と言うのをやめず、ベネデッタは「魔女である」と言わない。どちらも、権力が要求するたった一言をめぐって、身体を建物の中へと監禁される。修道院と精神病院は同じ用途の建築物なのだ。これがベロッキオの個人的な偏執ではなく、明確な政治性を持ったものであることは、1975年のドキュメンタリー映画『Matti da slegare(縛りを解くべき狂人たち)』が証している。精神病院の廃絶を求める運動に加勢して、ベロッキオは実際の施設の内側へカメラを入れた。映画の終わりに置かれているのは、閉鎖されつつある施設で催されるダンスである。

つまり、ベロッキオの描く監禁は常に失敗するともいえる。精神科医マッシモ・ファジョーリと組んでいた時期の『サバス』(88)にも、異端審問に晒され、遥かのちの時代に精神科の患者として再来し、その眼差しだけで医師を溶岩へ突き落とす女性が登場する。本作のフェデリコを襲うのも、これと同じ呪縛だろう。

画像: 監禁される者と自ら監禁する者

そして第二部。現代のボッビオで今は廃墟となった同じ建物に、夜しか姿を見せない老伯爵バスタ(ロベルト・ヘルリッカ)が棲みついている。8年前から生者の世界を降りていて、生きているとも死んでいるとも認定されないため、妻は扶養料も遺族年金も受け取れない。ベロッキオの演出ノートによれば、この人物が体現するのは、近代化とグローバル化が消し去った地方のイタリアであり、政党と労働組合の協調体制に守られていた村としての「心地よい孤立」の喪失である。裏で不正を仕切りながら、鎖国じみた道徳を掲げてSNSという悪魔的な現代を遠ざける、陰気なキリスト教民主党的フリーメイソン。演じるヘルリッカは『夜よ、こんにちは』で誘拐されたアルド・モーロを演じた俳優だ。かつて監禁されていた男が、ここでは自分で自分を監禁している。片方は権力によって壁へと封じられ、他方は権力を守るために自らを壁へ封じた。ベネデッタと老伯爵は、同じ建物を介した表と裏の存在なのだ。

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