汝の血の血
第二部の現代編に、老伯爵の取り巻きの一人であるドクトル・カヴァンナが、こんなことを口にする場面がある。ソヴィエトでは子どもは国家のものとされたが失敗した。なぜか。それは「汝の血の血、汝の肉の肉」だからだと。つまり「私の血に流れる血」という本作のタイトルは、反動の側にいる男が吐く政治的な教義なのである。血は必ず国家に勝つ。共同体がどれほど人間を作り替えようとしても、最後には血縁が残る。戦後イタリアでカトリック的右派が唱え続けてきた主張が、ここに圧縮されている。
この「汝の肉の肉」という句は、アダムがエヴァを見て発した言葉、創世記第2章23節の中にある。聖書の中で、この定型句は愛の告白としてよりも、むしろ政治的な要求として繰り返される。ヤコブに向かってラバンが「これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」と言い、ダビデを王に推すためイスラエルの諸部族が同じ文句を唱える。また士師記第9章においては、ギデオンの子アビメレクは母方の一族に「私はあなたがたの骨、あなたがたの肉だ」と訴えて支持を取りつけ、その資金で兵を雇い、70人の異母兄弟を一つの石の上で殺している。つまり血の定型句とは、権力を要求するための言葉なのだ。そして兄弟殺しの前口上でもある。
カヴァンナは感傷を語っているのではなく、由緒どおりにこの句を吐いている。そう考えると、二つの時代が同じ言語を使っていることが見えてくる。17世紀の教会は神の名においてベネデッタを裁き、現代の評議会は血の名においてボッビオを回している。どちらも聖書を引きながら、修道院と一族は同じ制度を二度見せられているにすぎない。
老伯爵の異様さも、そこから逆算できる。血が必ず勝つとして、勝利した血はその後どうなるのか。その答えが彼である。血を次の世代へ渡すのではなく、次の世代から吸う者。若さを羨む老人とは、要するに血を渡すことを拒んだ者のことだ。第一部も同じ光に照らされている。フェデリコがボッビオへ来るのは血の義務のためだった。血への忠誠こそが、あの残酷さの動力なのである。そして彼は、あの声を聴いた瞬間から、兄弟であることをやめてしまう。
タイトルの二重性も、ここに共鳴している。息子ピエール・ジョルジョ・ベロッキオが両時代のフェデリコを演じ、娘のエレナも兄アルベルトも出演している。しかもクレジットを見るかぎり、30年後に枢機卿となったフェデリコを演じているのは、その兄アルベルト・ベロッキオその人だ。生き残った兄弟の老年を実の兄が演じている。反動の男の台詞をタイトルに掲げた映画を、ベロッキオは文字どおり自分の「血」で撮ったことになる。

聖骸布の陰画
終幕において、30年後に枢機卿となったフェデリコが呼び戻される。かつてその壁を築いたのと同じ、いまや老いた石工たちが壁に穴を穿つ。淡い塵の渦と強烈な白い光の束が枢機卿を打ちのめし、そこから、少しも老いていないベネデッタが現れる。この極めて印象的な場面で私が思い出したのは、アンドレ・バザンの聖骸布だった。
バザンの論考「写真映像の存在論」(45)は、エジプトの防腐処理の話から始まり、トリノの聖骸布への言及で閉じられる。聖骸布は聖遺物と写真の両方の性質を兼ね備えている、と彼は註に書いた。論文に添えられた唯一の図版は、ジュゼッペ・エンリエが1931年に撮影した聖骸布の写真である。聖骸布が特別なのは、それが描かれた像ではなく、触れて残った像だからだ。バザンの言う「ミイラ・コンプレックス」、つまり時間から身体を救い出そうとする欲望のもっとも純粋な形がそこにある。
ベネデッタを封じた壁はその陰画のように見える。布は去った身体の像を残し、壁は残った身体の像を封じる。どちらも接触による型取りであり、どちらも「まだ在る/もう無い」の中間に人を宙吊りにする。そして石工が穴を穿つ瞬間、向きは反転する。聖骸布は身体が去ったあとに像を与えるが、壁の穴は像のあとから身体を返すのだ。四角い開口部から光が差し込み、その向こうから人が現れる。これは映写そのものの構造ではないか。私たち観客が二時間向き合ってきたスクリーンが、そのまま画面の中に建て直されている。第一部でベネデッタより先に来たのは声だった。ここで先に来るのは光である。音、そして光。観客がこの二時間ずっと受け取ってきた、映画を構成するたった二つのものだ。
聖骸布と映画装置の縁は、歴史の上でも結ばれている。1898年5月、トリノでセコンド・ピアが初めて聖骸布を撮影したとき、その陰画から浮かび上がった像によって、人類は初めてあの顔をはっきりと見た。奇跡は機械を必要としたのである。だから、あのラストは宗教的な奇跡ではない。映画的な奇跡なのだ。教会は30年かけて彼女を壁に閉じ込め、聖体を差し入れ、聖女として消費しようとした。だが彼女が現れるのは聖体の力によってではない。壁に四角い穴=スクリーンが開いたからである。

ベロッキオがここで正真正銘の「復活」を演出してみせるのは、彼のキャリアのなかでも例外的なことだ。『母の微笑』(02)では、家の名誉のために母を列聖しようとする一族と、それに戸惑う無神論者の画家を描いていた。教会の起こす奇跡を、彼はずっと疑い続けてきた。だが矛盾ではないだろう。彼は奇跡を否定したのではなく、奇跡の在り処を、教会から映写室へと移したのだ。
そしてベネデッタは、誰の血でもない。この映画に出てくる人物のうち、彼女だけが誰とも血で繋がっていない。血縁を口実に彼女を壁へ塗り込めた男たちがいて、しかし彼女を外へ出すのは血ではなく、壁に開いた穴なのである。母胎ではなく建築から、血ではなく音と光から生まれ直す。血によらない生誕、と言ってもいい。最終場面、老伯爵が若いエレナの飾り気のない美しさを追いかけたのち、地に崩れ落ちる。枢機卿フェデリコが倒れたのと同じように。17世紀の教会権力と現代の世俗権力。どちらも若い女性の出現の前で倒れる。二人の屍の上を、美しさが歩いていく。
二つの時代を縫い合わせているのは、同じ土地でも同じ血でもない。この同じ構造だったのではないか。壁を築いた者が、その壁の向こうから来るものに耐えられずに倒れる。落ちる役もそこで入れ替わっている。川へ落とされ、逆さに吊られ、壁のなかへ封じられていた女性は、立って歩き出す。落とす側にいた男たちのほうが、崩れ落ちる。ベロッキオが半世紀にわたって描いてきた落下は、この映画の終わりで、落とされた者から落とした者へ手渡されるのだ。
デビュー作で木から飛び降りてスクリーンの中へと落ちてきたアレッサンドロの50年後、ベネデッタは壁の中からスクリーンの外へと歩き出す。壁を壊すのは、かつてその壁を築いた石工たちである。老いた同じ人間が、自分の積んだ石を崩す。ボッビオという町は、ベロッキオが『ポケットの中の握り拳』の舞台として撮り、事あるごとに帰郷している故郷だ。彼は再びそこへ戻り、かつて自分が築いたものの前に立ち、そして穴を開けた。本作は老境の穏やかな感慨とは無縁な、いびつで不敵な傑作といえる。
『私の血に流れる血』予告編
STORY
1630年、イタリア北部の町ボッビオ。サンタ・キアーラ修道院づきの若い神父ファブリツィオが、トレッビア川に身を投げて命を絶つ。教会は、修道女ベネデッタが悪魔の力で彼を誘惑したのだと断じた。自殺者は聖別された地に葬られない。兄の名誉を回復するため、弟で兵士のフェデリコ・マイが町を訪れ、彼女の裁きに立ち会うことになる。水と火と涙の試練が課されるが、ベネデッタは決して自白しない。やがてフェデリコ自身が、この女に囚われていく。
時代は下って現代。廃墟となった同じ修道院を、ロシア人の富豪リカルコフが買い取ろうとしている。省庁の監査官を名乗る男フェデリコ・マイが下見に訪れると、そこには「吸血鬼」と噂される老伯爵バスタが、独房の一つを占拠して棲みついていた。夜しか外へ出ないこの男を中心に、町の人々は詐術と不正でその日をしのいでいる。400年を隔てた二つの物語が、同じ建物の壁を通じて響き合う。
監督・原案・脚本:マルコ・ベロッキオ
出演:ロベルト・ヘルリッカ、ピエール・ジョルジョ・ベロッキオ、リディア・リバーマン、ファウスト・ルッソ・アレージ、アルバ・ロルヴァケル、フィリッポ・ティーミ、フェデリカ・フラカッシ、トニ・ベルトレッリ
2015年|イタリア、フランス、スイス合作|108分|ビスタ|カラー|5.1ch
原題:Sangue del mio sangue/英題:Blood of My Blood
字幕翻訳:岸正世
配給:JAIHO
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