合理化され得ない日本人の情念の物語と絵巻物の世界、そして溝口健二

その1点、「賢学草紙絵巻」は、能や歌舞伎の「道成寺」の安珍清姫と共通するか、その元になったと思われる、清水寺の若い僧侶と姫の報われない悲恋の物語を描く。

画像: 「賢学草紙絵巻」上巻 (部分) 室町時代 16世紀 根津美術館蔵 十数年が経ち、僧はある娘に出会い修行を忘れて恋に落ちてしまう。桜が咲き誇る清水寺の境内を歩く2人

「賢学草紙絵巻」上巻 (部分) 室町時代 16世紀 根津美術館蔵
十数年が経ち、僧はある娘に出会い修行を忘れて恋に落ちてしまう。桜が咲き誇る清水寺の境内を歩く2人

保存状態もよくてパステル調のきれいな色彩が目に楽しく、素朴で愛らしいタッチの作品だ。とはいえ修行のために姫と縁を切ろうとする僧侶に、恋を諦めきれない姫の執念が生霊の大蛇・龍に化けると言うクライマックスの展開は、道徳的な合理性に収まりきれないエロティックな情念が超自然的なファンタジーに転ずるダイナミックさ、その激しさに、やはり目を見張らされる。

「賢学草紙絵巻」下巻 (部分) 室町時代 16世紀 根津美術館蔵
僧侶は娘の胸の傷を見てかつての自分の罪に気づき、邪念を振り払って修行に専念して罪を償い因縁を断ち切ろうと、清水寺の音羽の滝に打たれる。恋人に棄てられて嘆き悲しむ姫

長い絵巻をだいたい肩幅くらいに開いて、その部分ごとに先に進みながら見ていくことで、右から左へと空間の推移だけでなく物語上の時間の推移も表現できる日本の物語絵巻の表現は、映画のナラティヴ構造を800年か900年先取りしたものとも言える。

実際、トーキー初期に凝視のリアリズムの手法として長廻しの映画話法を確立した溝口健二は、『元禄忠臣蔵』以降、特に戦後に国際的な圧倒的な評価を獲得した時代劇映画で、この絵巻物的なビジュアル・ストーリーテリングを演出に取り入れている。こと『西鶴一代女』や『雨月物語』『山椒大夫』や『新平家物語』では、絵巻物や土佐派の「源氏物語」絵画化によく見られる日本的な遠近感表現の、斜め上から全体を俯瞰する構図がとても多い。

絵巻物や土佐派の「源氏物語」の絵画化などではしばしば、室内の場面を建物の屋根を外して見せる。「吹抜屋台」と呼ばれる技法だが、溝口の映画ではキャメラはしばしばこの「吹抜屋台」の視点に相当する、天井のさらに上の位置から空間を斜めに見下す位置に置かれ、溝口ならではの長回しで流麗な移動を始める。例えば『西鶴一代女』で自分が産んだ殿様の御曹司に遠くからお目見えする許可を得たヒロインお春(田中絹代)が、周囲の侍たちの制止を無視してすくっと立ち上がって歩き始める名シーンや、『雨月物語』で主人公の陶工(森雅之)が朽木家の姫(京マチ子)の正体が怨霊だと気づくシーン、『近松物語』の冒頭の店先のシーンや、で実家に匿われたおさん(香川京子)と愛人・茂平(長谷川一夫)が再会するシーンなどが、特に印象的だ。

溝口健二を敬愛するベルナルド・ベルトルッチは『ラストエンペラー』でこの溝口的なキャメラワークをシネフィル的なオマージュ、かつ東洋的表現として多用しようと考え、しばしば「ミゾグチ!」と現場で叫んでいたそうだが、実は「絵巻物!」と言うべきだったのかも知れない。ヨーロッパ人のステレオタイプな誤解で、実は中国皇帝ではなく日本的な表現なのは、まあご愛嬌だろう。

ちなみに晩年の溝口が『楊貴妃』を撮った時には、この「ミゾグチ・アングル」の長廻しは使っていない。むしろ戦前の『浪速悲歌』『祇園の姉妹』の凝視するリアリズムに立ち戻ったような、水平位置で移動を抑えた長廻しを多用し、フィックスで厳格に定められた構図では、前景・中景・遠景を明確に区分けしつつ同じ画面内に配置・構成する、宋の文人画的、あるいは雪舟的、ないし狩野派的な構図が、楊貴妃と玄宗の純愛と、それが政治の必然に巻き込まれていく悲劇を冷徹に観察していく。

画像: 「賢学草紙絵巻」下巻 (部分) 室町時代 16世紀 根津美術館蔵 僧侶を追い続ける娘の執念が、その姿を龍に変える。変身の途中なので鬼になった顔の上にはまだ女性の髪の毛、背中には女性の着物が残っている

「賢学草紙絵巻」下巻 (部分) 室町時代 16世紀 根津美術館蔵
僧侶を追い続ける娘の執念が、その姿を龍に変える。変身の途中なので鬼になった顔の上にはまだ女性の髪の毛、背中には女性の着物が残っている

「賢学草紙絵巻」の激しい恋の情念が生き霊・そして怪物になるという、歌舞伎や能では「道成寺」になった世界観もまた、女性の抑圧と自己実現をテーマとして来た溝口健二の世界観、さらにはその弟子筋の新藤兼人にも継承されている。進藤は遺作『一枚のハガキ』では大竹しのぶが大蛇に変貌することすら構想した。それはもう、溝口や進藤のような近代の日本人にも刻み込まれた中世的、室町以降の文化的DNAのようなものなのかも知れない。

しかも「賢学草紙」では、姫はまだ赤ん坊の時に胸を刺された、という設定なので、もしかしたら彼女はその時にすでに死んでいて、成長して修行僧と恋に落ちたのは幽霊で、僧侶を思う恋心で怨霊の面が封じ込められていたのが、失恋でそれが解き放たれたのかも、などと想像することもできよう。

「賢学草紙絵巻」下巻 (部分) 室町時代 16世紀 根津美術館蔵
龍は寺の鐘の中に逃げ込んだ僧侶を追い詰めてその周りにぐるぐる巻きになると、自らの体から火を発して僧侶ごと焼き尽くす。

能や歌舞伎の伝統演劇にも見られることだが、こうした理念や理屈・道徳的な合理性に回収されない情念のこもった、公的な道徳では解消されないプライベートでパーソナルな「こころ」、合理的な解釈による正当化が不可能な心情こそが、かえって集団意識の共感を呼ぶ物語もまた、日本人の文化の欠かせない一部だ。江戸時代の歌舞伎で流行した復讐の物語も「忠臣蔵」から「四谷怪談」に至るまで、本来は「勧善懲悪」ではなくそうした悲劇としてこそ共感を集めたし、実在の赤穂四十七士の墓所はもちろん、フィクションの人物である「道成寺」の安珍清姫や「四谷怪談」のお岩についてさえ、慰霊・鎮魂を祈る塚や供養塔、果ては神社やお寺が丸ごとその役割を果たしている例すらある。

映画ならばもちろん、溝口健二こそがまさにそうした日本文化の血脈を継承する筆頭として挙げられるのだが、時代を前近代、中世へと遡れば、物語絵巻こそがそうした日本的な情念の世界の視覚化だったとも言えるだろう。またそれは、今では「マンガ」が物語芸術として極端に発達している現代の日本文化にも通じているのかも知れない。現に今や「鬼」が、超人気のマンガとアニメのメインテーマになっているではないか。

「賢学草紙絵巻」下巻 (部分) 室町時代 16世紀 根津美術館蔵
阿弥陀如来に2人の鎮魂と極楽往生を祈る僧侶たち。仏像は平安後期から鎌倉時代にかけて盛んに作られた、来迎の形式の阿弥陀三尊。向かって右の観音如来の持つピンクの蓮の花に死者の魂が乗せられ、極楽浄土に誘われる

「賢学草紙絵巻」は阿弥陀如来の功徳で2人の魂の救済を祈るシーンで終わる。

理屈で考えてしまえば、この悲劇はまさに僧侶が仏教の戒律を破ってしまい煩悩に走ったり、修行のためとはいえ己の身勝手で赤子に手をかけることから起こっているわけで、合理的な宗教道徳では矛盾した話ではある。だがそうした政治的な正当性や論理的な道徳、いわば「漢文・漢画」的な整合性の価値観には収まりきらない人間のこころ、痛みや悲しみや妬み、憎しみや恨みや怨霊すら含めて、単純におどろおどろしいものではなく、あくまで美しい憧憬の対象としてまとめて受容して行き、またその行為によって怨霊になりかねない魂を鎮めるという共感の美学が、こと中世の日本にはあったのだろう。「王朝文化」の芸術化がその中世、平安朝の崩壊後にこそ華開いたことも、そうした文脈で考えると思わぬ深みが見えて来る

「やまと絵」に視覚化された王朝文化とは、決してただ表面的に華やかなだけの、気取ったものではないのではないか? その鎮魂と共感は中国式・漢文のオフィシャルで論理的な伝統以上に、朝廷・天皇が継承する日本の「魂」のようなものなのかも知れず、まただからこそ、それは平安朝の栄華の表現を借りることで、一見美しく飾り立てられたものに見えながら、なにか我々の心の深層を突くかも知れない。

もちろん、こうした表の政治史や公式道徳に収まり切らない、パーソナルでプライベートな人間の宿業や心の痛み、悲しみ、嫉妬などなどのネガティブな感情と心理が横溢したドロドロ人間模様の美しき物語化の最高傑作・代表作が、紫式部の「源氏物語」だ。人間の実存の究極や宿命にまで踏み込んだこの小説は、決してただ、華やかな貴族社会の高尚な恋愛ロマンスなどではないのだ。

戦争はなかった平安時代の最盛期、藤原氏が大伴氏や菅原道真などのライバル貴族を追い落とした後では、激しい政治闘争もなくなった時代に、その栄光の頂点にいた人々ですら、人間が生きることとはかくも矛盾と悲しみに満ちて、正当化され得ない感情と、運命の残酷な不条理に苛まれる、残酷なものなのとして認識していたのだ。

この「源氏物語」も、土佐派とそこから派生した住吉派の「やまと絵」の系譜の、もっとも重要なテーマになった。

画像: 土佐光起 「源氏物語朝顔図」江戸時代17世紀 根津美術館蔵

土佐光起 「源氏物語朝顔図」江戸時代17世紀 根津美術館蔵

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