美学と文化力こそが政治の本質である東アジア文明の正当後継者としての狩野派
日本で雪舟の前に宋の文人画の伝統に連なる水墨画の、禅的で中国的な絵画の代表的な画家だったのが周文で、足利義満のいわば御用絵師のような立場にあった。例えば相国寺が所蔵し周文の筆と伝わる「十牛図」(先述の承天閣美術館の紹介記事で写真を掲載)は、義満が手近に置いて自らの瞑想修行に使っていたものだと言われている。
またこうした中世の日本文化に決定的な影響を与えた中国・宋王朝の、北宋の皇帝・徽宗は、自らも絵筆をとって優れた才能を発揮し、その徽宗に代表される超絶技巧的に細密な描写の花鳥画も、「院体画」と呼ばれ日本でも盛んに模倣され、大きな影響を与えた。
徽宗もまた、北宋が北方異民族の圧力で衰退して行った時代の皇帝だったため、近代の歴史観では文化芸術、つまり「趣味」に逃避して国を滅びした暗君のようにみなされがちだ。だがここで再び、探幽が「両帝図屏風」で描いた舜帝が琴を奏でていることを思い起こして見方を変えれば、徽宗は軍事的な劣勢と国の衰退の危機が避けられない中で、文化的なアイデンティティの確立でこそせめてその国と民族の精神的基盤を守ったとも言え、その意味では実は中国史で最も重要な皇帝の1人なのかも知れない。
儒教的な価値観でこそ、文化教養は軍事や経済と同じくらい重要な「政治」であり、「徳治」を担保する「天命」を呼び寄せるものだった。徽宗や足利義政を、現代人の考える政治的実績の価値観でみだりに過小評価することは、歴史を現代の価値観で安易に断罪することにしかならないのではないか?
現に、宋は滅亡して漢民族王朝はいったんはモンゴル王朝の元にとって代わられたとしても、その元もまた徽宗が遺した宋文化を継承して中国化し、やがては明による漢民族王朝の復興へとつながるし、その明や後の清の皇帝たちも徽宗につながる宋代の絵画や汝窯や龍泉窯の青磁などの工芸品を家宝とし、20世紀半ばに蒋介石が北京から持ち出して台北の故宮博物院の至宝となり、侯孝賢に決定的なインスピレーションを与え、その侯孝賢が世界の現代映画を決定的に変革することになった。
そして宋風の文化は日本では奈良・平安の遣唐使の時代の唐以上に中世で憧れの対象となって、盛んにお手本とされ模倣もされ、近世、そして近代にもつながる「日本文化」の大きな源流のひとつになっている。
足利義政以降、日本では幕府の直接的な権力が凋落して「戦国時代」に入るが、その義政が遺したものこそがこの混乱期だからこそ全国に伝播して、我々が今日「日本的」と感じるさまざまな文化の発展の基礎となった。例えば越前・朝倉氏の本拠地の一乗谷は大規模な発掘調査でその全容が明らかになっているが、朝倉氏は豪壮な書院造の屋敷に禅宗風の枯山水の見事な庭園をいくつも作っていた。こうした庭園は義政の側近・同朋衆の相阿弥も盛んに造園した、義政好みのものだし、今にも通ずる日本の住宅建築の基本形式の書院造も、義政が確立して、朝倉氏のように全国の大名たちが盛んに受け入れたものだ。
京都・東山の慈照寺(銀閣寺)の東求堂にある義政の居間・書斎の「同仁斎」はその最初期の実例であると同時に、茶室の原型でもあり、身近な例えでは「元祖・四畳半」、畳敷の居室の始まりでもある。義政はその相阿弥に推薦されて、狩野派の二代目・元信の才能を見出し、支援することになる。同仁斎で元信は義政に直接会っていたのかも知れない。現在の同仁斎の襖は無地の白だが、狩野派が活躍したきっかけは、こうした書院造の襖で障壁画の需要が増したことも大きい。
直接の政治権力の行使では力を失ったかも知れないが、歴史を俯瞰した時に結果としてより多くの、現代にも通ずる重要なものを遺したのがこの足利八代将軍であり、その重要な文化・精神的遺産のひとつが、狩野派だった。