「四大絵巻」が一度に展示されているだけではない
国宝「伴大納言絵詞」はほぼ同時代の国宝「信貴山縁起絵巻」(こちらは奇想天外な奇跡の逸話が次々と展開する、宮崎駿作品の先取りみたいな楽しい名作)と国宝「源氏物語絵巻」と並んで「三大絵巻」、ないし物語性が必ずしもない国宝「鳥獣戯画」と合わせて「四大絵巻」と呼ばれて来た。このいずれも国宝の4作品がこの展覧会で同時に展示されるのが極めて貴重な機会、というだけではない。
あまりに「映画的」としか言いようがない国宝「伴大納言絵詞」巻上の圧倒的かつ純然たる視覚的物語展開を見てしまうと、奇想天外過ぎておもしろおかしく思えた国宝「信貴山縁起絵巻」の文字通りぶっ飛んだ展開(なにしろ「飛倉巻」では倉の建物や米俵が文字通り空を飛ぶ・展示期間 10月11日(水)〜11月5日(日))が、やはりアクションと空間と時間の展開の一致に裏付けられた巧みな画面構成になっていることにも気付かされる(まさに宮崎駿作品の浮遊感の先取りだ)し、なんの説明の言葉もない国宝「鳥獣戯画」甲巻のエピソード的な羅列にも、見る者が自在にストーリーを想像できてしまう。
さらには純然たる文学的な心理劇「源氏物語」に挿絵が挿入されただけに思えた国宝「源氏物語絵巻」もそれが実はただの挿絵ではなく、アクションの少ない台詞・言葉中心の人間ドラマに思える展開の、直接目には見えない内面の決定的な瞬間、その悲哀や心の痛みをこそ捉えていると気付かされる。一見静謐で動きがないように見える空間の中に、見えざる心の動きを捉える意味でより高等な(小津安二郎的、ないしカール・ドライヤーかロベール・ブレッソン的な?)「映画的」表現にも、見えて来てしまうのだ。
ではこのような視覚表現が日本という国でどのように生まれ、どう発展して来たのか?
平安時代から室町時代にかけてのその歴史的な展開を総括するのが、この大々的な特別展である。
絵巻物だけでもこれだけ充実している…とここで言い切ってしまうのも迂闊なのは、「四大絵巻」以外にも「平治物語絵巻」の信西巻(重要文化財、東京・静嘉堂文庫蔵)と六波羅行幸巻(国宝、東京国立博物館蔵)、国宝「一遍聖絵」巻七(東京国立博物館蔵)、巻九と巻十(神奈川・清浄光寺(遊行寺)蔵)、国宝「法然上人絵伝」 巻第十と巻第十一(京都・知恩院蔵)、鮮やかな色彩と愛らしい描写がまるで宝石のような国宝「玄奘三蔵絵」(大阪・藤田美術館蔵)、濃厚な色彩と堅牢な空間描写が際立つ重厚な国宝「春日権現記絵巻」(国・皇居三の丸尚蔵館収蔵)、自然描写とアーティストの内面ドラマの一致が試みられた重要文化財「西行物語絵巻」(文化庁蔵)などなど、鎌倉時代に入って視覚によって物語をただ「語る」だけでなく「見せることで語る」欲望がさらに発展した傑作も控えているのだ。
さらには平安時代から綿々と続き、とりわけ中世にかけてニーズも多かったのか、多様な作品が描かれた、地獄や化け物・怪談系の絵巻物の系譜も網羅されている。
なかでも人間が使い続けた道具に魂が宿って化けて「つくも神」になるという民間信仰に基づく「百鬼夜行絵巻」の京都・真珠庵本では、おもしろおかしく奇想天外な題材はたまらなくユーモラスでキュート、どこかとぼけていながらも、フサフサとした毛の表現の緻密な柔らかさや、白い布を描くのに白い顔料で巧みに明暗をつけた立体感など、伝土佐光信の筆とされる洗練され尽くした脅威の画力・筆力には目が釘付けだ。
「映画やアニメーションの先取り」という観点で筆者などは絵巻ものにとりわけ注目してしまうその展示の充実っぷりは圧倒的だが、さらには風景などが描かれた屛風、扇に描かれた絵、平安時代後期の絵巻物のリアルな人物描写がさらに発展した鎌倉時代の「似絵」の肖像画などなど、日本人が「日本独自のもの」と意識して描き続けた「やまと絵」の絵画的伝統を、その源流に遡って総体を見せようという、あまりにも濃密な展覧会だ。
さらには手箱や硯箱など、贅を尽くした蒔絵工芸の華麗な装飾性に見られるその影響まで網羅されている。作品数も膨大なら一点一点の見応えも大変なものなので、3時間くらいは覚悟して訪館して欲しい。