かつては「西洋画から学んだ」ばかりが評価されていた国芳

まずタイトルの絵をご覧いただきたい。これは歌川国芳(1797-1861)が西洋の油絵の手法を模倣して描いた風景画シリーズ「東都名所」の「かすみが関」。日本美術史で国芳は長らく、こうした西洋画の技法を取り入れたことでばかり評価され、当時は大人気の浮世絵師だったのに、長らくほとんど注目されて来なかった。人気の絵師になったのは21世紀に入ってから。伊藤若冲と並ぶ、近年の日本美術で最大の再評価・復活劇と言える。

だがこの「かすみが関」、そんなかつての定説だった「泰西名画の模倣」にはとても思えない。ふと連想するのは岸田劉生の「道路と土手と塀(切通之写生)」(1915年)だったりするし、さらに斬新に抽象化され、その感覚はほとんど「シュール」でさえある。

画像: 国芳 近江の国の勇婦 於兼 天保2-3(1831-32)年 太田記念美術館蔵

国芳 近江の国の勇婦 於兼 天保2-3(1831-32)年
太田記念美術館蔵

油絵の陰影法を取り入れたとされる国芳の浮世絵の他の作品はどれも、むしろ西洋絵画の20世紀の最先端を先取りした、ジョルジオ・デ・キリコか、ダリを思わせる不思議な感覚があるのだ。

まるで『北斗の拳』か『One Piece』? マンガ・劇画を先取りした豪傑武者絵

画像: 通俗水滸伝豪傑百八人之一個 船火児 張横 文政末~天保前期(1828~33)頃 太田記念美術館蔵

通俗水滸伝豪傑百八人之一個 船火児 張横 文政末~天保前期(1828~33)頃
太田記念美術館蔵

国芳が一躍人気絵師になったのは30才過ぎの文政10年(1827)頃、大胆に誇張された動きに超細密描写がほとんどコテコテの『通俗水滸伝』シリーズでだ。そのうちの一枚の「船火児張横」 日本でも人気だった中国のスーパーヒーローの姿は上半身裸で筋肉の描写も誇張され、しかも全身凝りに凝ったタトゥーが描きこまれている。

この「やり過ぎ感」がおおいにウケたほんの数年後に、国芳は上記の油絵風の風景画シリーズを始めている。そんな画風の変幻自在にも驚かされるが、共通点は見い出せないだろうか? どちらもアイディアをとことんまで突き詰めた凝り性と、「やり過ぎ」と言われそうなほどのサービス精神、これこそが国芳の本分ではないか。

もっとも西洋風表現の方は、フォルムのおもしろさに熱中したせいか、あまりにシュールで、当時の風景浮世絵といえば名所絵なのに、上の「かすみが関」は主役が空と抽象化された坂で、具体的な場所を示す要素がほとんどない。さすがに前衛的過ぎて(模倣した先の西洋絵画でも半世紀を先取りした感性)、このシリーズは売れなかったらしく、あまり作品数はない。

浮世絵は今で言えば週刊マンガ雑誌のようなペースで、人気シリーズだと月に何枚も出版される一方で、売れなければすぐに打ち切りだった。そんなハードな世界で30代で人気絵師になった国芳が、亡くなるまでの30年ほどの間に描いた膨大な量の作品を計算すると、一時は1日1枚以上の計算になるらしい。

まるでシネスコのアクション・スペクタクル映画!国芳3枚綴りのダイナミック

売れに売れた「通俗水滸伝」シリーズは「水滸伝」の中国の英雄豪傑に留まらず、「本朝水滸伝」シリーズにまで発展して宮本武蔵のような日本の英雄まで描かれた。こういう物を描いているから近代のマジメな美術史研究で「子供向け」と無視される憂き目にもあったのだろうが、大人気の国芳武者絵は、人気絵師だから描ける3枚続(通常の大判浮世絵を3枚並べて大画面を描く)にも進出することで、さらに描写のダイナミックさを極めた傑作が次から次へと描かれて行った。

画像: 相馬の古内裏 弘化2~3年(1845~46)頃 個人蔵

相馬の古内裏 弘化2~3年(1845~46)頃
個人蔵

画像: 堀川夜討ノ図 嘉永4(1851)年 太田記念美術館蔵

堀川夜討ノ図 嘉永4(1851)年
太田記念美術館蔵

ドラマチックな画面の使い方はまるで映画、今でもシネスコ・サイズの映画の演出で勉強になりそうではないか。

画像: 通俗三国志之内 公明六禽孟獲 嘉永7(1854)年 西洋画風の陰影法のタッチも復活している 太田記念美術館蔵

通俗三国志之内 公明六禽孟獲 嘉永7(1854)年 西洋画風の陰影法のタッチも復活している
太田記念美術館蔵

3枚続の浮世絵は、当然値段も3倍で売られた。そこで3枚並べて大作になる一方で、一枚ずつでバラ売りもできるようにするのが国芳や歌川広重以前の作品だったのが、国芳の場合はそんな制約を全く考えていないのも大胆だ。

横長の画面を存分に使ってアクションを最大限に魅力的に見せるため、一枚だけではなんのことか分からないだろう。つまり「国芳なら客は3枚まとめて買う」と睨んだ版元の判断もあってのことに違いない。

画像: 有王丸と亀王丸 嘉永2-3年(1849-50) 太田記念美術館蔵

有王丸と亀王丸 嘉永2-3年(1849-50)
太田記念美術館蔵

そんなあくまで庶民芸術、売れてこそ、の浮世絵については、今回の太田記念美術館での国芳展で興味深い実例も出展されている。この「有王丸と亀王丸」は、実際に出版された数年前に最初に描かれて刊行が予定されていたもので、その時の校合刷りが併せて展示されているのだ。構図はほぼ同じだが、人物の顔が違う。

画像: 有王丸と亀王丸(校合摺) 天保14年-弘化3年 (西暦1843年-46年)完成作と人物の顔だけが違う 太田記念美術館蔵

有王丸と亀王丸(校合摺) 天保14年-弘化3年 (西暦1843年-46年)完成作と人物の顔だけが違う
太田記念美術館蔵

校合摺の方は天保14年から弘化3年、西暦では1843年から46年の間、つまり数年前に摺られたものだ。当時はまだ幕府の「天保の改革」が進んでいて、浮世絵も「贅沢品」として出版規制がかけられ、多色摺や国芳の得意の極端に細密で装飾性の高い、その分手間のかかる商品は出しにくくなっていた。特に遊女や歌舞伎役者の浮世絵は、「風紀を乱す」として禁じられていた。

数年経って規制が緩やかになったところで出版された本摺の方では、人物の顔が人気の歌舞伎役者(おそらく六代目松本幸四郎が有王丸)に描き直されている。絵としては校合摺の方が表情も生き生きとして面白いのだが、やはり人気役者の方が売れる商品になる、と判断されたのだ。

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