奈良観光の秋の定番といえば「正倉院展」だが、今年は天皇家「お代替わり」記念で東京でも正倉院宝物を見られる。東京国立博物館の「正倉院の世界」展だ。

日本史の教科書でも知られる名品では、東京では「螺鈿紫檀五絃琵琶」が、奈良では「鳥毛立女屏風」の全6扇が展示されている。あまりに宝物の数が膨大で(約9000点)、毎年奈良で「正倉院展」があってもそうしょっちゅう見られない現物、というだけでもチャンスだ。例えば「螺鈿紫檀五絃琵琶」は、教科書でおなじみのラクダと椰子があしらわれた異国情緒たっぷりの表側だけでなく、裏をこそじっくり見たい。東アジアの螺鈿細工の長い伝統の中でも最高峰の、豪勢で華麗で精緻な宝相華に鳥や蝶が舞う見事さには、うっとりと、目を奪われる。

画像: 「螺鈿紫檀五絃琵琶」 唐時代・8世紀 正倉院宝物 【東京国立博物館「正倉院の世界」展・前期展示10月14日~11月4日】

「螺鈿紫檀五絃琵琶」 唐時代・8世紀 正倉院宝物 【東京国立博物館「正倉院の世界」展・前期展示10月14日~11月4日】

この有名な「螺鈿紫檀五絃琵琶」は前期のみの展示だが、後期ではもう一本の唐伝来の琵琶で、螺鈿細工ではなく鹿の角や様々な硬い香木の象嵌で文様を描く木画を施した「紫檀木画槽琵琶」も展示される。螺鈿の煌びやかさはないが非常に繊細に花鳥を描き、より日本人の感性にマッチした渋い美しさが素晴らしい。黒漆の上に銀で花鳥や鹿などの動物の細かな文様を散りばめて、落ち着いた雰囲気の中に自然を愛好する日本人の文化の原点が見えるような、聖武天皇が愛用したと思われる水差しの「漆胡瓶」も後期展示だ。

画像: 「鳥毛立女屏風」 奈良時代 天平勝宝4年から8年(西暦752-756)の間に成立 第2扇 正倉院宝物 【奈良国立博物館「第71回 正倉院展」】

「鳥毛立女屏風」 奈良時代 天平勝宝4年から8年(西暦752-756)の間に成立 第2扇 正倉院宝物 【奈良国立博物館「第71回 正倉院展」】

奈良・東大寺の正倉院、「院」と仏教施設を指す字がつき、かつ文字通りの「倉」、つまり仏教寺院でもっとも重要な寺宝を納める場所のことだ。この大寺院を創建し大仏を作った聖武天皇が亡くなってまもなく、愛用していた品々を愛妻・光明皇后が寄進したというのが、正倉院宝物の由来だ。2010年には所蔵品リスト「国家珍宝帳」(東京国立博物館で全巻が展示中)に載っていて、現品が見当たらなかった剣が二本、東大寺の大仏殿の地下から発見された。光明が夫の冥福と国の安泰を祈ってふた振りの剣を大仏に捧げたのだ(こちらは東大寺の所有で東大寺ミュージアムに展示)。

妻が寄進した夫遺愛の品。夫は誠実で仏教の敬虔な信者だった天皇で、妻は貧民救済に尽力したという「やさしい国母」皇后の、相思相愛「愛のカタチ」伝説。そんなロマンチシズムもあるせいか、奈良の展覧会は本記事の写真のように例年以上に大変な盛況、今年の東京展もすでに大人気だ。

ただし聖武=光明の夫妻はもちろん、決してただの夫婦ではない。

正倉院に凝縮されているのは、日本という国の基本のカタチを作った夫婦の記憶

聖武=光明の時代(奈良時代)は、日本が部族社会的な古代国家から脱皮して、法と秩序に基づく全国統治の、国としてのカタチを完成させた時代だ。当時はまだまだ「国をまとめる」ことへの抵抗や障害は少なくなく、しかも疫病や自然災害も多く、夫妻自身は皇子を幼くして失うなどの私生活での悲劇も重なり(個人的な悲劇であるだけでなく、跡取り候補を失ったのは国家にとっても痛手)、夫の聖武は病気がちだった。様々な苦難を夫婦で乗り越えなければならなかったその歴史はつまり、夫婦愛・家族愛の物語であると同時に、日本が日本になる過程の困難な政治の歴史そのものでもある。

日本国家の成立過程がこれまた、学校の日本史で教わる以上に波乱万丈だった。

最初に「天皇」を名乗った聖武の曽祖父・天武天皇は、即位の前にまず兄の天智天皇(「大化の改新」の中大兄皇子・実際には「天皇」を名乗ってはいない)の息子、つまり自分にとっても甥の大友皇子と、血みどろ肉親殺し合いの内乱に勝利しなければならなかったし(壬申の乱)、この内乱の遠因には、天智の政権が晩年にレームダック化していたことが無視できず、なぜレームダック化したかといえば、朝鮮半島の戦争に介入した白村江の戦いで、倭国軍がボロ負けしたことが大きい。

しかもこの戦争で倭国(「日本」の国号も天武以降のもの)が戦った相手の一つが当時は世界最大の帝国だった中国の唐だ。倭国は東アジア世界で孤立し、超大国・唐の直接攻撃すら警戒される事態に陥っていた。天武天皇は即位そうそう、倭国の国内をまとめると同時に外交的な地位を回復する火急の必要に迫られていた。

画像: 「赤漆文欟木御厨子」 飛鳥時代7世紀 天武天皇から聖武天皇を経て孝謙天皇まで6代の天皇の、特に重要な遺品を納めた由緒正しいタンス 正倉院宝物 【奈良国立博物館「第71回 正倉院展」】

「赤漆文欟木御厨子」 飛鳥時代7世紀 天武天皇から聖武天皇を経て孝謙天皇まで6代の天皇の、特に重要な遺品を納めた由緒正しいタンス 正倉院宝物 【奈良国立博物館「第71回 正倉院展」】

そうでなくとも諸国の豪族の連合として微妙なバランスで成立していて、安定性を欠くことが多かったのが倭国の政治で、大王家(のちの天皇家)では、先代が亡くなるたびに複数の王位の継承者ぞれぞれに豪族の利害が絡み、血みどろの内乱になることもしばしばだった。「大王」の位の継承ひとつを取ってもそのルールが確立しておらず、法と制度に基づく国家としての安定した秩序が、まだまだ未発達だったのだ。

大海人皇子(のちの天武天皇)が兄の息子を殺し「大王」に就任した時には、東アジア世界の中心である超大国・唐との関係は侵略も危惧するほどで最悪、国内もまだまだバラバラだった。この状況を打破するために大海人が国号を「日本」と変え、自らを「大王」ではなく「天皇」と名乗ったのが、今に繋がる「日本」という国の直接の起源となる。天武は全国豪族の連合国家的な、話し合いと妥協と呪詛・占い、ときに骨肉の争いの武力衝突に左右された政治のあり方に代わって、「天皇」とその朝廷を中心として「律令」という法制度に基づく、中央集権の全国政権の樹立に尽力した。

もっとも、その天武自身は途中で亡くなってしまい、新しい国家のカタチをひとまず完成させたのは、妻の女帝・持統天皇(父は天智天皇・大友皇子の妹に当たる)だ。しかも夫・天武が存命中で自分は皇后だった時点ですでに、主導権を握っていたのはむしろ彼女だとすら言われ、夫妻の時代(天武持統朝)に成立した日本の建国神話「古事記」「日本書紀」の建国神・天照大神は持統がモデル、という説もある。

奈良国立博物館の「正倉院展」では今回、天武・持統から聖武天皇を経て孝謙天皇まで、6代の天皇の特に重要な品を納め、「国家珍宝帳」でも特に重要と記された由緒正しいタンス(貴重なものを納めるため「厨子」という)を展示している。木材を赤く染めて透明の漆で仕上げた、その木目がとても美しい。1970年に底部床板が発見され、これが日本のヒノキ材だったことから、日本で製作されたものである可能性が高いという。

「日本という国と国民のカタチ」を作った三組の天皇夫妻

聖武=光明夫妻の歴史もまた、出来たての国のあり方を決める政治上の苦闘と夫婦の物語がパラレルになっているところが曽祖父の天武と妻の持統に通じる。さらに言えばこの天武=持統、聖武=光明と並んで天皇の歴史上の三大夫婦として挙げて良さそうなのが、(時代は思いっきり飛ぶが)皇太子時代から戦後日本の新しい価値観作りに夫婦で取り組み続けた明仁上皇=美智子上皇后夫妻だ。

ともに10代で戦争と敗戦を体験し焼け跡の東京で育ったこの夫妻の、(白村江の戦い後の倭国が危機的な立場だったのと同様に)敗戦による存亡の危機から日本の国そのものが立ち直って行った時代とパラレルになった歩みと比較して、それぞれの時代にそれぞれの天皇に求められた役割を考えると、正倉院宝物から浮かび上がる聖武=光明夫妻がやったことの必然性が、よりリアルに理解できるかも知れないし、この三組の天皇夫妻に共通する夫婦愛と政治のパラレルな関係という構造を意識すると、正倉院の宝物が妻・光明が愛する夫の身近な品を納めたという触れ込みとはケタ違いに量が多く、しかもあまりに豪華であることの違和感にも、説明がつきそうだ。

奈良の「正倉院展」の会場に入るといきなり、象牙を染めた赤と紺色のよく似たデザインの二本の華麗なモノサシに、まず目を見張る。これは先述の、天武以来6代の天皇が特に重要な品を納めていたという厨子(タンス)の中にあった、聖武天皇の遺品だが、モノサシと言いながらどこが目盛なのかなど、使い方が今ひとつピンと来ない。

画像: 「紅牙撥鏤尺」 象牙製のモノサシを赤く染めて精緻な模様を表したもの 模様は当時「めでたい」とされた図像がメイン 正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

「紅牙撥鏤尺」 象牙製のモノサシを赤く染めて精緻な模様を表したもの 模様は当時「めでたい」とされた図像がメイン 正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

恐らく、実用品ではあるまい。長さや重さなどの全国共通の単位を定めることは統一国家とその君主(日本なら天皇)の権限であり、そうした単位の統一は、古代の国家や帝国において、中国最初の統一王朝・秦の始皇帝が重さと長さの単位を全版図で統一して以来、全国統治のもっとも重要な要素のひとつだった。君主の権威の問題だけではない。単位(そして貨幣経済の定着以降は通貨)の統一は、全国で平等な課税も実現できるし、なによりも経済流通の発展にとっての効果も計り知れない。

つまりこの二本の象牙のモノサシは、全国を統一的に統治する君主の権威と、その君主の定めた長さの単位の下に同じ単位を用いる国民の上に立って導く天皇の権威を象徴し、儀礼用だったから、こんなに華麗で繊細に美しいのだろう。

画像: 長さもデザインもよく似た「緑牙撥鏤尺」。実際には紺色に染められているが「国家珍宝帳」には「緑」の記載

長さもデザインもよく似た「緑牙撥鏤尺」。実際には紺色に染められているが「国家珍宝帳」には「緑」の記載

国のあり様と国民の生き方を示す「モノサシ」としての天皇家の、道徳的規範の指標としての権威といえば、明仁=美智子夫妻は皇太子時代には盛んにテレビに自分たちとその子供たちを撮らせ、一時は「皇室アルバム」が大変な人気番組で、夫妻は戦後日本が理想とした家族のカタチ、核家族の家族愛とだんらんや、親子愛や子供の個性を尊重する新しく民主的な教育のあり方などの価値観を、語るのではなく実践して見せるという受け入れ易いカタチで身を以て国民に浸透させて行った。

新しい天皇も「ナルちゃん」ないし「浩宮さま」として幼少期からテレビで見続けて来た体験が、日本人の集団記憶の一部になっているし、美智子妃の子育てマニュアルが「ナルちゃん憲法」として一世を風靡し、現代の日本人がなんとなく感じている子育てに関する価値観のほとんどは、実のところその影響下にある。「平民出身」の正田美智子が「恋愛結婚」で皇太子(当時)と結ばれたことに始まり、この夫妻はいわば、新しい時代に必要だった日本人のありようを、説教するのではなく見せ続けることで先導して来たし、またその戦略を常に深く考え抜いて来たはずだ。

父・昭和天皇の場合、1952年の占領終了まで「退位論」はくすぶり続けたし、その後も「天ちゃん」「あ、そう」と揶揄され続け、一時は戦前までの天皇家に多かった近親結婚の遺伝的弊害まで口にされ、大正天皇に軽度の脳性麻痺があったことまで、今から見ると障害者差別としか思えないような揶揄の対象になっていた。昭和天皇の「戦争責任」問題も、崩御するまで全く解消されないまま、その在位に最後まで付きまとい続けた。平成から令和への転換期の今からすれば考えられないほど、昭和の後半に「天皇制」は日本人にとってアンビヴァレントな存在になり、前近代の儒教的な言い方で言えば、天皇の「徳」は揺らいでいた。

画像: 「緑牙撥鏤尺」の裏面。紅牙撥鏤尺の裏面にも同様の、精緻な草花や動物の文様が描きこまれている

「緑牙撥鏤尺」の裏面。紅牙撥鏤尺の裏面にも同様の、精緻な草花や動物の文様が描きこまれている

そんな昭和天皇の時代にも、皇太子の立場だった夫妻自身が国際親善のため世界を飛び回り、息子の浩宮・礼宮(今の天皇と秋篠宮)には海外留学をさせて、これからは日本人が国際化しなければならないことと、諸外国との友好の重要性もアピールして来た。即位してからは災害の被災地に真っ先に飛んで率先して跪いて被災者の話をじっと聞くなど、そうした真摯さに貫かれた姿に、昭和の敗戦で一時は国民の信頼を失っていた天皇家の求心力もまた、平成の終わりには国民の圧倒的な支持へと回復していた。

日本が国として、日本人が国民として「まとまる」ことに、この天皇の「徳」が不可欠であるかどうかには、現代では様々な議論があるだろう。それでも平成の天皇の象徴としての振る舞いが現在の日本人の国民的アイデンティティに大きな影響を与えているのは確かだし、例えば夫妻が貫いた「寄り添う」態度は、いつの間にか普通に使われる言葉として、そして国民が無意識レベルで共有する道徳的指針つまりは精神的なモノサシとして、確かに定着している。

画像: 「紅牙撥鏤尺」側面に見られる繰り返しの文様がモノサシとしての目盛りにはなっているのかも知れない

「紅牙撥鏤尺」側面に見られる繰り返しの文様がモノサシとしての目盛りにはなっているのかも知れない

平成の天皇夫妻が皇太子時代から国民の新しい価値観を先導し、戦後の日本人の道徳観を建て直した以上に、奈良時代の日本と聖武=光明夫妻にとっては国民の上に君臨し、強健で支配するよりは精神的に導くお手本的な説得効果の演出、つまり上品で教養があり、信心深くて「やさしい」姿を見せる態度は、重要かつ不可欠だったのだ。

この役割を果たしたであろう宝物としてさらに例をあげるなら「第71回正倉院展」には「国家珍宝帳」における最上位・最重要の格付けに位置する宝物である、仏教僧の法衣である袈裟も展示されている。

画像: 「七条刺納樹皮色袈裟」 正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

「七条刺納樹皮色袈裟」 正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

一見、表面がひどく汚れたように見えるのは、仏教では本来、地上の富に執着するのは良くないという教えがあり、僧侶の袈裟でもっとも有り難がられたのが、汚れたボロ切れをつなぎ合わせて身にまとうことだったからだ。

近くで見ると最高級の色とりどりの絹を縫い合わせ、さらに絹糸で細かく刺繍して、あたかも汚れたボロ布のように見せていることが分かる。なんとも凝った細工ではあるが、娘の孝謙天皇に譲位した聖武帝が仏門に入って出家して身につけた袈裟だったのだろう。

画像: 「七条刺納樹皮色袈裟」 絹糸で徹底的に細かく刺繍されて、汚れのように見せている

「七条刺納樹皮色袈裟」 絹糸で徹底的に細かく刺繍されて、汚れのように見せている

こうして夫妻が見せた熱心な仏教信仰(聖武は大仏を建立し、光明が貧民や病人の救済に尽力した伝説)と、身近な品が正倉院宝物に見られる超絶技巧と最高のデザインの逸品だらけなのは、当時の日本が国をまとめるために目指した「国家のカタチ」を、夫妻が常に国民に見せ続ける努力を続け、そのおかげで「日本」という国が出来上がった歴史の、とても重要な痕跡でもあるのだ。

画像: 「紫檀金鈿柄香炉」 こうした形の香炉は仏具だが、金属製が多く木製は珍しい。材料が東南アジアでしか産出しない紫檀であることや細工の精緻さから唐で作られたと考えられる。正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

「紫檀金鈿柄香炉」 こうした形の香炉は仏具だが、金属製が多く木製は珍しい。材料が東南アジアでしか産出しない紫檀であることや細工の精緻さから唐で作られたと考えられる。正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

「文化のチカラ」以外ではまとめられなかった日本という国

逆に言えば、正倉院宝物に凝縮されたような文化的な態度に夫妻が徹したことは、国家としてのカタチをようやく取り始めていた当時の日本をまとめるために、必要不可欠な政策でもあった。

「鳥毛立女屏風」は屏風として聖武が執務する場で使われていたものだろうし、鏡や水差し、それに琵琶や琴のような楽器などの身の回りの品も、単に豪華なだけでなく、高度な技術と最先端の技巧、デザインの粋を凝らしたものが多い。

画像: 「平螺鈿背八角鏡」 唐時代・8世紀 正倉院宝物 【東京国立博物館「正倉院の世界」展・後期展示11月6日~24日】

「平螺鈿背八角鏡」 唐時代・8世紀 正倉院宝物 【東京国立博物館「正倉院の世界」展・後期展示11月6日~24日】

日本は結局のところ、島国だ。それでも白村江の戦いまでは、倭の大王の政権は朝鮮半島に積極介入を繰り返し(そもそもヤマト王権が倭の統一王朝になれたのは、朝鮮半島から製鉄技術をいち早く導入できたからでもある)、東アジアの国際政治的には朝鮮半島の延長上のような位置付けでもあったからこそ、まだ戦いに勝つことで、つまり軍事力の威光で国家をまとめられる面もあっただろう。「戦争に勝つリーダ」は、それはそれで分かり易い権威・権力の理由づけ・正当化にはなる。

だが白村江での大敗戦と新羅の半島統一で、倭国が朝鮮半島政治から完全に排除されることで出来上がった「日本」という国は(繰り返しになるが)しょせんは島国である。軍事力の行使は行き着くところ、内輪の知り合い同士や親族同士の殺し合いになってしまう。その苦しみは天武=持統夫妻が、夫にとっては甥であり妻にとっては兄であった大友皇子を、国家の安定の回復のために殺さざるを得なかったことで、身を以て体験したはずだ。

これでは、戦争に勝つことで短期的には反対をなんとか抑え込めても、長期的に国をまとめることはできない。

聖武もまた即位して間もない頃には、政界最大の実力者だった天武天皇の孫(つまり聖武にとっては親戚)で太政大臣を務めた長屋王と、妻の実家である藤原氏の、光明の兄たち「藤原四兄弟」との対立が内乱に発展し、長屋王は邸宅を包囲されて自決に追い込まれた。藤原四兄弟がこうして政権を握ったのはいいが、今度は彼らが次々と病死し、長屋王の祟りが噂される。これは当時の価値観では、聖武自身の天皇としての「徳」までが疑われるような事態だった。

画像: 「漆胡瓶」 唐または奈良時代 8世紀 木の輪を重ねて整形した上に黒漆を塗り、精緻な銀細工の文様が一面に貼られている。正倉院宝物 【東京国立博物館「正倉院の世界」展・後期展示11月6日~24日】

「漆胡瓶」 唐または奈良時代 8世紀 木の輪を重ねて整形した上に黒漆を塗り、精緻な銀細工の文様が一面に貼られている。正倉院宝物 【東京国立博物館「正倉院の世界」展・後期展示11月6日~24日】

ただ反対勢力を力で倒すだけでは、日本を「国家」として維持できないのだ。この7〜800年後の室町時代後半の、いわゆる「戦国時代」も、後世には武将たちの勇猛果敢さが美化されたが、リアルタイムには陰惨極まりない時代で、肉親どうしの殺し合いも多い。特に織田信長が登場すると、敵対勢力に徹底した虐殺を繰り返すようになった。復讐を恐れて倒した敵側を皆殺しにしたのだろうが、このジェノサイド方針は後継者・豊臣秀吉に引き継がれ、その残忍さのクライマックスと言える朝鮮半島侵略では、日本の戦国時代でも滅多になかったような残酷な攻撃が繰り広げられた。秀吉の死後に豊臣恩顧の武将たちの多くが徳川家康についたのも、そんな信長・秀吉的なやり方にさすがに精神が耐え切れず、家康なら戦争の時代を終わらせてくれる期待もどこかにあったのではないか? そして日本の平和を回復した家康は(天武天皇と同じように)法と制度による秩序の確立を目指すと同時に武士に学問を奨励し、全国統一通貨(小判)を発行し、内乱が絶対にできないような国づくりを目指して諸大名を法と道徳で厳しく縛り、孫の家光やその子綱吉は文化政策に(聖武天皇のように)膨大な予算を注いだ。現在の奈良や京都の有名な寺社の豪華な建物の多くは、戦国時代に荒廃し失われたものを、家光や綱吉が再建したものだ。「ぜいたく」でも「権力の威光を見せる」ことでもない。寺社が美しく復興することは、庶民にとっても「やっと平和な時代が来た」と言う安心感をもたらしたはずだ。

あるいは14世紀、鎌倉幕府の崩壊後の混乱期に天皇家まで南北に分裂した内乱を終わらせた室町三代将軍の足利義満も、(これまた聖武天皇と同じように)中国の最高級の文化、この時代には北宋、南宋や元、明の陶磁器や絵画を盛んに収集し、仏教の最新潮流が禅宗だったので禅宗寺院の整備に務め、聖武天皇が平城京の東に黄金の大仏を建立したように、京都の北西に黄金に輝く金閣を建立している。

画像: 「金銀平文琴」 唐時代 開元23(735)年と推定 唐式の7弦の弦楽器で、全面に漆を塗り表側は金と銀、裏側は主に銀を薄く伸ばして切り抜いた模様を貼り、全体を木炭で磨き上げたもの 正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

「金銀平文琴」 唐時代 開元23(735)年と推定 唐式の7弦の弦楽器で、全面に漆を塗り表側は金と銀、裏側は主に銀を薄く伸ばして切り抜いた模様を貼り、全体を木炭で磨き上げたもの 正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

聖武=光明夫妻は、そうした後々の権力者・統治者たちのモデルにもなったと言える。

大仏建立や、今は正倉院宝物となっている品々を集めたことは、そんな夫妻の苦境の解決策として生まれた政策でもあった。夫妻が生きた、波乱万丈で骨肉の争いと苦しみ・悲しみに満ちた歴史と、当時の東アジア国際社会における日本の地位を念頭に正倉院宝物を見ると、単に豪華なだけでなく美的に洗練されていること、作るのには精確な技術が不可欠で、しかも当時の日本列島のみならず東アジア文明の最先端であることに、ただの「ぜいたく」ではなかったと納得がいく。

天皇が仏教への帰依をアピールしたこと、最先端・最高品質の洗練された品に囲まれて生活していたことこそが、武力による威圧ではなく国をまとめる切り札だったのだ。つまり正倉院宝物は単に歴史を超えて保たれて来た「天平の美」に留まらず、日本成立期の政治そのものの遺産であり、日本がようやく「和」の国となり得た歴史的瞬間の記憶が物質化した姿に他ならない。

聖武=光明夫妻の「最先端の文化的生活」を見せるという政治

そしてこれらの宝物は、歴史遺産となった現代でも、未だに「政治そのもの」でもあり続けている。東大寺の一部だった正倉院が国・宮内省、今では宮内庁の所管になったのも、明治の国家主義確立の中では重要な政治だった。東京国立博物館での「正倉院の世界」展が「皇室がまもり伝えた美」という副題なのも、政治的な意味づけは無視できない(歴史学的に「天皇家」でなく、近代以降の「皇室」という言葉を使っているのも含め)。

「螺鈿紫檀五絃琵琶」が近現代の教科書で盛んに取り上げられ、最も有名な宝物のひとつになっていることにも、政治的な意図は読み取れる。天武=持統が唐との国交回復に成功し、聖武の時代に特に活発になった遣唐使によって輸入されたものだが、琵琶の弦が5本なのは日本や中国の伝統(4本の弦)とは異なった中央アジア騎馬民族のものと言われたし(実際には定かではない)、表の鼈甲の帯に精緻な螺鈿の細工でラクダとヤシの木が表されていることも強調された。

「白瑠璃碗」がやはり学校教科書によく載っているのも、同じ理由だろう。イランなどでそっくりの品が出土している古代ペルシャ帝国起源のデザインで、現に今のイランで作られたものだからだ。

画像: 「白瑠璃碗」 ササン朝ペルシア6世紀頃 正倉院宝物 【東京国立博物館「正倉院の世界」展・後期展示11月6日~24日】

「白瑠璃碗」 ササン朝ペルシア6世紀頃 正倉院宝物 【東京国立博物館「正倉院の世界」展・後期展示11月6日~24日】

確かに聖武=光明夫妻が奈良の・平城京で営んだ生活は、西域・中央アジア、中近東の文物や、その影響を受けたモチーフもふんだんな、国際色豊かなものだった。正倉院、そして夫妻の時代の平城京が、しばしば「シルクロードの終着点」と言われるのも、それはそれで納得の行く形容ではある。

とは言ってもそうなったことは、奈良時代の天皇が「最先端の文化的生活」を見せようとした以上は当然の結果でしかない。当時の世界的最先端のお手本といえばもちろん最盛期を謳歌していた同時代の世界最大の超大国、アジアの中心だった巨大帝国・唐であり、西域の影響や文物も、その唐が国際色豊かな文明の一大中心になっていたからに他ならない。「螺鈿紫檀五絃琵琶」にしても表のモチーフこそ西域風でも、唐の最高の技術を駆使した中国工芸の傑作だ。

ところが明治以降の日本は「脱亜入欧」が国是、アジアではなく西洋国家に列する「一流国」を目指したので、その国家成立期に天皇家が中国をお手本にした、というかコテコテに中国模倣に徹していた史実は、まことに都合が悪かった。その点で「螺鈿紫檀五絃琵琶」はなにしろ表側は中国起源ではない意匠が満載だし、「白瑠璃碗」はペルシャの特産品だったので、もっとグローバルな世界観を装えるアイテムでもある。

画像: 「金銀花盤 」銀製の花の形を模し、中央には打ち出しで大きな鹿が描かれている いかにも西域風のデザインだが裏面に刻まれた銘文から唐の中央工房で作られたものと分かる 正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

「金銀花盤 」銀製の花の形を模し、中央には打ち出しで大きな鹿が描かれている いかにも西域風のデザインだが裏面に刻まれた銘文から唐の中央工房で作られたものと分かる 正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

そもそも天武天皇が「天皇」を名乗ったのも、律令つまり法と制度による中央集権体制の確立に腐心したのも、お手本は唐、つまりは中国で、「天皇」にしても儒教用語だ。

奈良の「正倉院展」では今回、西暦742年に行われた大仏の開眼法要で、聖武上皇と光明上皇后(当時すでに譲位していた)が着床したと考えられる冠の断片が、バラバラになった冠が入っていた木製の箱や、箱の中で冠を支えていた木製の器具と合わせて展示されている。

画像: 「礼服御冠残欠」の一部、聖武天皇(当時は上皇)達が大仏開眼会(742年4月9日)で着用したと考えらる冠の断片 正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

「礼服御冠残欠」の一部、聖武天皇(当時は上皇)達が大仏開眼会(742年4月9日)で着用したと考えらる冠の断片 正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

バラバラな断片でもこうして整理されると、見るからに唐風の、つまり中国の皇帝風の冠であることはすぐ分かる。

これは奈良時代に限ったことではない。即位の儀式では、明治以降は天皇皇后をはじめ揃って平安時代の衣冠束帯や女房装束(いわゆる「十二単」)を着用するが、江戸時代まではずっと中国風の衣装が使われて来た。奈良国立博物館が参考の図として展示している冠の絵図も、出典は国立公文書館に所蔵されている江戸時代の即位礼の記録だ。折しもこの秋には京都で公家・冷泉家の邸宅が一般公開されたが、ここで特別に展示されていたのが、江戸時代に当主が即位礼で着用したという冠で、これまた中国風だ(華麗な金の透し彫りに見えるが、実は和紙に金粉を塗って金細工に見せている)。

画像: 「衲御礼履」聖武上皇が大仏開眼会で聖武上皇が着用したと考えられる靴 スウェード加工した牛革を赤く染めている 正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

「衲御礼履」聖武上皇が大仏開眼会で聖武上皇が着用したと考えられる靴 スウェード加工した牛革を赤く染めている 正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

唐の時代を舞台にした映画『黒衣の刺客』で、台湾の侯孝賢監督は本気で奈良の唐招提寺でのロケ撮影を検討していた。唐招提寺は唐の名僧・鑑真が聖武天皇のたっての願いで来日して建立し、奈良時代、唐時代の伽藍が1000年以上にも渡って丁寧な修理で維持されている。唐時代の本物の建築が、修理時の多少の改造はあったり内部の彩色は失われたものの、ほぼ完全に、今も使われている建物としてあって、その本物を背景に映画が撮れる場所は、世界で他にない。「螺鈿紫檀五絃琵琶」のような唐時代の工芸品の優品も、このような完全な形では中国本土にも残っていない。

聖武=光明夫妻が目指したのは、当時の最先端の「文明国」「文化国家」としての新しい日本で、平城京はとても唐風な、中国模倣の都になり、以来(あるいはそれ以前の飛鳥時代から)日本人は現代にも通じる、外国に憧れその文化をエキゾチックな興味で愛好し続ける文化を培って来た。

海外の「最先端」をどんどん取り入れた「日本」という国の青春時代

明治以降「脱亜入欧」を目指した近代国家の政治的な都合の偏向を棄てて、素直にありのままの正倉院宝物を見れば、逆に本当の「日本スゴい」ネタもある。唐の最先端の輸入工芸品や東南アジアでしか産出しない香木などの一方で、唐風に見えても実は日本で作られた品物が少なくないのだ。

「鳥毛立女屏風」も典型的な唐風の美人を描きながら、日本製だ。今では顔や手などだけに絵の具の彩色が鮮やかに残り、あとは白黒に見えるが、衣服や植物の色彩は鳥の毛を貼り付けることで表現されていた。だから「鳥毛」の屏風と呼ばれるのだが、わずかに残った鳥の毛には、日本のヤマドリなどの羽毛が確認されている。

最新の科学調査で素材が分析されるまで日本製だと分からなかったほど完成度の高いものも多く、一説には8割以上が日本で作られたものだと言う。聖武が設立した工房で働く日本の職人たちが、遣唐使がもたらした最先端の品々を見てその構造や製法を見よう見まねで研究し、最先端技術を自分たちのものにしていった過程がそのまま刻印されているのが、正倉院宝物でもあるのだ。

画像: 「粉地彩絵八角几」X線回折で白の顔料が日本固有の塩基性塩化鉛と確認され、つまり日本製 正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

「粉地彩絵八角几」X線回折で白の顔料が日本固有の塩基性塩化鉛と確認され、つまり日本製 正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

聖武=光明の時代が天災や疫病が多く苦しい時代だった(聖武が大仏の建立を決意したのもそのため)のは先述の通りだが、それでも当時の日本の例えば職人は、決してただ嘆き苦しんで生活していただけではなく、しかもとても有能だったのだろう。

正倉院宝物は、単に宮廷の、天皇夫妻や貴族たちの生活の記憶を留める文物ではない。1300〜1250年ほど前のこの国の人たちの「生活」の総体が、リアルな「モノ」を通して見え、感じられ、想像できるおもしろさは、例えるならばアッバス・キアロスタミの映画が初めて日本で紹介された時に我々日本の観客が天才的な映画作家と出会うと同時に、イランという国と社会と人々そのものに出会えた気分になった感覚に近いのかも知れない。

画像: 東大寺正倉院 (現在は宮内庁に所属) 奈良時代8世紀

東大寺正倉院 (現在は宮内庁に所属) 奈良時代8世紀

「正倉院の世界」展では併せて法隆寺献納宝物も展示、古代日本の文化政策の全体像を見る

東京国立博物館「正倉院の世界」展では、奈良・東大寺の正倉院と合わせて、法隆寺から明治時代に皇室に献納された旧・寺宝(明治に廃仏毀釈と神仏分離で寺領も失い困窮した大寺院は、天皇家に寺宝を献上するのと引き換えにそれなりの額の下賜金をもらってなんとか苦境をしのいだ)も展示している。

画像: 国宝「竜首水瓶」 飛鳥時代・7世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物)【東京国立博物館「正倉院の世界」展・後期展示11月6日~24日】

国宝「竜首水瓶」 飛鳥時代・7世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物)【東京国立博物館「正倉院の世界」展・後期展示11月6日~24日】

法隆寺は、これも歴史の教科書を思い出して欲しいが「聖徳太子」こと厩戸王が建立し、「世界最古の木造建築」として日本で最初に世界遺産になった場所のひとつだ。

厩戸王は「聖徳太子」として死後仏教の信仰対象になり、ずっと日本人に親しまれて来たが、今の法隆寺の伽藍はその厩戸王時代の「斑鳩寺」ではない。金堂や五重塔は7世紀末に落雷で焼失してまもなく再建されたものでその背後の講堂は平安時代、他の主要な堂宇には奈良時代建立の「夢殿」があったり、平安時代、鎌倉時代の重文や国宝の建築もあり、仏像や寺宝となると南北朝、室町、江戸時代のものもある。平安時代に広まった(特に天皇家が重んじた)真言密教の仏具・仏像・仏画も多く、つまり密教寺院化していたし、一方でその真言密教だけでなく、浄土真宗など、太子を重要な信仰対象にしている宗派は多い。

「皇室がまもり伝えた」と銘打っているが、守って来たのはお寺ではないか、という批判もありえるし、これは明治維新まで東大寺に属していた正倉院も同様だろう。ただし東大寺・法隆寺そのものが今でも残っているのは、法隆寺なら厩戸王時代の伽藍が焼けた後に天武=持統がすぐに再建し、東大寺も鎌倉時代以降に天皇家が政治権力だけでなく経済基盤も失って以降は、天皇家の意思と伝統を忖度した武家が援助・維持し、寺領も保証して経済基盤を確かなものにし、一般庶民も寄付や労働奉仕で支えて来たからこそ、でもある。

「皇室がまもり伝えた」は、こじつけて言うなら明治以降は確かに皇室財産になったので、とも言えなくはない。しかしそれ以上に、日本人の総体こそがこれらの宝物を直接・間接的に守って来た、その精神的な中心には、東大寺なら大仏への信仰があっただけでなく、厩戸王を観音菩薩の転生仏とみなす信仰や、聖武=光明夫妻が「信仰に篤く誠実でやさしかった天皇夫妻」だったという伝説も含めた、天皇家というイメージへの信仰にも似た思慕があったのではないのか? そしてその天皇家自身が厩戸王(聖徳太子)と聖武天皇以降、前近代までは敬虔な仏教の一族としての歴史を積み重ねて来た。

画像: 東大寺 南大門 鎌倉時代 正治元(1199)年上棟 源平合戦後の朝廷には再建の資金力がなく源頼朝の援助により再建 奥の中門と大仏殿は戦国時代に再び焼失し 徳川五代将軍・綱吉の援助と広く一般からの寄進で再建

東大寺 南大門 鎌倉時代 正治元(1199)年上棟 源平合戦後の朝廷には再建の資金力がなく源頼朝の援助により再建 奥の中門と大仏殿は戦国時代に再び焼失し 徳川五代将軍・綱吉の援助と広く一般からの寄進で再建

考えれば考えるほど、確かに日本の天皇というのは実にユニークな君主制だ。中世には実態権力どころか宮廷を維持する経済基盤すら失っても、武家の政権の援助で、その武家政権を正当化するのに必死の権威として存続して来た天皇家の、国民によるその君主イメージの受容のありようは、こんな国王や皇帝は、世界で他にはちょっと見当たらない。

元々は中国の皇帝を模した制度だったのに、である。

エピローグ:聖武=光明夫妻の親としての悲劇から産まれたもうひとつの至高の美

奈良国立博物館に行かれた方は、お隣の興福寺にも足を伸ばして頂きたい。この博物館自体がその敷地は明治政府が没収するまで興福寺の境内地だったのだがそれはともかく、興福寺の寺宝でとりわけ有名なものといえば、「阿修羅像」が特に知られる奈良時代の乾漆製の八部衆立像(国宝)がある。

釈迦に出会い改心して仏教の保護者となった古代インドの鬼神たちの姿を表す像だが、興福寺の像はなぜか、通例の厳しく恐ろしい鬼の忿怒の表情ではなく、阿修羅が思春期の少年なのをはじめ、その半数以上が幼児、10歳前後など、あえて男の子の顔と体型になっている。

この「阿修羅像」をはじめとする八部衆、発注主はどうも光明皇后というのが有力な説だ。それも聖武との間に生まれた皇子がわずか2歳で急死した後に作られたらしい。

そうなると鬼神の憤怒の形相で作られるの定例の八部衆の多くが、少年や子供の顔で作られていることにも想像が膨らむ。これは光明と聖武が、亡くなった我が子が大きくなったらどんな顔になったのかを想像しながら作らせた像ではないだろうか?

阿修羅が思春期の少年で、それも憂いを含んだ顔と、涙ぐんでさえ見える目なのも納得がいく。聖武=光明の子は無事に大きくなっていたら、天皇になっていた。そして苦難も悩みも多かった聖武の生涯を考えると、「天皇」であることは彼にとって、この表情のような悲しみと苦しみを抱えながら、唇をきっと結んで立ち向かなければならないことだったのかも知れない。

画像: 「金銀平文琴」 唐時代 開元23(735)年と推定 正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

「金銀平文琴」 唐時代 開元23(735)年と推定 正倉院宝物 【奈良国立博物館 「第71回 正倉院展」】

奈良国立博物館 御即位記念 第71回 正倉院展

会 期 令和元年10月26日(土)~11月14日(木) 全20日
会 場 奈良国立博物館 東新館・西新館
休館日 会期中無休
開館時間 午前9時~午後6時
※金曜日、土曜日、日曜日、祝日(10月26日・27日、11月1日・2日・3日・4日・8日・9日・10日)は午後8時まで
観覧料金
一般 1,100円 団体 1,000円 オータムレイト 800円
高校生・大学生 700円 団体600円 オータムレイト 500円
小中学生 400円 団体300円 オータムレイト 200円
セット券 2,500円
※入館は閉館の30分前まで※ 団体は責任者が引率する20名以上です。
※ 混雑緩和のため、11月3日(日・祝)は「団体入場規制日」として、団体専用入場口はご利用いただけません。
※ セット券は、本展と東京国立博物館で開催される「御即位記念特別展 正倉院の世界」がセットになったチケットです。販売は主要プレイガイド、旅行代理店(一部)、コンビニエンスストア(一部)に限り、11月13日(水)午後3時までです(当館観覧券売場では販売していません)。
※ オータムレイトチケットは、月曜日~木曜日の午後4時30分以降、金曜日・土曜日・日曜日・祝日の午後6時30分以降に使用できる当日券です。当館当日券売場でのみ、月曜日~木曜日は午後3時30分より、金曜日・土曜日・日曜日・祝日は午後5時30分より販売します。
※ 観覧券は、当館観覧券売場のほか、近鉄主要駅、近畿日本ツーリスト、JR東海ツアーズ、dトラベル、日本旅行、LINEチケット、ローソンチケット[Lコード:58500]、セブン―イレブン、チケットぴあ[Pコード:769-846]、CNプレイガイド、イープラス、PassMe! など主要プレイガイド、一部旅行代理店、コンビニエンスストアで販売します。
※ 障害者手帳をお持ちの方(介護者1名を含む)は無料です。
※ 本展の観覧券で、名品展(なら仏像館・青銅器館)も観覧できます。
奈良国立博物館キャンパスメンバーズ会員の学生の方は、当日券を400円で、職員の方は団体料金でお求めいただけます。観覧券売場にてキャンパスメンバーズ会員であることが分かる、学生証や職員証等をご提示ください。
※ 11月1日(金)は「留学生の日」のため、留学生の方は入館無料です。(学生証の提示が必要です。)
※ 11月14日(木)は御即位記念のため入館無料(なら仏像館・青銅器館を含む)です。
出陳品 41件(北倉14件、中倉8件、南倉17件、聖語蔵2件)うち4件は初出陳

東京国立博物館 御即位記念特別展「正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」

会 期 2019年10月14日(月・祝)~11月24日(日)
会 場 東京国立博物館 平成館(上野公園)
開館時間
9:30~17:00(入館は閉館の30分前まで)
(ただし、会期中の金曜・土曜、11月3日(日・祝)、11月4日(月・休)は21:00まで開館)
休館日 月曜日、11月5日(火)
(ただし10月14日(月・祝)と11月4日(月・休)は開館)
観覧料金 一般1,700円(1,400円)、大学生1,100円(800円)、
高校生700円(400円)、中学生以下無料
* ( )内は20名以上の団体料金
* 障がい者とその介護者一名は無料です。入館の際に障がい者手帳などをご提示ください。
* 東京国立博物館キャンパスメンバーズ会員の学生の方は、当日券を1,000円(100円割引)でお求めいただけます。正門チケット売場(窓口)にて、キャンパスメンバーズ会員の学生であることを申し出、学生証をご提示下さい。
* 「東京・ミュージアムぐるっとパス」で、当日券一般1,700円を1,600円(100円割引)でお求めいただけます。正門チケット売場(窓口)にてお申し出ください。
* 本展観覧券で、会期中観覧日当日1回に限り、総合文化展(平常展)もご覧になれます。
交 通 JR上野駅公園口・鶯谷駅南口より徒歩10分
東京メトロ銀座線・日比谷線上野駅、千代田線根津駅、京成電鉄京成上野駅より徒歩15分
主 催 東京国立博物館、読売新聞社、NHK、NHKプロモーション
協 賛 岩谷産業、大和ハウス工業、凸版印刷、丸一鋼管
カタログ・音声ガイド 展覧会カタログ(税込2,700円)は、平成館会場内、およびミュージアムショップにて販売しています。音声ガイド(日本語、英語、中国語、韓国語)は税込560円でご利用いただけます。
お問合せ 03-5777-8600(ハローダイヤル)
展覧会公式サイト https://artexhibition.jp/shosoin-tokyo2019/

正倉院宝物を見るcinefil チケットプレゼント

奈良国立博物館の「第71回 正倉院展」、東京国立博物館「正倉院の世界」展それぞれの招待券をプレゼントします。下記の必要事項、読者アンケートをご記入の上、それぞれ「第71回 正倉院展」チケットプレゼント係、「正倉院の世界」展チケットプレゼント係宛てと件名に明記の上、メールでご応募ください。
抽選の上各展覧会ごとに5組10名様に、ご本人様名記名の招待券をお送りいたします。
招待券は非売品です。転売、オークションへの出品などを固く禁じます。

応募先メールアドレス  info@miramiru.tokyo
応募締め切り    2019年11月10日(日)24:00

1、氏名
2、年齢
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