国際映画祭に通う気持ちは、いつも、独特です。文脈や背景のわからない映画や作り手に、いきなり向き合う怖さと、今まで見たこともないような、すごい作品に出会うのではないかという期待で、緊張します。でも、今年は、身構えずに、向き合えました。この数ヶ月の経験がそうさせるのでしょうか。映画を映画館で見ることができる喜びに、心ゆくまで浸りたい。出会うべき映画に、出会いたい、という気持ちが何よりも先にたちました。
会場は、ほとんど、いつも満席。活気がある。来日が叶わぬ監督たちが、異国から、上映後のスクリーンに映し出され、観客からの質問に答える姿を見ていると、「離れているからこそ近づきたい」という感覚が、会場から立ち上ってくるのを感じました。

『無聲』(監督コー・チェンニン/2020年/台湾)

画像: 『無聲』(監督コー・チェンニン/2020年/台湾)

冒頭の雰囲気から、聾唖の少年の淡い恋愛を描いた作品だと思いこみ、のんびりとした気持ちで見ていました。しかし、ほどなくして、その無垢な少年と一緒に、わたしたち観客は、惨たらしいもの、見てはいけないものを「目撃」してしまう。それを見てしまったことによって、私たち自身も、「恥辱」を覚える。とても、とまどいました。そして、それは、ほんの、はじまりでしかありません。この監督の野心は、隠された暴力、ないことにされてしまった暴力を可視化することです。それを、構造から、露わにすること。徹底した、その意思は、映画の最後の最後まで続き、安易なラストで、観客を安堵させることは、決して、ないのです。

※フィルメックスでの上映は終わりましたが、映画祭会期後にオンラインで有料配信予定です。

『アスワン』(監督アリックス・アイン・アルンパク/2019年/フィリピン)

画像: 『アスワン』(監督アリックス・アイン・アルンパク/2019年/フィリピン)

ロドリゴ・ドゥテルテ政権により許容されている、警察や一般人による「超法規的殺人」の起こる、マニラの夜。毎晩のように罪のない人々が、道端で、亡骸となっている。なす術もなく、その風景を見つめている男は、聖職者だ。カメラは、少しの動揺も見せずに、正面からまっすぐ、その状況をとらえる。まるで、劇映画のような視点で。しかし、これは、ドキュメンタリーです。昨今、流行している、ディストピアを描いたドラマや映画で残酷描写を見るように消費していいものではない。手の平にじっとりと汗をかきました。そして、気づくのは、わたしたち東京に住む人間にとって、「殺人者たち」が跳梁跋扈するマニラの夜のこの感じが、人ごとだとは思えなくなっている、ということです。この前まで、当たり前のように、そこにあると思っていた、「人権」が、あっという間に失われていこうとしている、この東京においては。

フィルメックスでの上映は終わりましたが、映画祭会期後にオンラインで有料配信予定です。

『海が青くなるまで泳ぐ』(監督ジャ・ジャンクー/2019年/中国)

画像: 『海が青くなるまで泳ぐ』(監督ジャ・ジャンクー/2019年/中国)

世代の異なる4人の中国人作家のライフストーリー・インタビューを主とした、とても静かで、淡々とした作品です。しかし、彼らの人生を知った後には、清冽な、海の水の中を、ただ、ひたすら沖を目指して、理想に向かい、黙々と泳ぎ続ける人々の、体や表情を、生々しく感じました。それは、この映画にうつっている作家たちだけでなく、中国を形作ってきた、無数の人々の体でもある。ままならぬ人生、問題ばかりの人生を全力で活きる。その、いじましさ、雄々しさ、揚々とした態度は、数々の中国映画を思い出させ合点がいきます。それにしても、ジャ・ジャンクー監督が、チェン・カイコー監督やチャン・イーモウ監督など第五世代の描いてきた中国の農村文学の世界を俯瞰して語るような立場に今立っていることが、ふしぎでした。かつて、両者は、大きく隔たっていると思っていたのに。

フィルメックスでの上映は終わりましたが、映画祭会期後にオンラインで有料配信予定です。

『イエローキャット』(監督アディルハン・イェルジャノフ/2020年/カザフスタン、フランス)

画像: 『イエローキャット』(監督アディルハン・イェルジャノフ/2020年/カザフスタン、フランス)

ボニー&クライド風の裏社会の男女の逃避行ものです。でも、詩的で、残酷で、とぼけていて、すばらしく面白い。カザフスタンに、いつか、行くことがあるのかわかりませんが。この作品を見たことで、カザフスタンのことを懐かしい思い出の場所のように感じられるようになったと思います。(もちろん、それは、現実の場所ではなく、映画によって作られた「場所」なわけですが)逃れがたい日常があっても、心の中は、いつも自由でありたい、それを可能にするのが映画である。こうした主張は、古今東西、いろんな映画が何度も語ってきたことかもしれませんが、どこまでも続く黄色い大地に、点々と、配される人物たちの、その風景からの「逃れ難さ」が、使いふるされたはずの、この「主題」を、とても、切実に、輝かせる「しかけ」となっていました。でも、愛する故郷とそこに生きた自分を、作り手が、遠く突き放して見ていなければ、このような映画は作れない。その距離がせつない。

フィルメックスでの上映は終わりましたが、映画祭会期後にオンラインで有料配信予定です。

『迂闊(うかつ)な犯罪』(監督シャーラム・モクリ/2020年/イラン)

画像: 『迂闊(うかつ)な犯罪』(監督シャーラム・モクリ/2020年/イラン)

1978年に映画館が放火され、観客400人以上の人々が犠牲になった、現実の事件。これは、まぎれもない史実なのですが、この映画の中では、現代のイランで、全く同じ計画が進行していきます。犯人たちは、けっこう、おっちょこちょい。失敗して、やり直そうと相談していますが、こんな迂闊(うかつ)な人たちに、できるのか。ルールのわからないゲームに初めて参加するときのような、キリキリとした感じとワクワクした感じ。どちらも、同時にせりあげてきました。彼らが放火しようとしている映画館で上映されているのは、『迂闊な犯罪』という映画で、その映画の内容も同時並行で進みます。シネマ・イン・シネマの構造です。でも、この映画も、見ている人たちも、やがて、燃えてしまうかもしれない。映画を見るという、平和な日常が、一瞬で、失われてしまうかもしれない。その場面を私たちは目撃してしまうのではないかという恐怖が、自分の中に現れてきます。加えて、映画館に集まる、イランの現代っ子たちの平和で呑気な描写が、重ねられていきます。そして、何度も、彼女ら彼らを、くりかえして見るので、もはや、観客にとって「友達たちの集う馴染みの場所」のようになってしまうその映画館が、迂闊な彼らによって、とうとう燃やされてしまうのではないか。胃が縮み上がり、鼓動が早くなっていく。日常と非日常。平和と戦争。つまり「迂闊さ」や「呑気さ」と「大量殺人」が、この映画の中では、隣り合わせになって、めぐりつづけている。まるで世界そのもののように。

フィルメックスでの上映は終わりましたが、映画祭会期後にオンラインで有料配信予定です。

『逃げた女』(監督ホン・サンス/2020年/韓国)

画像: 『逃げた女』(監督ホン・サンス/2020年/韓国)

カムヒという女性の「余暇」を描いています。夫が出張。ちょっと時間があるので、昔の女友達たち3人を、それぞれに、久しぶりに訪ねてみよう。カムヒは屈託のない女性で、久しぶりに会った相手も、そのうちに心を開き、ぺらぺらと自分のことを話しはじめます。そこに人が訪ねてきたりして、女友達たちの現在の人間関係もほの見える。楽しそうに話しているけど、ほんとうは、それぞれ、何を考えているのか。その疑問がせりあがってくるタイミングで、カムヒとその相手の女性の顔へのzoom upが行われるのですが、表情が、多少、大写しになってみたところで、ほんとうのところは、わからない、という肩透かしをくらわされます。でも、わからないから、さらに見たくなる。ちょっとキリキリしてくる。しかし、こうやってかつての親密な関係と再び交わることで、「結婚以来5年間も、一晩も離れることなく、夫とずっと一緒にいた」というカムヒが今の生活に大してぼんやりと感じている、重苦しさというものが、じわじわ伝わってくる。誰もが破綻せぬよう、自己抑制して生きているわけですが。それでも、ふとした瞬間に抑えようもなくせりあげてくる「ほんとうに、これでよかったのかしら」という思い。しかし、そう思ったところで、その思いが行き着く具体的な先などどこにもない、ということ。主人公と一緒に、わたしたちも宙に放り出される。

フィルメックスでの上映は終わりましたが、2021年に日本で公開予定です。

木村有理子(きむら・ありこ) 映画監督。慶応義塾大学環境情報学部卒。角川大映に勤務の後、様々な媒体に映画評を寄稿。主な監督作品に『犬を撃つ』(カンヌ国際映画祭正式出品)、『わたしたちがうたうとき』(ソウル国際女性映画祭招待作品)、『くまのがっこうのみゅーじかるができるまで』(ドキュメンタリー)。

第21回東京フィルメックス 10月30日(金)〜11月7日(土)まで開催

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