文化財修理・修復のサイエンス

写真の金属製の筒は、内部に写経を納めて土中に埋めることで神仏に捧げる経筒だ。元は銅の全体に金が施され、てっぺんの宝珠や蓋から垂れ下がる飾りの瓔珞にはガラスが用いられている。

宝幢形経筒(伝北九州出土) 平安時代・12世紀 奈良国立博物館
令和6〜7年度修理 財源:運営交付金

湿気が多い日本の環境下では金属も錆び易く、それも土に埋めるとなるとほとんどが酸性土壌だ。この経筒も出土した時にはガラスも永年に土との間で化学反応を起こして濁ってしまい、銅が錆びて発生した緑青で全体が覆われていたそうだ。

素人考えだと銅が錆びて緑青で膨れ上がったのだとすると表面に施された金はその下からの圧力で剥がれて失われてしまっていると思うところが、そうはなっていなかった。

宝幢形経筒(伝北九州出土) 平安時代・12世紀 奈良国立博物館

ここからは中学校の化学の復習だ。銅が酸化すると水と親和性が高い(つまりは水に溶け込み易い)銅イオンになって、それが表面を覆う金の元素の隙間を通り抜けて、鍍金の上を緑青が覆う状態になっていたのだ。そこで根気よく、時間をかけて(令和6年度の修理計画だったのが令和7年度まで延長された)緑青や錆に混じり混んでいた土と砂を丁寧に取り除いていくと、鍍金された表面と、全面に陰刻された「妙法蓮華経」八巻の巻題と、施主が祈りの主旨を述べた願文の文字が現れた。

宝幢形経筒(伝北九州出土) 平安時代・12世紀 奈良国立博物館

クリーニングされた表面には透明のアクリル樹脂を施して錆などの対策を強化し、欠失部分は裏から和紙で裏打ちを施し、木製の台はかなり朽ちていたので透明のアクリルで台と経筒が直接接することなく展示できる台が新調された。

真っ黒だった四天王に隠れていた華麗な金と色彩

奈良・東大寺は平安時代末期、源平合戦の平家の南都焼き討ちで中心伽藍が焼失、鎌倉時代初期に再建された大仏殿の四天王は、運慶の工房が造立した高さ十数メートルの巨像だった。この鎌倉期大仏殿も安土桃山時代に松永久秀の多聞山城の戦い(東大寺大仏殿の戦い)で焼失したが、運慶の四天王は造立された当時に大変に評判になったようで、ミニチュア化された写しがかなり作られていた。

四天王立像(広目天) 鎌倉時代・13世紀 京都・現光寺 京都府指定文化財
令和5〜6年度修理 京都府補助、木津川市補助

特徴のひとつは、平安時代には武器を持った軍神の姿が定着していた広目天を、飛鳥時代・奈良時代のように筆と巻物を持つ記録者の姿に戻したことだ。焼失前の大仏殿は聖武天皇の創建時のままだったはずで、興福寺の僧侶だった運慶にとっては幼い頃から慣れ親しんだその姿を、復興像で踏襲したのだろう。

現光寺の四天王立像はそんな東大寺大仏殿様四天王の代表例のひとつで、金の装飾と彩色の華やかさでも知られた像だったという。

四天王立像(多聞天) 鎌倉時代・13世紀 京都・現光寺 京都府指定文化財

だが以前に奈良国立博物館で展示されて見た時には、真っ黒な像という印象だったのが正直なところだ。

2年がかりで行われた修理のメインは、永い歳月で積もりに積もった煤や埃などの汚れを除去するクリーニング作業で、この広目天や特に多聞天の鎧に施された、金箔を細かく加工した文様(截金)も鮮やかに浮かび上がった。

四天王立像(増長天) 鎌倉時代・13世紀 京都・現光寺 京都府指定文化財