子どもと大人、ケアされる者とケアする者の交差と逆転は、一方から他方へ、あるいは相互の「呼びかけと応答」という形で言い換えることもできる。だからこそ、それは多様でポリフォニックな響きをもたらすのだ。『20センチュリー・ウーマン』で、シングルマザーとして息子のジェイミーを育てている母ドロシアは彼にこう呼びかける。「歴史は残酷。過去は戻らないし、未来は謎」と。知識と経験に裏打ちされた大人のシビアな感覚を滲ませながら、その声には母親の息子に対するかけがえのない慈しみと愛情がこもっている。新作において「未来を考えたことある?」「起きると思うことは絶対起きない。考えもしないようなことが起きる」と、同種の呼びかけがジェシーによって反復されるとき、それは伯父であるジョニーと自分自身への呼びかけなのだが、前作をふまえたうえでその声に耳を傾けるなら、それは大人であるドロシアの呼びかけに対する少年ジェシーの応答ともいえるのではないか。ひとつの作品内だけでなく、そこには作品間を通じた相互的な対話=ポリフォニーの残響がこだましている。

ドキュメンタリー作家としての側面

さらに、本作でも際立って印象的な子どもたちへのインタビュー場面は、まさに呼びかけと応答の美しい結晶そのものだろう。ここで着目したいのは、ミルズの原点であるドキュメンタリー作家としての側面だ。インタビューという手法は、世界的なスケートボーダー、エド・テンプルトンの日常を追った短編『Deformer』(96)や、新聞配達の少年たちを記録した『Paperboys』(01)といった初期のドキュメンタリー作品にすでに表れている。ミルズのこうしたドキュメンタリー作家としての視点は「シネマ・ヴェリテ」や「ダイレクト・シネマ」の系譜に連なるともいえるが、ケアという観点から見て重要なことは、本作において引用される書物のひとつ『撮影者ができる不完全なリスト』(カーティス・ジョンソン著)でも述べられているように、被写体と撮影者、つまりケアされる者とする者との非対称な関係性について、ミルズが自覚的であるということだ。先述の書物にある「その経験が導く先を見通せないまま、相手に信頼、協力、許可を求める。その場、状況、問題から私は去ることができるが、相手はそれができない」といった言葉からもそれは明らかだろう。ここで言及されている被写体と撮影者の関係をそのままケアされる者とする者の関係に置き換えてみても、何ら違和感はない。それどころか、撮影やケアという行為がいかに非対称的な関係のもとで成立しているのかを、極めて明解に示している。

画像4: © 2021 Be Funny When You Can LLC. All Rights Reserved.

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だからこそ、ジェシーとジョニーの美しい対話はいつも寝室のベッドで行われるのかもしれない。ケアの文脈から文学作品を考察した『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社)において、著者である文学研究者の小川公代が指摘しているように、そこにヴァージニア・ウルフの「直立人=看護者」と「横臥者=病人」という対比を重ねることもできる。病人に対する看護者の同情という上から目線を退け、ともに「臥床する者」として同じ目線から交感し、共感すること。幼い甥と中年の伯父との間に築かれる奇妙で美しい関係の陰には、「病人」である父親をケアするために、やむなく息子のもとを離れなければならなくなった母親の存在があるということもまた付記しておくべきだろう。かつて『サムサッカー』において、「17歳の子どもの母親になるのは強烈な体験よ。ない答えを期待されて」と、母親のオードリーは語っていた。9歳のジェシーは、まだ母親や伯父に「ない答え」を期待してはいない。むしろジョニーとの対話が美しいのは、そのような「答え」という意味を持つ以前の言葉によってなされ、響きあっているからだ。ジョニーのジェシーに対する謝罪は、スマホで調べたマニュアル通りの紋切り型にすぎない。だが、ジェシーはそれを承知で受け入れる。なぜなら、ともに叫び、呼びかけあう二人にとって、意味を持つ言葉はときに上辺だけの「ぺらぺら」で皮相なものになりうると知っているのだから。

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