FRAME #2:
映画と現代に生きる女性

昨年に続き、東京有楽町で9日間に渡り開催された東京フィルメックスの上映作品について考えてみたい。スポンサーが代わり開催自体も危ぶまれた今年の同映画祭だが、なんとか新たな協賛を得て、例年通り、いやむしろ例年よりさらに研ぎすまされたクオリティーで、記念すべき第二十回目が開かれた。すべてを網羅出来ないが、今年のコンペティションを中心に見た感想は、現代社会の様々な局面において虐げられた女性を焦点化した作品が多いということだった。  

画像: 「気球 Balloon」(ペマツェテン監督)

「気球 Balloon」(ペマツェテン監督)

例えば、昨年の傑作「轢き殺された羊(Jinpa)」に続き上映された、チベットの俊英ペマツェテンの新作「気球 Balloon」(ペマツェテン、中国、2019、102分、コンペの最優秀作品受賞)。輪廻転生というチベットの宗教的世界観と、子沢山からの中絶という現代的な選択との間に挟まれ、ある放牧民家庭の女性が妊娠した命をどうするのかというドラマである。子供がふざけてコンドームで風船を作ってしまったため、妊娠した女性は中絶を望むが、夫は死んだばかりの老父の生まれ変わりだと信じて疑わず、「産め」と強要する。

 以前はとにかく美麗なイメージを見る者に突きつけ、物語の意味とは別の地平で豊かな映像詩が成立することを見せつけてきたペマツェテンだが、今回は、企画開発から国際的なファンドや映画祭の支援があったからだろうか、とても「わかりやすくドラマチック」なプロットになっていた。とはいっても、仏頂面の主人公夫婦、子どもたち、じいさんや近所の人々の佇まいを美しく捉える視線はあいかわらず卓越している。味わい深い老人の佇まいは侯孝賢に通じ、子どものいたずらが大人の切ないドラマの引き金になるという点で小津に通底している。そんな映画史への敬意に満ちた映画だからこそ、「わかりやすくドラマチック」なプロットだろうが、映画は安くならない。

 ペマツェテンの慧眼は、美しく人々の表情を捉えるだけではない。演出力も冴え渡っており、全く飽きさせない。僧院に出家したという妹と、その妹と過去に密通し、おそらく孕ませて堕胎した過去のある恋人の青年教師の関係も素晴らしい。エドワード・ヤンの初期作品に出てきそうなナイーブさを湛えた小説家を目指す青年は、妹との過去を小説に書いて出版したから読んで欲しいという。その佇まいがなんとも映画を味わい深くしていた。小説のタイトルは「気球」。おそらく二人の男女が思い描いた夢、未来と重ね合わせたイメージだと想像される。しかし、その気球はパンっと割られ、二人の男女の運命も破綻してしまう。

 無論、それまでこのチベットの作家の作品を見てきた者なら、意味不明でもただただ美しく詩的なイメージにより映画を引っ張ってゆくあの強引なまでの作家性を懐かしがる向きもあるかもしれない。しかし、この淡い恋が破れた若い男女や、予期せぬ妊娠により精神的に破綻をきたす妻の横顔、砂丘を全速力で走ってゆく素っ裸の少年二人、また、2つの赤い風船をバイクに結びつけ滑走するショットや、過去の姉妹の仲良い様子から現在の二人の様子にまで一つのショットでブリッジしてしまうロングテイクなど、ペマツェテンの映画への嗅覚はいたるところで研ぎ澄まされている。それを輪廻転成というチベット仏教的価値観と、現代社会の現実との相克を背景に描き出すあたりの均衡感覚と豊穣さが、この作品を類い稀な傑作にしていると思う。

画像: 「評決 Verdict」(レイムンド・リバイ・グティエレス監督)

「評決 Verdict」(レイムンド・リバイ・グティエレス監督)

一方、フィリピンからはDVに苦しむ女性についての映画「評決 Verdict」(レイムンド・リバイ・グティエレス、フィリピン、2019、126分)が出品された。本当の人生の苦しみは、飾りも虚飾も何もなしでそのまま見せれば良いという作家の覚悟が映画の強さに直結していた。キャサヴェテスの血統をそのまま引き継いでいるとゆうべきか。

 冒頭、子連れの女性が夫に血みどろのDVを受け、戸外に逃げ出すシーンから映画は始まる。DVと親権をめぐる裁判になり、これまた会話中心の”公判もの”になるかと思いきや、弁護人が途中でやめたり、DV防止のための女性保護が徹底していないなど、制度破綻とモラルの混乱が何も機能しない社会を浮き上がらせる。スラムの頽廃は、その親の世代(もしくはそのずっと前)から受け継がれており、警察も司法も半ば見放している。夫婦関係も、親も、弁護士も、検事も、司法も、福祉も、警察も破綻してしまっている社会で人はどうやって生きてゆくべきなのかという核心に向けて、なにも飾らないヴェリテスタイルのこの作家は、リアリティだけをぐいぐいと力強掘り下げる。まるでキャサベテスの「こわれゆく女」のように。傍観者としてDVの被害者である妻を見てきた我々は、こんな明らかな暴力であるのに、司法は被害者を保護できないし、証拠不十分で夫は無罪になるのではないかと予想され、妻の旗色はどんどん悪くなる。しかし、いよいよ判決の日になる直前に夫はスラムの麻薬売人たちの揉め事に巻き込まれ、命を落とす。よって裁判は、結局ディスミス(取り下げ)となり、用意したあった無罪の判決文を判事は読まない。終了した後半の書類はファイルに収められ、裁判所の裏の山積みにされた書類の倉庫(まるで再生紙工場のゴミ溜めのよう)に放り込まれて、このDVケースはなにも裁かれずに終わる。夫は死に、残された妻と娘はどうなるのだろうか…。

 上映後、たまたま近くに座っていたアミール・ナデリ監督と話し合ったのだが、とても真摯な作家(メンドゥーサの助監督だったそう)で、作品としては好意的に思えたのだが、最後にわざわざドラマ的な夫の死を導入しなければいけなかったのか?という点を議論した。確かにドラマ的ツイストは面白いし、読まれない判決文という効果も興奮する。さらに重要なことは、ラストの「処理済み」書類の倉庫を示すことは、このDVがフィリピン社会に蔓延る何千、何万というDVのうちのたった一つであるという作家の俯瞰した視点へ到達する。それはそれで、ワイズマン的で(作家もおそらく「DV2」を見ていたに違いない)よい。しかし、そんなドラマ的展開を恣意的に入れることなく、判決が無罪放免になったとすれば、この夫婦の本当の苦しみがここからさらに続くことになる。司法も、福祉も、警察も、親も、ロクに助けてくれない世の中で、夫婦はどうやって生きていけば良いのか--これが「こわれゆく女 Woman Under the Influence」のテーマであり、敢えてそこをぐいぐいと突き進んで欲しかったというのがナデリ監督の言。私は、この俯瞰の視点も面白かったと言い議論したのだが、ともに共鳴したのは、この作家の演出がとても謙虚で好きになってしまうというものだった。

画像: 「春江水暖Dwelling in the Fuchun Mountains」(グー・シャオガン監督)

「春江水暖Dwelling in the Fuchun Mountains」(グー・シャオガン監督)

「春江水暖Dwelling in the Fuchun Mountains」(グー・シャオガン、中国、2019、154分)は、女性を中心とした中国の大家族の近代史。中国内陸部・杭州市の富春(フーチュン)に住むこの一家を、これ以上ないぐらい遠く離れた俯瞰的視点から描写し、それを山水画の絵巻物と対照させ、人間たちをその中に溶け込ませようという壮大な作家的意思に貫かれた傑作。現代中国のアンゲロプロスと呼んでも差し支えなかろう。ギリシャの巨人との大きな違いは、風景にエキストラと俳優が区別なく一様に溶け込んでいる点だ。これは奇跡的とさえ言える。「旅芸人の記録」でさえ、キャメラが中心化する俳優たちと背景にいるエキストラの違いは、どこか感じ取れてしまうものだった。撮影隊が被写体との関係において現場で作り出すヒエラルキーが画面にも写り込んでしまうことは、映画の不可避的な構造なのだが、この作品はそれが極小的に希薄であるのが特徴となっている。

 映画の中盤、富春江の川岸で寄り添う男女が一旦別れ、男は突然川に飛び込み、女は川岸に沿って歩き出すという長回しがある。男が6、7分ほど川を泳いで下ってゆくのをキャメラは追いながら、同時に地上を早足で歩いてゆく女性も逃さない。男がとうとう岸辺につき陸に上がると、追いついた女と合流し川岸を歩き続けるも、キャメラはさらにこの美しい川辺の景色とともに男女を捉え続けることを止めない。風景と人物、俳優もエキストラも、川の流れも、岸辺を吹く風も、そこで暇をつぶす市民も渾然一体となり、この下流につづく歩みはいつ終わるのか、われわれは途方もない感動を覚えながら共に着き添いつつ、映画を発見してゆく…。

 作家はこの横移動ショットは山水画の絵巻物を意識したのだろうか、川の流れと、トラッキングショットという映画的運動と市民と背景の融合ぶりが、とてつもなく壮大で美しく、傑作としか言いようがない。言語的修辞が映画に追いつかないというのは傑作を目にした時いつも感じることであるが、この現代中国映像詩は、まさに人類の言語に到達できない豊饒さを捉えている。

 風景と人物を山水画のように溶け込ませてしまうこと。
この壮大な野心は、ラスト母親の反対を押し切って学校の教師と結婚した娘と、その母親との和解の驚くべき描写に結実している。その「和解のプロセス」は画面では全く描かれない。結婚反対で険悪になり、家を出て行った娘はしばらく家庭に姿を見せない。母親は気丈に振る舞い、ダウン症の末っ子を世話する三男が賭場経営で不正をし、借金まみれになるなど惨状に事欠かない家族は、出て行った娘のことを忘れてしまたのかとさえ思う。しかし、最後近く、悠久の長江の流れの上空から流域を捉えた巨大俯瞰ショットが示され、おそらく「風光明媚な風春の情景ショット」だろうと高を括って見ていると、その中にある一つの山が頂きからガバッと禿げており、よく観察するとそれは山頂から下りてゆく巨大な階段で、そこを豆粒大の人々が下りてゆくのを発見する。カットが切り替わると、キャメラはポン寄りで階段の全体を捉え、そこを例の家族が仲良さげに下ってゆくのが見える。痴呆症だった老婆の葬儀が、山頂の墓場であったのだろうか。礼服に身を包んだ家族の中に、あの例のいがみ合っていた母と娘が屈託無い笑顔を見せて話しているのを目にする。我々はそのとき、省略された時間で起きたであろうことーーいろいろあった後、互いのわだかまりの乗り越え二人が最接近したことーーを悠久の山水の風景の中で理解に至るのである。なんと、卑小なことで人間は諍い合うのだろうか、など様々な想像を掻き立てる。とてつもない映画表現だと思う。

痴呆でも朗らかに生きてきた老婆、レストランの経営を切り盛りし家族の中央でいつもバランスをとってきた母親、その母親と和解し教師の夫とこの大家族を背負ってゆくだろう娘。中国地方都市の腐敗と暴力を背景に、3世代の女性がどうやってこの社会の毒を浄化してゆくのか、という大河ドラマと見ることもできよう。

画像: 「水の影 Shadow of Water」(サナル・クマール・シャシダン監督)

「水の影 Shadow of Water」(サナル・クマール・シャシダン監督)

「水の影 Shadow of Water」(サナル・クマール・シャシダン、インド、2019、120分)が描いたのは、インドの地方都市で起きたレイプ事件に端を発する寓話劇。鬱蒼とした雨季特有の湿気に満ちた夜明け前の森を、男女3人が各々どこか不本意な面持ちで旅に出るという冒頭のムードから、傑作の匂いに満ち満ちている。十代の女とその恋人である優柔不断なヘタレ男、彼の仕事上のボスである巨漢の3人がオンボロトラックに乗り、市街地を目指して走る。そして、町に寄って夜半になったため泊まった安モーテルで、女がボスに強姦されてしまう。あまりのショックから言葉を失ってしまう男。しかし、そもそも精神的に依存してきたボスに対して抗うこともできない「弱さ」をさらけ出し、愛する女性がレイプされても怒ることもできず、ただ泣いているだけの体たらく。ぼろぼろに精神が破綻した3人は村に帰るどころか、その途中にあるジャングルの中を無目的に彷徨う道を選ぶ。重苦しい深緑のジャングルは人里から3人を切り離し、文化や風土的なしがらみとは関係のない、人間存在の強靭さが問われる環境に追いやられるという極限状況が圧倒的である。3人は欲望と敵対心をむき出しに見せあい、人間存在の業らしきものがじわじわと浮上してくる。滝壺で再度レイプという、これまた見たことのない強烈なバイオレンスもあり、その極まった作品世界には口をあんぐりと開けるしかなかった。腑に落ちないのは、右も左もわからぬまま犯されてしまった女性がどのように変化してゆくのかがあまり描かれておらず少々単調かつ曖昧に思えたが、そこがさらに奥まで描きこまれていれば、強烈な傑作に化けただろう。

画像: 「波高 Height of Waves」(パク・ジョンボム監督)

「波高 Height of Waves」(パク・ジョンボム監督)

「波高 Height of Waves」(パク・ジョンボム、韓国、2019、94分)のテーマは、古典的ともいえる大昔から人間社会に影を落としてきた狂気、未成年の売春を暗黙に許容してきた村社会についての映画だった。監督のパク氏いわく「道徳の不在と、それを気にも留めない無感覚」についての作品。とても重要なテーマであるし、それを描くための設定と物語もおもしろいのだが、おそらくこのあまりにも反復されてきたテーマであるが故に、作品自体はそこまで評価されていないのではないか。とはいえ、映画自体は真っ当に作られた、省略や隠喩がうまく配された味わい深い秀作だと私は思う。

 韓国本土から離れた小島に新たに配属された中年の女性警察署長が転任してくる。中学生の娘と二人暮らしで、いま首都で別居中の夫と(おそらく)離婚調停中。署長は、漁師村に蔓延る若い娘の売春文化に気づき調査を開始する。その娘は二十代前半で、十代からずっと周りの男たちに金と引き換えに抱かれてきた。しかもうまく手なづけられ、本人に罪悪感、後ろめたさは全くなく、たしなめる/処罰する権力もなく、閉じられた村社会の性の需給関係が成立していた。当然そこに立ちいろうとする署長に様々な妨害に直面することになる・・・。道徳の存在しない、人々が信心を忘れてしまった社会とも言えるし、平凡な日常の中に巣食っている「悪」を描いているとも言える。閉じられた社会の利害関係の中で、独自の「常識」が出来上がってしまうと、人々は無感覚に道徳から遠く離れてゆく。この道徳不感症は恐ろしく、日本という島国でも同じ現象が起きているのではないか、と思え、「閉じた社会」一般に通じる深淵な寓話となっている。人はなんと愚かな生き物なのか…。

 しかも獣を獲る猟の営みや生活を脅かす野生の猪との戦いなどの日常描写が背景として描かれ、暴力の連鎖が生存競争の一環として続いていかざるをえない厳しい環境を見ていると、男という「動物」が生存競争のために女を犯すというようにも思えてくる。不快だが真実だろうという虚飾のない指摘を、我々は黙って受け入れるしかない。鋭利な批判精神が光る作品である。冗長な説明は省略し、汚く強欲な男どもの犠牲になってきた若い少女二人に寄り添うことで、映画は純粋な精神性へと突き抜けている。

画像: 「カミング・ホーム・アゲイン Coming Home Again」(ウェイン・ワン監督)

「カミング・ホーム・アゲイン Coming Home Again」(ウェイン・ワン監督)

「カミング・ホーム・アゲイン Coming Home Again」(ウェイン・ワン、アメリカ・韓国、2019、86分)は、アメリカ西海岸のとあるアパートの一室で痩せ衰え死に向かってゆく時間を静かに受け入れようとしている老年の女性を、キャメラが定点観察してゆくという佳作。彼女の息子が骨つき牛肉を使った韓国料理を拵えてやる冒頭のシーンから、どうやらこれはこのアパートのある町へずいぶん前に移住した韓国人移民一家の話であることが、ぼんやりとわかり始める。彼女は末期がんであること、夫とは不仲とは言えないまでもどこか全てを語り合うわけではない距離があること、またアメリカの企業で働いている長女が、母親の先が短いと知り急遽駆けつけてきたことなどが、アパート内の描写から徐々に明らかとなり、見る我々もだんだんとこの移民家族の歴史を理解してゆく。そして、母親である彼女が家族、とくに一番可愛がっていた息子には語らなかった重苦の数々が、彼が高校の寮生活で家を離れていたときに起きていたことが、会話の端々やカラートーンを薄っすら変えた過去のシーンから少しずつ明らかにされる。まるで死に向かう母の記憶を家族が共に遡行してゆくかのように、美しい映像言語が現在と過去の記憶を結び繋げる。高校の寮にキムチなど家庭料理をタッパーに詰め差し入れに訪れた母親の前で、夢中にその手料理を頬張る息子のシーンが、全く別の見え方をしてくるという視点の変化の妙が映画全体の要となっており、人は全てを記憶することはできない、家族は実は永遠に分かり合えない部分を持ちつつ生きてゆくもの、という淡く切ない真理をウェイン・ワンは素晴らしい手つきで描き出した。

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インドのモーテルでレイプされた未成年、韓国の小島で輪姦された少女、中国の伝統的な親に結婚を認めてもらえぬ若いカップル、フィリピンでDVと社会の機能不全に苦しむ女性、望まぬ妊娠に思い悩むチベットの夫人、アメリカで家族との不和と秘密に苦しむ末期がん患者・・・国は違えど、強権的な男性や、社会構造からくる不遇に苦しみ、虐げられた女性を見つめようとする映画作家たちの視点。残念ながら見られなかったのだが、コンペの「ニーナ・ウー」(ミディ・ジー、ミャンマー等)もハリウッドを揺るがせたMeToo問題に想を得て書かれた女優のトラウマについての映画だという。

 一つの映画祭でこんなにも多くの映画作家が、現代に生きる女性の問題を意識的に描こうとしたのは、何を意味するのだろうか。
国連がSDGs (Sustainable Development Goals)の5番目に設定するジェンダー平等が、まだ遠く達成されていない今の世界で、作家たちが敏感に感性を働かせて捉えた本質的な危機であるということではなかろうか。

 かくいう私も、男性父権が依然支配的な現代日本で、セクハラとジェンダーバランスについての新作を準備している。それは、また次回以降に語りたいと思う。

WRITER:

舩橋淳

映画作家。東京大学卒業後、ニューヨークで映画制作を学ぶ。『echoes』(2001年)から『BIG RIVER』(2006年)『桜並木の満開の下に』(2013年)などの劇映画、『フタバから遠く離れて』(2012年)『道頓堀よ、泣かせてくれ!DOCUMENTARY of NMB48』(2016年)などのドキュメンタリーまで幅広く発表。
日本人監督としてポルトガル・アメリカとの初の国際共同制作『ポルトの恋人たち 時の記憶』(主演・柄本祐、アナ・モレイラ)は、2018年度キネマ旬報主演男優賞(柄本祐)に輝く。現在、日本のジェンダーバランスを問い直す新作「ささいなこだわり」を制作中。

オフィシャルサイト:http://www.atsushifunahashi.com

※カバー写真 アッバス・キアロスタミ監督の遺作『24フレーム』より

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