「エンタメ通訳の独り言」(その四)
麗しのキム・ノヴァック(前編)---小林禮子
前編で書いたように、ローレン・バコールとの出会いで往年のハリウッド・スターの圧倒的な自意識と言うか、プライドと言えばいいのか。そのパワーにどう太刀打すればよいのか、そもそも太刀打ちなど出来るのか。
先に入っていた夕張で、キムご一行三人組様(本人・夫・姉)をお出迎えする事になった私は、自分でも驚くほど緊張していました。到着が遅かったので、その日のおめもじは叶わず、翌朝、いよいよのご対面です。まず挨拶をと部屋に行くと、返事がありません。あわててフロントで尋ねると「仲良く3人で、散歩に出られましたよ」との事でした。
夕張は雪深い町です。その日は太陽がしっかり顔を出し雪は降っていませんでしたが、前日までの雪で町のどこかしこも白く覆われていました。
その時すでに60歳は超えていたはずのキムですが、楽しそうに話しながら散歩をする三人に後ろから声をかけた私を振り返った彼女は雪に反射した太陽の光の中で、輝くようでした。まあ、私の長い間のアイドルでしたから多少大げさな言い回しになってしまうかも知れませんが、でもホント。時が止まったようで、その美しさ、艶やかさはスクリーンで見たままでした。すっぴんではなかったのかな。後で確かめたのですが、サンスクリーンは塗っていなかったそうです。
祖母が常々「白いもち肌は100難隠す」と言っていましたが、これまでの女優さんは数人の例外を除きまず肌が滑らかできれい。まず肌が白くてほとんどシミがないい。まず肌が丈夫そうで、手入れは特にしていないわと、みなさん答えます。ついでにみなさん、まつげが濃くて長い。ウィノナ・ライダーのすぐ隣に座って彼女を初めて横から見つめた時、「この人のまつげに鉛筆を乗せても落ちないだろうな」と思ったものです。
キムのまつげも濃くて長く、その上に透き通るような白肌。おもわずうっとりみつめてしまいました。その上、こぼれるような笑顔。ハリウッド・スターの自意識はどこに。プライドはいずこに。ローレン・バコールとの出会いで心配していたものは夕張の雪と共に、あっさり溶けて去って行きました。
夕張滞在を楽しみ、三人様御一行は元気に帰国しました。帰り際にオレゴンの牧場の連絡先を書き留めた紙を手渡され「こっちに来ることがあったら是非寄ってね」と言われました。
来日中の俳優や監督、プロデューサー等と通訳の仲は、短期間でもかなり濃密なものになります。帰国前に自宅の住所や電話番号を喜んで彼等から教えてくれるケースも多い。ですが実際に帰国後に連絡することはまずありません。自分はあくまでOne of themの黒子。これを忘れると傷つくことが何度かありましたから。
結局、オレゴン州まで行くチャンスもなく、今に至っています。ただあの時のキム夫婦の誘いは決して社交辞令ではなかった。会いに行ったら、きっと喜んでくれるだろうと確信させるものがありました。改めて、どうしてそんな風に思えたのかを考えた今の結論。それは、獣医の御主人にあったのだと思います。
同じ金髪の美しいキム。キム・ベイシンガーも初来日の時には美術スタッフの御主人と一緒で、三人でのんびり原宿のオープンカフェでお茶をしながら、二人の出会い話を聞きました。
キム・ノヴァック
チェコ系米国人。両親はともに教師をしていたことがある。モデル時代にスカウトされ、コロムビア映画の徹底した管理のもと、ダイエットや歯の矯正を行い、その妖艶な美貌で人気を集めた。1950年代に多くの映画に主演し、『ピクニック』(1955)、『愛情物語』(1956)、アルフレッド・ヒッチコック監督の『めまい』(1958)などの作品は日本でも大ヒットした。その後ギャラをめぐる対立から専属だったコロムビア映画を離れる。1960年代以降は次第に出演作が減っていくが、ビリー・ワイルダー監督の『ねえ! キスしてよ』(1964)、アガサ・クリスティ原作の『クリスタル殺人事件』(1980)などでは、得がたい存在感を示した。1991年を最後に女優業を引退。2007年のインタビューでは、良い役があればまた演じる可能性があると語っている"。
現在は、絵なども描いている。https://www.facebook.com/KimNovakActress