ここから全てがはじまる
去年、この映画を見てみたのは、アメリカの若手の女性映画監督の「影響受けた映画」リストに、ケリー・ライカート作品なんかと並んで、よく見かけるタイトルであることに気づいたからだ。
信じられないくらい、よかった。ため息が出た。
主演脚本演出は、あのエリア・カザンの妻。『草原の輝き』(1961年/監督エリア・カザン)でウォーレン・ベイティ演じる主人公の姉役で、人工妊娠中絶したが故に、成金で上昇志向の父親から見放されて自暴自棄になる女性の役をめっちゃうまく演じてるあの人だ。
1990年代の日本の個人映画の一部にもあったし、2000年代のアメリカのマンブルコアにもあったのかもしれない。一人の、女性が、自作自演で、なんの社会的資源も持たない女性の不器用な「渡世ともいえない渡世」を演じきる映画。郊外の愚鈍な主婦が家庭を捨てる。逃亡とさえいえない、冴えない男との冴えない犯罪と逃亡。この世の中の、何も持ってないくせに、夢みがちな、つまらない女とつまらない男のよくある話。絶望的という言葉さえ使えないほど、陳腐な。
エリア・カザンの『草原の輝き』が、ある程度の社会的資源を持っていた人が没落する悲劇を観客が楽しむための映画だったとすると、『WANDA/ワンダ』は、そもそも資源を持たない人が、うろうろするだけの映画だ。でも、資源を持ってる人の方が、そもそも、少ないってこと、もちろん、バーバラ・ローデンは知っている。だいたいの人の人生には、ドラマティックなことなど、何も起きない。単に、死にたくなるようなつまらないことなら起きるんだけど。と書きながら、わたしは、とても悲しいことがあった日でさえ、習慣のため、ほとんど毎日足がむくスーパーの棚で歌舞伎揚を手に取ったり、百円ショップの棚で、子供用の雑巾を手に取る気持ちを思い出す。これが、自分の人生か。そして、せめてもの余暇の楽しみとして、子供が寝た後に開く、ネットフリックスのマイページ。
社会的資源を持っていない私たちの人生に、ドラマティックなことなど何も起きない。よくある、絶望とさえいえないような陳腐な死にたくなることは、たくさん転がっているけど。この作品を「隠れた傑作」というように称することは、この作品に失礼な気がするのだ。みんなが知っているけど言及しないことを、ただ、できるだけシンプルに撮っているだけ、だからだ。そう、小学校のときのクラスや、職場にいたあの子。わたしは、そういう子に対して、もっと、「自分は何かを持ってる」っていうふりを、嘘でもしなさいよ。とイラついてた。わたしなんて、「いろいろ持ってるけど、それに無頓着。だって持ってる状態が普通だから持ってるって気づかないの」ってふりまでして、いろいろもってるって状態をアピールして生きているのに。あの子は、なんで、それやらないの?なんで、そんなつまんない男と寝るの?なんで、そんないけてないかっこうするの?なんで?なんで?なんで、愚鈍なの、計算してうまくやろうとしないの?と、ずっと彼女たちに、イラついていた。でも、そういう自分こそ、つくづく、愚鈍な人間だった。と、今ではわかる。
あの愚鈍な人たちが、実は聡明な人たちなんだってことに気づいたのは、いつだったんだろう。
「なぜ、10代の頃にあんなに聡明だった姉が、こんなに愚鈍になってしまったのだろう。」とよく、わたしの母は、40代の初めの頃に、よくため息をついていた。でも、彼女の姉、私の伯母が、全く愚鈍な人ではないことに何年か一緒に過ごすうちに、わたしは気づいていったのだ。長い間低迷し続けた伯父の事業がとうとう破綻して、ある程度の年になってから、彼と別れて、別の仕事をはじめた伯母の、あの、愚鈍そうに見える態度は、なんの社会的資源も持たない人間の戦い方なのだ。明晰に振る舞ったところで、誰も喜ばない。愚鈍なくらいで丁度いい。そういう人間の態度なのだ。そのかわり、彼女は、意に沿わないことは、絶対にしない。したいことだけするのだ。
とても悲しい動画を見つけたから、ここにはっておく。バーバラ・ローデンが、オノ・ヨーコとジョン・レノンと一緒にアメリカのテレビショーに出て、『WANDA/ワンダ』について話している。でも、司会者は、この作品を見てもいない。そして、超有名監督である、彼女の夫のエリア・カザンが、この映画にどう関わったか、この映画をどう思っているか、そんなことばっかり、バーバラ・ローデンに聞いている。こんな場所で、明晰でいることに、果たして意味があるだろうか。演技者として、演出家として、信じられないほど才能のあるバーバラ・ローデンが、あたかも愚鈍な人間であるかのように扱われる、こんな場所で。
あるときから、私の母は、伯母のことを「愚鈍である」というのをやめた。そして、自分自身もまた、伯母のように「何も感じていないかのようにふるまう」ようになった。さらに言うなら、今のわたしも、そうだ。日々、心を閉じて、生活している。若い頃のように敏感に何かを感じてしまったら、死にたくなってしまうようなことが、人生に起こることがあると知ってしまったからだ。多分、外から見たら、とても愚鈍な人間に見えるだろう。自分の娘にいやがられる。嫌悪される。かつての私が、愚鈍な大人を心底嫌悪したように。明晰に判断してしまったら、鋭く感情を感じてしまったら、とても耐えられない場所で、多くの人は生きている。子供はまだ、それを知らない。
この映画は、誰も言おうとしない、社会の、人生の、本質に、言及している。
『WANDA/ワンダ』の主人公は、バーバラ・ローデン自身であり、もしかするとあなたであり、もちろん、わたしでもある。今日もまた、役所のベンチや病院の待合室で、愚鈍そうに見える誰かを見つけた。見ていると、ただ、ただ、泣きたい気持ちになる。この映画のラストのように、見知らぬ誰かが、なんとなく空いている席をすすめてくれたなら、座って、タバコを吸いながら少し休もう。わたしも今日、役所で、無料で暖かい飲み物が飲める場所がないか、総合受付で聞いた。おいしくないお茶を、汚いベンチで飲んだ。通りがかりの、多分、自分は何かを持っていると思っている人たちから、とてもかわいそうな目でみられたけど、そんなことは、もう気にしない。わたしの、惨めな人生は、これからも、ずっと続いていくのだし、たとえ、早めに潰えたとしても、特別な気持ちで弔ってくれる余裕のある知り合いなど、自分には、存在しない可能性だってあるのだから。でも、『WANDA/ワンダ』という映画が存在するおかげで、私や母や伯母や、その背景に風景のように存在した、実際には自分の意思など持てるはずもない、虚ろな男性たちは、1970年に一度「可視化」されたのだ。多分映画を撮ろうとする人は、その事実に、永遠に背中を押されることになるだろう。そう、わたしたちの本質は、『WANDA/ワンダ』によって、一度、可視化されているのだ。
でも、ちょっとまって。それだけじゃない。
改めて、わたしのネットフリックスのマイページ画面が頭に浮かぶのだ。ジュリー・デルピーの『まさに人生は』や、ナターシャ・リオンの『ロシアン・ドールズ』みたいな、中年女性の撮る自作自演ドラマが、中年の私の退屈な日常を下支えしているわけだけど。あの人たちは、バーバラ・ローデンみたいに、監督たちの「ミューズ」として持ち上げられながら実際には、単に利用され、これなんか違うって気づいて、そこからおりて、自らリスクをおって、自作自演にふみきった女性たちじゃなかっただろうか。「ちがう、ちがう、あたしから見えてる世界は、こっち」と。きっと、彼女たちも、『WANDA/ワンダ』を見ているはず。頭の中に女優出身の映画監督の名前が渦巻いてくる。マギー・ギレンホール、グレタ・ガーウィグ、マリエル・ヘラー、オリヴィア・ワイルド、メラニー・ロラン。それから、われらがクリステン・スチュワートは、初めての映画で、一体、何を撮るだろう。エリオット・ペイジは、フィクションの世界で監督することはあるだろうか。そういえば、ミランダ・ジュライも、自作自演の人だ。
そして、彼らの作品を当たり前に見て、映画を学んでいる、もっと若い世代は、どんな映画を撮っているのか。無知な、わたしは、知らないけれど。
彼女たちは、みんな、バーバラ・ローデンの孫やひ孫のようなものだ。バーバラの遺伝子が、どのような変容をもたらしているのか、もしかすると、愚鈍な私の目には、もはや判別できないものなのかもしれない。
でも、わたしを軽蔑しはじめた10歳になろうとする娘は、配信で、彼女たちが作るものをみて多感な時期を過ごすはずだ。わたしとは口を聞かなくなるかもしれないが、ドラマや映画は見るかもしれない。そしてそれは、偶然にも、『WANDA/ワンダ』からはじまった遺伝子をもつものかもしれないのだ。それを見れば、娘は、少なくとも、わたしよりは、早く気づくだろう。誰かより、より多くの何かを持っているふりなどしなくてもいい。たとえ、何ももっていなくても、まわりから愚鈍に見えてもかまわない。ただ、自分がつかみたいものに手をのばす。そこからはじめる人々を、より多く、フィクションの中で、彼女は目にすることになるだろう。それが確実に、何かを変えていく様を、わたしは、老眼をこすりながら、まだ、見ていたいのだ。
(終)
木村有理子(きむら・ありこ) 映画監督/映画批評。 主な監督作品に『犬を撃つ』(カンヌ国際映画祭正式出品)、『わたしたちがうたうとき』(ソウル国際女性映画祭招待作品)、『くまのがっこうのみゅーじかるができるまで』(ドキュメンタリー)。
ストーリー
ペンシルベニア州東部の田舎に住むワンダ・ゴロンスキーは、単純で世間知らず、自分の居場所を見つけられずにいる主婦。彼女は炭鉱で石炭を拾い集めている知人の老人を訪ね、お金を貸してほしいと頼む。彼女はバスに乗り、夫との離婚審問に遅れて出廷した。育児放棄を追及されていた彼女はヘアカーラーをつけたまま、裁判官に夫が起こした離婚訴訟に異議を唱えないこと、二人の子供の親権を夫に与えることを裁判官に伝える。裁判所を後にした彼女は、2日間働いた縫製工場に立ち寄ると今後も働けないかボスに尋ねる。しかし、「お前は作業がノロすぎて使いものにならないから必要ない」と告げられる。
街を漂うワンダは、バーでビールをおごってくれた客とモーテルへ。 ワンダが寝ている間、逃げるように部屋を出ようとしたその男の車に無理矢理乗り込む。だが、途中ソフトクリームを買いに降りたところで逃げられてしまう。ワンダはショッピングモールを歩き回り、地元の古めかしい映画館で映画を観る。眠りについてしまった彼女は掃除夫の少年に起こされるが、バッグの財布からはわ
ずかに残していた現金が消えていた。
またフラフラと夜の街を彷徨い歩き、一軒の寂れたバーを見つける。カウンターの男が慌てた様子でもう閉店だと断るがトイレに入ってしまうワンダ。戻ってきた彼女は、哀れな自分をアピールして一杯のビールを要求する。全然手慣れていない様子で仕方なくビールを指し出す男。その足元には店
主の死体が転がっていた。そうとも知らずにワンダはビールを飲んで、今度は櫛を貸してくれと要求する始末。Mr.デニスと名乗るその男と店を出ると、安いダイナーでスパゲッティをご馳走になり、二人は近くのモーテルへ。
翌朝、Mr.デニスがバー強盗の新聞記事を彼女に読ませたとき、ワンダも彼が強盗の男だと気づく。しかし、そんなことを気にするより、彼と一緒にいた方が楽だと悟る
ワンダ...なぜか離れられない二人の旅が始まる。
2022年 7.9(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開中!
監督/脚本:バーバラ・ローデン
撮影/編集:ニコラス T・プロフェレス
照明/音響:ラース・ヘドマン
制作協力:エリア・カザン
出演:バーバラ・ローデン
マイケル・ヒギンズ
ドロシー・シュペネス
ピーター・シュペネス
ジェローム・ティアー
1970年ヴェネツィア国際映画祭最優秀外国映画賞 2017年アメリカ国立フィルム登録簿永久保存
1970年/アメリカ/カラー/103分/モノラル/1.37:1/DCP/原題:WANDA
日本語字幕:上條葉月
提供:クレプスキュール フィルム シネマ・サクセション