ジョーとエイミーが、ふたたび出会う場所をめぐって

この映画を見た帰り道、思い出したのは、自分自身の十代の終わりだ。映画の原作「若草物語」では、子供時代が終わり、それぞれの自立時代がはじまって、姉妹が、バラバラになるくらいの年齢。私は、交通事故にあった。歩いていた歩道に、たまたま、つっこんできた車をよけきれなかったのだ。私のすぐ前に歩いていた友人たちは、とっさに車をよけてジャンプし、かすり傷ですんだ。彼らはよけられたのに、なぜ、わたしは、よけられなかったか。大怪我して、包帯にグルグル巻きになって、入院した病院に、親友から「君の、この入院は、”大人になりたくない”という入院だと確信しています」という手紙が届いた。多分、私は、十代が終わってしまうということが受け入れられず、暗い気持ちで、下を向いて歩いていたために、ひとりだけ、車に気づくのが遅れたんだろう。

そう、十代の女性同士の関係が、あまりに、すばらしくて、完全に満たされていたので、自分は、大人になりたくなかった。特に、女友達たちと、大人のいない場所で、だべる時間は、爆発的な面白さがあった。あの時の、「あの感じ」が、この映画には、ちゃんと、うつっている。みんな知ってると思う。その子その子の、本質的なところが、むきだしで、そこにゴロンとある感じ。矛盾することや、くいちがうことを恐れずに、様々な、やりとりがおこなわれ続ける感じ。同時に、みながしゃべっているのに、聞き取れる感じ。投げやりで、夢見がちで、現実的で、知的で、しょうもなくて、ナイーヴなのに、どこか図太くて、反感や諍いはしょっちゅうなのに、すぐに仲直りする、直感的で論理的で、下世話でモラルがないのに、生真面目で神聖で清らかで、美しいものと甘いもので、全てがチャラになる。あの感じ。あの、伸縮する居心地のいい自由な宇宙。そこには、その後起こりうることの、全ての芽がある。いいことも、わるいことも全部。

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あの頃、表面上は、「重要なのは、これからはじまる未来であって、この、だべっている時間になど、価値はない」というふりをしていた。この関係が、そのうちに、なくなってしまうことはわかっていた。そのかなしみに耐えかねて、何も感じないふりをしたのだ。あのとき、一緒だった友人たちは、一体、どこに行ってしまったのだろう…と、だんだんと、寒々しい気持ちに襲われてくる。「成長する」ってことは、子供時代にあった「本質的な何か」を「永遠に」失ってしまうことなんだろうか…それとも、子供時代に得たものというのは、永遠なんだろうか。

この映画は、いつも一緒だった若草物語の4姉妹がバラバラになり、それぞれが、孤独に自分の問題と向き合う時期を生きているところから、はじまるのだ。長女のメグは、誰よりも賢くて現実的な人に見えるけど、実は、洗練された優雅で贅沢な暮らしに、人一倍憧れている。愛する人と結婚したけれど、身分不相応な優雅な衣装が着たくて、貧しい夫がコートを買うはずだった、なけなしのお金を使い込んでしまうのだ。

次女のジョーは、原作者のオルコット自身が自己投影されているといわれる、主役だ。まっしぐらに作家だけを目指していて、自分を省みることがない。衝動が衝動としてうごめいている。自分でそれを止めることは決してない。衝動を否定されることを恐れて、すぐに敵認定して相手を打ち負かそうとする。傲慢で、すぐに誰かを傷つける。強気なはずなのに、尊敬する相手に、自分の小説を批判されて、あっという間に挫折してしまう。

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三女のベスは、体が弱くて、極度の恥ずかしがり屋なので、学校には通っていない。でも、自分だけの揺るぎない世界を持ったミュージシャンで、4姉妹の良心であり支柱なのだ。でも、病気で、大人になる前に、亡くなってしまう。

そして、四女のエイミーは、気取りやで、見栄っ張り。そして、ジョーに負けず劣らず、勝気な性格だ。プライドが高くて、鏡ばかり見てる。いつも完璧でいたいから、負ける勝負はしたくない。現実主義者で、ジョーとは、いつも、対立する。画家を目指すけれど、残念ながら、才能に恵まれていないと気づいてしまう。だから、金持ちの男をつかまえようと、現実的な努力に励む。でも、本当に、それを自分が望んでいるのか、自分でも、わからない。ジョーにいれこみ、「ジョーのように生きたい」と願う読者や観客に、エイミーという人物は、とことん、嫌われてきた。その証拠に、「amy hate」とか「エイミー 嫌い」という検索が、今でもされている。ジョーの幼なじみで親友だったローリーが、自立志向のジョーに結婚を断られたのち、エイミーを選び、2人は結ばれて結婚するからだろうか。しかし、この映画では、エイミーは、ジョーと同じくらいに魅力的な人物として描かれる。情熱はあるし、勤勉で、人に好かれる美貌や、如才なさをもっている上に、竹を割ったような、さっぱりした性格だ。しかし、ジョーのような、弾けるような芸術的才能はなく、自分に失望している。言い寄ってくる金持ちの男と結婚するべきなのか、自分の気持ちに正直になるべきなのか、がんじがらめになってしまう。しかし、誇り高く賢い彼女が、姉ジョーへのコンプレックスを無防備にも、思わず口にしてしまうとき、彼女は、ほんとうにほしいもの、ジョーのことを思い続けているローリーの心を手にすることができる。ローリーとエイミーの、雪の中の初めてのキスが、大ロングショットになるシーンが、あまりにもロマンティックで、はっとした。姉を思うローリーを、黙って、ずっと思い続けていた、エイミーの純情に、気高さに、けなげさに、胸がふるえる。

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この映画を真に美しくしているのは、ジョーとエイミーという対照的でありながら、拮抗する力を持つ2人の女性の対立と愛の物語だ。彼女たちが、大人になっても、子供のころの「本質的な自分」を見失わないために、もがく姿をみて、痛みを感じずにはいられない。エイミーを演じるフローレンス・ピューの、あの、薄い青の意思的な目、それが、きっと見開かれたり、憂いを帯びて曇ったり、愛に輝いたりする様子に、思い切りかすれた低く強い、はっとするほど明晰な声に、すっかり魅了されてしまった。あたしの、愛しい、エイミーよ。わたしが、あなたを嫌ったりしたのは、あなたが、私に近かったからだ。他聞に漏れず、ジョーに入れ込み、ジョーにアイデンティファイしてきた私も、この映画を見ることで、自分の中の、「エイミー」と、初めて折り合いをつけることができたような気がするのだ。「ジョー」の中にも「エイミー」はいて、「エイミー」の中にも「ジョー」がいる。ベスの死後、再会した2人が、改めて心を通じ合わせるシーンでは、子供時代を共にしたお互いへの、かけがけない感情が、溢れ出すのだ。

十代の頃からの友人たちとの間に、大人になってから次々と起こった、様々な齟齬、喧嘩、離別の辛さ。そして、それから、何年もたった後の交流の再開が思いがけず穏やかであったことを思い出して、泣けてくる。

映画は、暖かい子供時代が終わり厳しい現実をつきつけられ、4人それぞればらばらになっているブルーがかった「現在」から、満ち足りていた4姉妹が一緒だった頃のオレンジ色のかかった「過去」とを、何度も行き来する。しかし、その、オレンジ色の暖かい過去がやがて「現在」に近づいてきて、3女のベスが病気で亡くなってしまうのを最後に、世界は、ブルーがかった色だけになっていく。そして、ジョーは、孤独に書くことに没頭していく。この、過去と現在を激しくぶつけていくような構成には、胸がつまった。しかし、この映画は、それでは、終わらず、満ち足りた暖かい子供時代と、寒々しい大人の世界との往還から、その全てを相対化し、自由に、さし貫いていくような、透明で冴えわたった「書く」という世界への飛躍までを描く。若草物語を生み出した、オルコットの道程を追体験するかのようだ。

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監督グレタ・ガーウィグは、この映画は、原作に忠実でありながらも、とても、自伝的な映画だと感じると言う。「自伝的な映画」を作ると、監督は、登場人物に自己投影していると、一般的には、思われるわけだけど、映画を作るための動力として、自己投影が機能したとしても、それは映画を作りおえた時点で終わってしまうものだ。物語というのは、運命的なものではなく、恣意的なもので、その物語は、「わたし」というものを、どこにも、あらわさない。どうにでも、いじれる物語を自分の責任において、調整決定したものだ。だから、完成したときは、どこまでも、孤独で、まわりに誰もいない。ふるえるほどさびしいが、これ以上ないほど、落ち着ける場所だ。そして、物語は、一度できてしまえば、作家からさえ自立した、一つの世界=本=映画になる。

この映画のラストで、ジョー役のシアーシャ・ローナンは、息をつめて、なんとも形容しがたい表情で、自らが書いた「若草物語」が製本されていくのを、見つめている。誇らしく、感極まったような、それでいて、さびしいような。冷たくも自由な風が吹き抜ける場所に、たった1人で立つ、「作家」の顔なのだろう。この「作家」は、原作者オルコットであると同時に、映画監督グレタ・ガーウィグでもあるような気がする。まさに、ジョーと同じように、彼女もまた、爆発的な喜びと愛にあふれた10代と、そこから続く大人への道程を、冴え渡った透明な視点で、自在に撚り合わせ、生々しい輝きを放ったフィクションにすることで、自らの子供時代の「本質的な何か」を人生全体を貫く「永遠のもの」へと昇華できたのかもしれない。(終)

木村有理子(きむら・ありこ)
映画監督。慶応義塾大学環境情報学部卒。角川大映に勤務の後、様々な媒体に映画評を寄稿。主な監督作品に『犬を撃つ』(カンヌ国際映画祭正式出品)、『わたしたちがうたうとき』(ソウル国際女性映画祭招待作品)、『くまのがっこうのみゅーじかるができるまで』(ドキュメンタリー)。

ストーリー

19世紀、アメリカ、マサチューセッツ州ボストン。マーチ家の四姉妹メグ、ジョー、ベス、エイミー。情熱家で、自分を曲げられないため周りとぶつかってばかりの次女ジョー(シアーシャ・ローナン)は、小説家を目指し、執筆に励む日々。自分とは正反対の控えめで美しい姉メグ(エマ・ワトソン)が大好きで、病弱な妹ベス(エリザ・スカレン)を我が子のように溺愛するが、オシャレにしか興味がない美人の妹エイミー(フローレンス・ピュー)とはケンカが絶えない。この個性豊かな姉妹の中で、ジョーは小説家としての成功を夢見ている。ある日ジョーは、資産家のローレンス家の一人息子であるローリー(ティモシー・シャラメ)にダンス・パーティで出会う。ローリーの飾らない性格に、徐々に心惹かれていくジョー。しかしローリーからプロポーズされるも、結婚をして家に入ることで小説家になる夢が消えてしまうと信じるジョーは、「私は結婚できない。あなたはいつかきっと、もっと素敵な人と出会う」とローリーに告げる。自分の選択でありながらも、心に一抹の寂しさを抱えながらジョーは小説家として自立するため、ニューヨークに渡る――。

『 ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』予告編

画像: アカデミー賞6部門ノミネート!シアーシャ・ローナン主演『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』予告 youtu.be

アカデミー賞6部門ノミネート!シアーシャ・ローナン主演『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』予告

youtu.be

監督・脚本:グレタ・ガーウィグ(『レディ・バード』)
原作:ルイーザ・メイ・オルコット
製作:エイミー・パスカル、デニーズ・ディ・ノヴィ、ロビン・スウィコード
音楽:アレクサンドル・デスプラ
出演:シアーシャ・ローナン、ティモシー・シャラメ、フローレンス・ピュー、エリザ・スカンレン、エマ・ワトソン、ローラ・ダーン、メリル・ストリープ

6/12(金)より、全国順次ロードショー!
『 ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』公式サイト

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