Cinefil連載『映画と小説の素敵な関係』
第十二回 『ドリーマーズ』―中編

『ドリーマーズ』(『THE DREAMERS』)――この作品は、ギルバート・アデアが1988年に発表した『聖なる子供たち』(『Holy Innocents』 日本では未刊行。現在は絶版)が底本となっています。発表当時からいくつもの映画化のオファーが来たにも関わらず断り続けていたところ、2001年に、かの大プロデューサー、ジェレミー・トーマスから打診が来て、「ベルトルッチが映画化したいと言っていて、その代理」と聞き、ベルトルッチならと承諾したというものです。
そしてその際にベルトルッチが出したオファーには、「アデア自身に脚本に入って欲しい」ということも含まれていたのです。

画像: http://albertogonzalo.blogspot.jp/2014/09/the-dreamers-discovering-eva-green.html

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実は、アデアの中では『聖なる子供たち』の出来に不満があったらしく、それが映画化を断っていた理由の一つだったそうですが、これを機に、満足のゆくかたちに新たに書き直そうと考え、映画脚本を書くと同時に小説のリライトに取り掛かり、『ドリーマーズ』が誕生した――つまり、現在刊行されている原作は、映画化によって生まれた新しい小説なのです。

そういう経緯を知ると、当然、同じ作家の手で書かれた脚本と小説なので同じ内容と思うでしょうが、アデア本人も言っていますが、「単なるノベライズ小説ではなく」、違う「物語り」になっているところが、流石アデアです。
この作品をご覧になられている、或いは知っているという方はご存知かと思いますが、「過激な性描写」と謳われた作品です。
レンタルビデオ店に行くと、哀しいかなこの作品が「エロティック作品」のコーナーに並べられて埋もれてしまっているのを見かけます。勿論、性描写は生々しく描かれていますが、それはとても自然で本質的なものであり、「過激」とされるのが私の理解からは外れてしまうのですが、日本ではそのような扱いをされてしまっているのは事実です。

画像: http://fedrev.net/?tag=the-dreamers

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映画、小説ともに、イザベルとテオの双子とマシューとのアパルトメントでの閉鎖的な三角関係を描いているので、当然、数々の性描写が出て来ます。大きな違いは、映画と小説を比べてみると、小説のほうがその度合いが遥かに高く、謂わば病的であるということです。
異様に互いの存在に執着し合う双子の姉弟(小説では兄妹)、つまりは近親相姦的関係に、外部からそれを共有し合えるような他者が入り込んで来る――いうまでもなく、この図式はジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』がベースになっています。

アデアが目指したものは、映画の純粋性を追求し、それに取り憑かれ、その純粋さゆえにふたりの世界で“遊ぶ”ことだけに生きる意味を見い出している「子供たち」イザベルとテオが、その“遊び”を共有出来るマシューを見つけ、自分たちの世界に取り込み、ある種“異形の世界”を築き上げてゆくが、それはやがて「窓の外」での出来事によって崩壊させられてゆくという、極めて内向的且つ文学的アプローチです。
つまりは、アデアは映画狂版の『恐るべき子供たち』を作ったともいえ、どこか鬱蒼としたグロテスクさが全編を覆っています。

ところが、そんな世界観を映画化したベルトルッチは、アデアと(想像するに)緊張関係の中で、視覚的興奮やポップさやユーモアを含んだ、映画的アプローチに満ちた作品に“書き換えて”います。
この小説と映画とを比べてみると、ベルナルド・ベルトルッチが、如何に物凄い力量を持った映画監督であるかを、まざまざと思い知らされることになるのです。

                                    江面貴亮

The Dreamers (2003) Trailer

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