「三十六歌仙」とは、平安時代と奈良時代の伝説的な和歌の名手を三十六人を選んだものだ。それもただの「歌の天才」ではない。

なにせ「仙人」の「仙」だ。ほとんど信仰めいたオーラが伴うというか、しかもこの展覧会のメイン・テーマである、歌仙たちを描いた元は二巻の絵巻物だった「三十六歌仙絵」(秋田の大名・佐竹家に伝来していたため「佐竹本」と呼ばれる)には、この36人に加えて「住吉大明神」、大坂・住吉大社の祭神という、本物の神サマまでが含まれている。一応(?)人間である36人も、特に柿本人麻呂は神格化されて神社もあり、和歌・詩歌の神様だけでなく、なぜか防火の霊験もあるらしい(「ひとまろ」が訛って「ひとまる」で、「火が止まる」の意味になったのか?)。

近世となると、たとえば徳川家康が神格化された「東照宮」では、拝殿に三十六歌仙の絵を飾ることが多い。祀られているのは武家の棟梁で初代の将軍なのに、武勇に関する絵ではなく歌仙たち。日光東照宮と京都・南禅寺の金地院東照宮には狩野探幽の、川越・喜多院の仙波東照宮には岩佐又兵衛の三十六歌仙の額絵が拝殿に並んでいる。

「佐竹本」三十六歌仙絵はそんな近世より遥か前、中世・鎌倉時代に、36人の肖像と住吉大社の風景を二巻の長尺の絵巻に、それぞれの代表的な和歌の名作を添えて描いたものだ。大正時代に佐竹家の資産が売却された際、1人ずつ切り離され一枚一枚の絵になってしまった。そのうち31件の再集結が、この展覧会のメイン展示だ。

画像: 重要文化財 《佐竹本三十六歌仙絵 小大君》 鎌倉時代 13世紀、大和文華館蔵、後期(11/6~11/24)展示

重要文化財 《佐竹本三十六歌仙絵 小大君》 鎌倉時代 13世紀、大和文華館蔵、後期(11/6~11/24)展示

アートや文学が文字通り生活や職業の一部だった平安時代

美術展なのにテーマは和歌つまり文学ジャンル、というのは単に西洋近代の分類に基づいて現代人が違和感を覚えがちなだけで、詩歌も絵画も中国の儒教と文人思想の影響が強かった日本では公家たちや、後の世では武家にとっても基礎教養だった。文化に精通し歌も上手くなければ政治家として尊敬を集められなかったりもしたのが伝統的な日本だったし、逆に三十六歌仙のいずれも「プロの詩人」ではない。

こういうところには日本の芸術・芸能の、実のところ今にも繋がっている特徴も現れている。作り手と受容者の間に明確な線引きがなく、自分でも同じジャンルの実作・実演の素養がある人間が受け手に多く、観客・鑑賞者が同時に「弟子」的な立場でもある関係性だ。三十六歌仙たちが褒め称えられた時代に、その歌を賞賛する公家や女官たちも誰もが日常的に歌を詠んでいて、歌仙の歌はそのお手本だったし、室町時代以降なら武家は能楽師の舞を鑑賞しながら自分たちでもその能楽師を師に謡を朗じ舞を舞っていた。近世に大衆芸能が花開くと、歌舞伎役者は踊りの師匠・家元でもあり、芝居小屋で彼らの芸を楽しむ観客にとってその踊りは子供の頃からの習い事でもあった。今でも子供にピアノやバレエを習わせる親は多く、その子達が大人になるとクラッシックのコンサートやバレエ公演に行くのだろうし、もっとも身近なところでは「カラオケ」もそう言えるのかも知れない。

三十六人の歌仙たちの「本業」は朝廷の高官や女官、僧侶など、大雑把かつちょっと乱暴に総括してしまえば、ほとんどが当時の「政治家」でもあり、その詠んだ歌は仕事や生活の一部として生まれ、人間関係の形成に大きな位置を占めていたのと同時に、政治の手段ですらあった。

画像: 重要文化財 《佐竹本三十六歌仙絵 源 信明》 鎌倉時代 13世紀、泉屋博古館蔵、通期展示

重要文化財 《佐竹本三十六歌仙絵 源 信明》 鎌倉時代 13世紀、泉屋博古館蔵、通期展示

歌を詠むことは決してただの文芸趣味、パーソナルな余技の趣味教養ではなく、例えば紫式部の祖父に当たる藤原兼輔の肖像に「佐竹本」で添えられているのはこの一首だ。

  人の親の心は闇にあらねども 子を思ふ道にまどひぬるかな

子供を心配する親心は決してうしろ暗い、悪いものではないはずなのに、それでも子供のことを思うと前後の見境もなく迷ってしまって困ったものです、というような大意で、子煩悩な親の心情をちょっと自虐的に語ったパーソナルな本音のようにも読め、微笑ましくさえある。

だがこれが天皇に宛てて詠んだ歌で、兼輔が娘をその天皇に入内(一応、結婚と考えていい)させていたとなると、がぜん意味が変わって来る。当時の天皇家には「皇后」の位がなく、有力貴族が娘を入内させてもそこは一夫多妻制、天皇に愛され子供ができなければ、その娘は朝廷内での地位も確立できず不遇の生涯を送るしかなくなるし、なによりも実家の父親にしてみれば、娘に天皇の子を産ませてその外祖父として政治権力を掌握するという政治的な目的が果たせない。

つまり天皇が自分の娘を気にかけてくれないと、という兼輔の心配は、単なる「親の心」だけでは済まなかったのだ。

「佐竹本」の特徴として、たいていの歌仙絵が衣冠束帯や女房装束、僧侶の袈裟姿の類型で、いわば身分を表す記号性をメインに描かれがちなのが、1人1人について絵師の細かな工夫で、歌に合ったポーズや表情が描きこまれている作例が少なくない。ところが、この兼輔に限っては没個性・無表情というか、定型の衣冠束帯でただ座っているだけに見える。それがかえって、兼輔がとぼけているというかポーカーフェイスというか、意味深に思えて来る。

それぞれに個性的に描かれた36人の肖像が、彼らの歌と響きあう

「歌」と言っても知っている歌詞を歌うのではなく、その時々の自分の心情をリズムに乗せて歌うというのは、今やその感覚すら完全に失われた習慣だが、ずいぶん面白いものだったに違いない。現代であればミュージカル映画を「不自然」と揶揄する感覚があるが、自分の心情が歌となって口から出てくることは、かつての日本ではまるで自然に行われていたのだ。

佐竹本で選ばれている歌仙たちの歌も、もちろんこの兼輔の一首のように裏読みを要するものばかりではない。月を眺めつつ、思ったように出世できないまま老いてしまった人生に孤独を感じているという歌に、立ち上がろうとする瞬間なのか、片膝を立てて寂寥感に満ちた肖像が添えられてたいり、伝説的プレイボーイ在原業平が一見おとなしく束帯姿で座っているように見えながら、冠の飾りが風になびいていたり、歌と絵の表情がデリケートに一致して人の世の一瞬一瞬の移ろいや無常を滲ませてしんみりする作品も多い。

伝説の美女・小野小町が華やかな女房装束の後ろ姿にどこか孤独感をにじませながら、顔は見せないで見る者に想像させる。

  色見えで うつろふものは 世の中の人の心の 花にぞありける

この小町の、世の中と人間の思いのうつろいを花がやがて散ることにかけて詠んだ歌に合わせたかのように、画面に吹き抜ける風の流れが描きこまれている。あるいは業平の冠の表現もそうだし、住吉大社の風景画も含む多くの絵が、風や空気の流れを感じさせ、そのことが宮廷装束の形式にとらわれがちな歌仙絵に、繊細な動きを作り出している。

絵巻物だった状態では、もしかしたらその風が同じ方向に吹いているように描く趣向もあったのだろうか? そして絵師は風を感じさせることで、描かれた歌仙たちの姿が一瞬一瞬であること、歌を詠んだその瞬間が移ろい行くものであること、和歌とはそんな一瞬の心の揺らぎを詠むからこそ永続的・普遍的な人間のあり様を表現し得ることと、そこと相反する時の流れを、絵巻という形式に写し取っていたのかも知れない。

絵とのギャップで詠み手の高い文学的才能が際立つ例が、父の僧正遍照も歌仙に選ばれている素性法師だ。歌は夕方に愛する男の来訪を待つ遊女の心情を一人称で詠んだものなのに、描かれている詠み手は男のお坊さんで、それもちょっとずんぐりした小太りの姿だ。他の歌仙でも詠み手が武者装束で描かれていてもその一首は繊細な心の揺れを歌っていたり、なんだかとても、おもしろい。

画像: 重要文化財 《佐竹本三十六歌仙絵 源 公忠》 鎌倉時代 13世紀、京都・相国寺蔵、通期展示

重要文化財 《佐竹本三十六歌仙絵 源 公忠》 鎌倉時代 13世紀、京都・相国寺蔵、通期展示

とはいえ一方で、例えば「地方に栄転するのはめでたいが親しい人たちと別れることになるのは寂しい」というような歌だって、絵に描かれた通りの率直な心情だけで読まれたものでは実はなかったのかも知れない。親王に子供が生まれたお祝いに歌って絶賛されたものが、父親には「そういう歌は天皇の子供が生まれた時にとっておけ」と叱責された、なんていう逸話があったりもする。

和歌の基本は、率直な心情が言葉を生み、歌となるのがお約束のはずだ。ちなみに男性貴族の場合、公的な自己表現となると漢文・漢詩を書くのが慣例だった(あるいは自分で漢詩が書けない貴族のために代筆する役職まであった)。つまり和歌はよりパーソナルな表現だったはずだが、だからこそかえって貴族社会の複雑なレイヤーとテクスチャーが、そこに現れてもいる。

「和歌の文化」の完成は、実は王朝文化の貴族の時代の終焉の後

天皇や貴族たちが歌で恋を語らい政治的な駆け引きを繰り広げ、「日本は歌で動いていた」とすら極論できてしまいそうな平安時代も、後期になると武力という実力行使が本業の武士階級が台頭し、ついには平家と源氏の戦争のあおりで「華やかな王朝文化」の日本は終焉を迎えたはずだ。

ところがこの「佐竹本」三十六歌仙絵は、すでにその武家の時代になっていたはずの、鎌倉時代の作なのだ。

いったいどういうことなのか? その答えもこの展覧会にはちゃんと組み込まれている。

「佐竹本」が分断されて一枚一枚が軸装された絵が展示されているのは2階で、順路に沿って1階に降りると第4章「さまざまな歌仙絵」、第5章「鎌倉時代の和歌と美術」が続き、中世・近世・現代につながる和歌の文化がむしろ平安の王朝文化が終焉してからこそ意識され、鎌倉時代にこそその自覚的な受容の文脈が作られたものだったと、気づかされるのだ。

例えば第5章では「新古今和歌集」を編纂した藤原定家が独特の、個性的な書体で書いた日記「明月記」の断簡が展示されている。建暦元年、つまり西暦1211年という、すでに鎌倉時代も真っ只中の記述だ。この定家と父・俊成を祖として、京都の公家で和歌の文化を継承し守る役割を担って来たのが京都御所の北、相国寺と同志社大学の前に邸宅が今も残る冷泉家だ。つまり歌仙絵に代表される和歌の文化の継承と、平安朝の宮廷生活への憧憬は、その華麗な時代が終わってしまったからこそ、明確な意思を持って守られ、強い使命感で意図的に遺されて来たものに他ならない。

「和歌の力」で武家から政治を取り戻そうとした後鳥羽上皇の亡霊

文化はそれを守ろうとする意思がなければ、すぐに失われてしまう。

では鎌倉時代初期に、和歌の文化について守る意思を持ったキーパーソンが誰なのか?それを示す、とても珍しく、そして強烈に印象に残る作品が第4章に展示されている(10月29日以降会期末まで)。「後鳥羽院本三十六歌仙絵」の、3人の女性の歌と肖像、小大君、伊勢、中務を描いた3作で、定家に「新古今和歌集」の編纂を命じた後鳥羽上皇の「宸翰」(天皇の直筆)と伝承されるものだ。

後鳥羽上皇といえば日本史でもっとも有名なのは「承久の乱」だ。鎌倉幕府の三代将軍・源実朝が暗殺されて源氏嫡流将軍が途絶え、執権の北条家が幕府の実権を握ったのに対し、上皇はその北条氏を朝敵と断じ討伐するよう全国に檄を飛ばすが、2代執権・泰時とその姉で源頼朝の妻だった北条政子の方が一枚上手で、後鳥羽院の戦いは手痛い敗北に終わった。こうして日本の歴史は朝廷と公家の時代から、武家の時代へと、明確かつ最終的に転換していく。

隠岐に配流されて生涯を閉じた悲劇の上皇は、他にも刀工を京都に呼んで「菊御作」と言われる刀を作ったりしていた事でも知られる(京都国立博物館の日本刀展でも「菊御作」が展示されていた)が、なんと自分で歌仙絵まで描いていたのだ。

極めて有能で野心的な政治家だったこの上皇が、文化への憧れが強かったり趣味人だったから、というだけでは片付けられない絵だ。後鳥羽院は生前の実朝に盛んに働きかけ、そのツールとなったのも和歌の文化だった。実朝もまた院の強い影響から和歌を愛好し、宮廷風の文化を鎌倉に持ち込むことで将軍の権威を高めようとした。跡取りの子供がなかったので親王(皇位継承権を持つ天皇家の男の子)を次期将軍に迎えようと、後鳥羽院の協力を頼んでもいた。後鳥羽院が定家に「新古今和歌集」を編纂させたのも、自ら歌仙絵まで描いていたことも(まあ「伝」なので、本当に宸筆かどうかは分からないが)、自ら刀まで作っていたのと同様に、武家に奪われた政治的実権を再び京都に、そして天皇家に取り戻そうとまでは行かずとも、武家の実権という当時の逃げようがない現実の社会構造の上に、再び天皇家の権威権力を位置付けようとする政治の一環だった。

後鳥羽がまず天皇として即位した時、天皇位の継承の証である「三種の神器」は、平家が安徳天皇を奉じて西に逃走し壇ノ浦で敗北、安徳天皇が入水した時に、祖母である平清盛の妻・時子(二位の尼)が自ら抱えて共に飛び込んだはずだ。神器を納めた箱が浮かんでいたので回収された、と伝わってはいるが、本当は「三種の神器」がどうなったのかが判然としないまま即位した後鳥羽天皇は、その意味で天皇としての正式の権威の形式を持てないまま即位したと謗られかねない立場であり、しかも実際の政治と経済の実権もこの時代、どんどん鎌倉幕府と武家勢力に奪われつつあった。

そんな後鳥羽上皇の強烈なコンプレックスと意思、だからこそ過去をただ憧憬の対象とするだけでなく継承することに、先祖である過去の天皇達に対する畏れや強固な義務感すら宿っているせいか、院の宸翰と伝わる3人の歌仙絵は、佐竹本の絵師の卓越した技術に根ざした優雅さと複雑な意味付が入り組んだ繊細な表現とは、対照的だ。技巧的には稚拙とすら言われそうな、シンプルな線やベタッとした白い顔料の塗り方には、かえってなにか鬼気迫るまでの異様な、それだけに歌仙たちが単に「歌の名手」でなく文字通り「歌仙」、「仙人」であることの霊的なパワーを持ったような存在感があり、凶々しさ一歩手前まで突き詰めたような絵の中の歌仙が、上皇その人と一体化しているようにさえ見える。

絵巻だった「佐竹本」はなぜバラバラになったのか?

後鳥羽院の戦争は敗北に終わったが、院が残そうと奮闘した和歌の文化と終焉した王朝文化への憧れは、朝廷と公家に代わって実態権力を掌握した武家たちに確かに引き継がれていく。だがやがてその武家の時代も終わり、明治維新で「大名」でなくなった佐竹家では、大切に守って来た家宝の「三十六歌仙絵・佐竹本」を維持できなくなってしまう。そこでこの絵巻が人物1人ずつバラバラに分割されて売却となったのは、上下二巻、37の絵と詞書を丸ごと買い取る財力が、さすがに誰にもなかったことだけが理由ではない。平安時代の和歌と同じような位置付けで、近世以降の日本でエリート達の生活文化の大きなベースとなったより新しい時代の総合文化が、この決断には深く関わっている。

それは「茶の湯」だ。明治・大正の大財界人たちの多くは、茶人でもあった。

近世初期に茶の湯が戦国武将たちの交流ツールとして活用され、茶室が時に密談の場にもなったように、激動の明治前半を乗り越えて近代経済の成功者として頭角を表した彼らは、日本人としての文化的アイデンティティを取り戻す意識もあってか、茶の湯にのめり込みつつ、それを社交ツールとしても大いに活用していた。

旧三井物産の社長だった益田孝(号は「鈍翁・どんおう」)のような近代数寄者たちは旧大名家が手放さざるを得なくなった名品も買い取って見事なコレクションを築き、「佐竹本」は今度は、そんな近代数寄者たちのコレクションの対象となった。こうして絵巻を分割購入して自分たちでこの名品を茶席に飾ろうとしたのは、三井、住友、野村、芝浦製作所(いまの東芝)などなど、今にも繋がる錚々たる経済人達だ。

意味付けが移ろいながらも確かに継承されていくのが「日本の伝統」

茶会では、書や絵を床の間に飾る。だから「佐竹本」は絵巻物のままではなく、軸装した個別の作品となった。

現代の我々の単純な価値観では「文化財破壊」に思えるこの切断事件は、しかし日本という国の文化の歴史を考えると、そう安易に断罪できるものでもないことも、この展覧会では実感させられる。美術品は、日本の歴史では生活のなかの実用品だからこそ貴重なものであり、持ち主や受け手の価値観が入り込むことで、その作品の本質すら移ろい行くものだ。それは奈良・平安時代の歌と詠んだ歌人達を鎌倉時代に(つまり王朝文化の時代が終焉した後になって)描きながら、定形ではなく歌が詠まれた瞬間を再現したように見せる「佐竹本」自体が、すでに描かれた瞬間からそういう時代ごとに変わっていく解釈の多様性を取り込んだものだったのではないか? それが日本という国であり、日本人の文化なのだ。

問題はむしろ、文化財や芸術がどんな位置付けでどう受容されてるのかの、歴史的な価値観の文脈と変遷なのかも知れない。確かにバラバラになった「佐竹本」のうち数件の断簡が行方不明なのは大変に残念な損失だし、今回の展覧会が実現するまでだって、大正8年に購入された時からさらに売買が重ねられた経緯を突き止めるのに、大変な努力が必要だったことだろう。

だが一方で、日本の美術品は元来、生活の一部として実用の具としての美が基本で、茶器であればその真価は茶室の中で催される茶会の中で、亭主の趣向によって他の茶道具と組み合わされ、再解釈されることでこそ見出され、維持されて来た。

美術館に並べてガラスケース越しに眺めるだけでは、茶碗や水差しや釜だけでなく、茶会の客の目を楽しませるための掛け軸に込められた美や哲学を堪能し尽くせるわけでは、必ずしもないだろう。その意味では切断され軸装されたからこそ、佐竹本の歌仙絵は茶道具として新たな美を生きることになったのだし、そこに思いを馳せることを狙うかのように、京都国立博物館では一部の歌仙絵の展示のそばに、近代数寄者(=近代日本経済を支えた大実業家たち)がコレクションしていた茶碗や茶入れなどの茶道具も展示している。

一方で、そんな贅沢な歌仙絵の見方を楽しめたのは大富豪だった持ち主達と、その周囲のごく一部の人々に過ぎなかったのだし、それが現代の民主主義の時代にはおよそそぐわない美のあり様であるのも確かだ。今日、誰もが博物館で、ガラスケースごしとはいえこの歌仙絵をじっくり楽しめることをありがたく思いながら、いろいろ考えさせられる展覧会だった。

画像: 重要文化財 《佐竹本三十六歌仙絵 小大君》(部分)、鎌倉時代 13世紀、大和文華館蔵、後期(11/6~11/24)展示

重要文化財 《佐竹本三十六歌仙絵 小大君》(部分)、鎌倉時代 13世紀、大和文華館蔵、後期(11/6~11/24)展示

開催概要・アクセス

展覧会名[特別展] 流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美
Special Exhibition
The Thirty-Six Immortal Poets: Elegant Arts of the Classical Japanese Court
会期2019年10月12日(土)― 11月24日(日)
* ※会期中、一部の作品は展示替えを行います
主な展示替:前期10月12日―11月4日/後期11月6日―11月24日
会場京都国立博物館 平成知新館【東山七条】
〒605-0931 京都市東山区茶屋町527
開館時間午前9時30分―午後6時 金・土曜日は午後8時まで
* ※最終入館は各閉館の30分前まで
休館日月曜日
  • ※11月18日(月)は臨時開館します。臨時開館のお知らせ
  • ※ただし10月14日と11月4日は開館、翌火曜日休館
主催京都国立博物館、日本経済新聞社、NHK京都放送局、NHKプラネット近畿、京都新聞
後援京都府教育委員会、京都市教育委員会、京都市観光協会
協賛岩谷産業、松栄堂、損保ジャパン日本興亜、ダイキン工業、竹中工務店、NISSHA、三井物産、三井不動産
協力大光電機
お問合せTEL.075-525-2473(テレホンサービス)

交通アクセス

  • JR・近鉄:京都駅下車、駅前市バスD2のりばから206・208号、D1のりばから100号系統にて博物館・三十三間堂前下車、徒歩すぐ
  • 京阪電車:七条駅下車、東へ徒歩7分
  • 阪急電車:河原町駅下車、京阪電車祇園四条駅から大阪方面行にて七条駅下車、東へ徒歩7分/または、河原町駅下車、四条河原町から207号系統にて東山七条下車、徒歩3分
  • 市バス:博物館・三十三間堂前下車、徒歩すぐ/または東山七条下車、徒歩3分
  • ※ご来館はなるべく公共交通機関をご利用ください
  • ※七条通沿いの「三井のリパーク京都国立博物館前」駐車場は有料となっております

流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美 cinefil チケット・プレゼント

下記の必要事項、読者アンケートをご記入の上、「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」展チケットプレゼント係宛てに、メールでご応募ください。
抽選の上5組10名様に、ご本人様名記名の無料観覧券をお送りいたします。
この無料観覧券は非売品です。転売、オークションへの出品などを固く禁じます。

応募先メールアドレス  info@miramiru.tokyo
応募締め切り    2019年11月15日(金)24:00

1、氏名
2、年齢
3、当選プレゼント送り先住所(応募者の電話番号、郵便番号、建物名、部屋番号も明記)
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また、抽選結果は、当選者への発送をもってかえさせて頂きます。

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