「なんでこの子死ななきゃいけないんだろう?」という問いには答えがない。その問いによって何かが起きるわけではない「純粋な行為」である。だが確かなことは、誰かが聞き届けることで、この問いが行為になったということだ。そして、こうした重い問いかけは語る相手を選ぶ。問いを発することも難しい上に、言葉を投げかけても受け止めてくれる、信頼に足る宛先が必要になる。その宛先になれるよう、「ただ居る」というのが、さまざまな技術を削ぎ落とした後になおも残るケアの核心なのかもしれない。
――村上靖彦『ケアとは何か』
介護施設にいたあるお婆さんのことを思い出す。その方は夫に先立たれ、金銭問題がもとで親族からも絶縁状態にあり、認知症を抱えているために、身元の保証は地域の成年後見人が担っていた。ある秋の晴れた日、私と二人で施設の外を散歩しながら入居者さんの洗濯物を干していたときのこと。雲ひとつない爽やかな空を見上げながら、ぽつりとお婆さんは言った。「ああ、綺麗な青空だね。あれは私の青空だよ」。私の青空。そう言って、柔らかく澄んだ日差しの中で少女のようにあどけなく笑うお婆さんの姿に、はっと胸を衝かれる思いがした。いまここで、お婆さんとともに見上げているこの空は誰のものでもない。だが、それはお婆さんにとってはかけがえのない「私」の青空であり、実はこの私にとってもそれは同じことなのだ。投げかけられた「私」の声と言葉が、もう一人の「私」によって受け止められることで、それは「二人の私」のものになる。安易に「私たち」と呼ぶことをためらわせる被介護者と介護者との隔たり。そして、そのような役割を超えて、人が本質的に抱え持つ裂け目がそこにはある気がした。
マイク・ミルズ作品における「ケア」というテーマ
マイク・ミルズの作品を見るときにいつも感じるのは(私自身が介護士として働くようになってより強く感じるようになったのだが)、この被介護者と介護者、つまりケアされる者とケアする者という関係性であり、家族という身近な繋がりをつねにモチーフとして描きながらも、みなそれぞれが埋めることのできない空隙を抱えた「他者」として孤立しているということだ。彼らは他者として孤立していながら、いや、孤立しているからこそ、自分の居場所に違和感を覚えつつ、その不安や恐れを自らの声と言葉で語り、周囲に呼びかける。ミルズの眼差しは、そのようなケアされる者とケアする者が交差し、孤立した者たちの声が響きあうポリフォニックな場が生まれる瞬間を逃すことなく捉えている。