「恋愛」よりも「約束」
高田
レイカがハジメにキスをしようとして止めるシーンがありますが、あそこは彼女がハジメに対してどのくらいの気持ちでいるのか、そのあたりの描き方は難しくなかったですか?
山下
そうですね。でもあのシーンは撮影が始まってすぐに撮ったんですよ。あそこはシンプルに美しいシーンじゃないですか。あのシーンを先に撮ったから、「そうか、レイカはこういうことをする女性なんだ」と思いながら、逆算してその前後のシーンを埋めていった感じはあります。
高田
僕はレイカがハジメの寝顔を見つめている時点から、じりじりと抑えきれないものがあって、彼女が動き出した瞬間に思わず「いくのか?」と心の中で叫んでいて(笑)。とてもスリリングでドキドキしつつ、少し不思議でもあるシーンでした。それまではレイカのハジメに対する思いは恋愛感情なのか、それとも妹が兄に抱くような思慕に近い感情なのか曖昧なままだったのが、あのキスシーンを迎えることで「やっぱり(気持ちが)そこまであるんだ」と了解できる。
山下
逆にいえば、あのシーンしかないですよね。だから、そういう思いを持った女性の話なんだと逆算できた。
高田
オリジナル作品では、男性側からキスしようとするじゃないですか。そうすると「動けない女性に対してそういうことをする?」と違和感を抱いてしまう。だから、踏みとどまっておでこにキスをするんですけど。脚本の段階で、ハジメに対するレイカの気持ちの持っていき方、方向性のようなものはあったんですか?
山下
脚本の時点ではあまり考えていなかったですね。結局、枝葉末節を削ぎ落として要約すると、本作はレイカが幼い頃にハジメと交わした約束を果たすだけの話なんです。それだけの話だから、「ここで徐々に惹かれていく」といった恋愛の要素はほとんど考えてなくて。レイカのその思いだけでいいんじゃないかと。もちろん、キスしようとしてできないというシーンもあるので、そこさえあれば途中や後半部分の見え方も変わってくるとは思っていました。
高田
そういえば、以前に山下監督は『クライング・ゲーム』(92)のような「約束を果たす」話に惹かれると仰っていましたよね。だから、今回の作品でついにやり遂げたのかと。
山下
そうそう。どうでもいい約束を果たす話が好きなんです。周りから見て、その約束の価値がなければないほどいい。だから、天橋立のシーンでレイカの約束は果たされているわけです。でも、撮っている間は『クライング・ゲーム』は思い浮かばなかったですね(笑)。
高田
レイカにとっては天橋立のシーンが頂点で、それから別れを惜しむようにハジメと添い寝をする。彼女がキスしようとする行為は、名残を惜しむその瞬間に出てきた感情の表れなのかなとも思います。レイカは写真を撮っているときが一番生き生きとしていますものね。しかしリメイクとはいえ、やはり山下監督はいつも話の核心をつかんで、そこをもとに作品を組み立てていく感じはあります。
山下
今回はそこまで確信を持って組み立てられてはいなかったかもしれませんが(笑)、映画をつくる上で、自分の中で「これはこういう映画だ」と芯を持っている気はします。
高田
でも、そういう芯がないとリメイクは難しいですよね。すでに他人がつくったもので、他人によるテーマがある。同じことをしても仕方がないし、自分なりに「これだ」というものがないとリメイクする意味がない。
根岸
ま、寄らば大樹の陰という考え方もありますよね。黒澤明作品ってリメイク、多くないですか? 例えば勝手に撮って後でもめたマカロニ・ウエスタンの『荒野の用心棒』(64)とか、最近でも『生きる』(52)のリメイク『生きる−LIVING』(22)がありました。あれは英国っぽい感触にうまく置き換えた正式リメイク作品ではありますが、その昔、香港映画に『生きる』の設定をそのままパクった映画があったよなと記憶しています。
あるいはこれはリメイクというよりは、ほぼフォーマットみたいなものになっている『羅生門』(50)=「藪の中」的語り直しというのがありまして、リドリー・スコットも『最後の決闘裁判』(21)でそのスタイルを踏襲しています。『怪物』(23)もその系列には違いない。で、その『羅生門』にも起源めいたものがありまして……ユーチューブで観たラオール・ウォルシュの『山に住む女』(原題=Wild Girl/32)。こちらはまさに章ごとに語り直していく映画であり、森ロケもあり、殺人の謎もある。『羅生門』より18年も前だから、オリジナルがリメイクに見えなくもないという。