Cinefil原稿『映画と小説の素敵な関係』
第十三回 『ドリーマーズ』―後編
小説の『ドリーマーズ』では、[テオ、イザベル→マシュー]という上下の力関係が [テオ―イザベル―マシュー]という平行した力関係となってゆき、それが結果的に、テオとイザベルが精神的支配層として始まった関係性に歪みを生み出し、混沌に陥るというベクトルになっています。
それが映画では、当初の起点は同じものの、[テオ―イザベル―マシュー]という平行関係になった時にマシューはいち早く「成長」し、テオとイザベルの異常であり純粋である関係性に疑問を投げかけるようになり、それが結果的に破壊もしくは決壊させてゆくというベクトルに変わっています。
その背景には、小説ではテオとマシューの間に〈ホモ・セクシャリティ〉の問題が横たわって(これはアデアの作品の特徴でもあります)いますが、映画ではそのファクターを一切取り除いているからです。
これはベルトルッチの成功といえる部分であると思います。その代わりとして、小説では大きくは強調されていない、詩人でありながら保守的な父親(=旧時代の象徴としての存在)へのテオ(=新たな時代の価値観を模索する存在)の反発というメタファーを明確に築くことでテオのキャラクターを強め、物語りに陰影を与えるように作り上げているのです。
また同時に、小説ではファクターとしては印象度が低いマシューがアメリカ人(小説ではイタリア系アメリカ人とされている)であることを強め、言葉だけでは当然伝えにくい「音楽」を有効に使っています。小説には記述がまったくない60年代ロックが全編において効果的に鳴り響き、やはり小説にはない、ロックに関する議論がベトナム戦争に対する言及へと変わってゆく下りなどは、アメリカの若者とフランスの若者の当時の時代認識、置かれていた状況、社会的問題に対して肌で感じていた空気の相違を浮き彫りにさせ、些細なダイアローグの付加に過ぎないというのに、映画的広がりを生み出しています。
そしてイザベルは、小説では「妹」で映画では「姉」。双子なのだから、大きな意味はないだろうと思われるかも知れませんが、小説では、どこか幼く、女の娘ならではの無邪気で感覚的な言動が強調されていますが、映画では、ベルトルッチに見い出され、この作品で映画デビューした、エヴァ・グリーンがイザベルを演じることで、絶対的な「詩神(ミューズ)像」となっているのです。それは勿論、エヴァが“持っているもの”に全幅の信頼を置いた結果であることは明白です。
そして何よりもこの映画の魅力は、小説では当然テキストでしか表現出来ない、「映画遊びゲーム」(小説では「ホーム・ムーヴィーズ」と呼ばれる)や、現実と頭の中にある「映画の記憶」とのシンクロが、実際の名作のフィルムを使って視覚的に紡がれてゆくことであって、映画的興奮を覚えずにはいられません。
細かいキャラクター描写のディティールもまた、小説にはない視覚的ディティールが極めて効果的に組み上げられていて、ベルトルッチの演出手腕につくづく惚れ惚れとさせられてしまうのです。
聞いたところによると、アデアの脚本にベルトルッチは次から次へとアイディアを出して書き直しを要望し、しまいには撮影現場にまで連れて行っては、撮影を進めながら現場で次々と書き直しをして貰ったそうです。勿論、かつて自分の作品に批判をしたからと苛めたわけではないでしょう(笑)。ですが、そこまで書き直しをさせるのには、当然、お互い常に緊張感が伴っていたであろうことは想像出来ますし、それと同時に信頼があったのだろうと思うのです。
こんなエピソードを聞くと、あくまでもイメージの世界の話しではありますが、アデアの内向的な小説、ひいては文筆の作業は当然「内にこもる」作業であり、自分の美学に囚われてしまいがちなところを、ベルトルッチが「外」に向けて解放させていっていたかのようで、まるで映画『ドリーマーズ』におけるマシューとテオとの関係性のように見えて来て非常に面白く思ってしまうのです。
ベルナルド・ベルトルッチとギルバート・アデア。ふたりの映画狂の邂逅から生まれた『ドリーマーズ』という映画と小説。
それは、それぞれが描いた「夢追い人たち」の姿、アデアが得意とする言葉でいえば、「純粋主義者たち」の姿です。
スクリーンだけが「窓」であり、スクリーンの中だけに「真実」があると頑なに信じていた、純粋な時代の映画狂たちの青春像。
だから私は、この『ドリーマーズ』を愛するのです。