1985年のカンヌ映画祭・芸術貢献賞、製作は『ゴッドファーザー』『地獄の黙示録』のフランシス・フォード・コッポラと『スターウォーズ』のジョージ・ルーカス、監督が『タクシードライバー』の脚本でその名を轟かせたポール・シュレイダーの「日本映画」である。
出演は緒形拳、沢田研二というビッグネームの大スターに歌舞伎界の若手ホープですでに演技力が高く評価されていた坂東八十助(後の十世坂東三津五郎)、『サード』で注目された新人・永島敏行、佐藤浩市、大谷直子、大ベテランの名優として池部良、左幸子、加藤治子、李麗仙、織本順吉、さらに笠智衆までもが顔を揃え、若き日の三上博史や徳井優、塩野谷正幸、平田満、萬田久子、烏丸せつこらも、という超豪華キャストだ。俳優ではないが横尾忠則も出演している。
そんな超話題作に間違いない映画がなぜ、最も話題を呼びそうな当の日本で公開されなかったのか?
ポール・シュレイダーの大野心作『MISHIMA: a Life in Four Chapters』はしかしそのまま、日本では幻の映画であり続けて来た。もう二十年以上前、シュレイダーが『白の刻印 Affliction』(1997年、アメリカ公開1998年、日本公開は2000年)のキャンペーンで来日した時にも、なんとか公開できないものかと動いていたようで、筆者自身もインタビューで、その当時の最新作だった『白の刻印』以上に『MISHIMA』の話を聞かされた。
数年前にも、今度こそ満を待しての公開か、せめて特殊上映は出来ないものか、興味を持ってくれた配給会社と相談し、シュレイダー監督にも打診したことがある。三島由紀夫の未亡人・平岡遥子が亡くなったのは1995年で20年以上も経っているし、当時の日本の総理大臣・中曽根康弘も2019年に亡くなっていた。もうそろそろ、いいのではないか、と思ったのだ。だがシュレイダー監督は「ありがたいが、難しいと思うよ」と言いつつ彼の方でもいろいろ問い合わせてくれ、日本側でもわかる限りは調べて打診もしてもらって改めてはっきりした現実は…
…そもそも公開できなかった理由が、製作当時でも今でも、まったく分からない。
状況はそのままで、何も変わっていなかった。これでは手のつけようがない。諦めるしかないと思った。
『MISHIMA』はなぜ日本公開が不可能になったのか?
巷間言われて来たのは主人公・三島由紀夫の未亡人・平岡遥子が許可しなかったのではないか、という説だ。
確かに脚本段階から必ずしも遺族との関係が良好なわけではなかったものの、しかし映画の製作そのものと、作品使用の許諾権については合意があって、正式に契約が結ばれている。夫人を巧みに口説き落としたのはコッポラだそうで、コッポラはこの時に『春の雪』の映画化権もオプション取得していた。
大人気作家の三島由紀夫、国際的にも圧倒的に注目され、若くしてノーベル文学賞候補とも囁かれる一方、戯曲も盛んに執筆し演劇界の寵児で芸能界にも進出、映画も脚本の執筆だけでなく出演、さらには短編映画『憂国』の監督主演までこなし、自分を撮らせた写真集までベストセラーに、とメディアを横断する大スターで文字通りの時代の寵児だった彼が、1970年11月25日、市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地(現防衛省)に立て籠って自衛官にクーデターを呼びかけ、割腹自殺を遂げた大ニュースは、日本社会に想像を絶する衝撃を与えた。
大阪万博の年、日本は急激な高度成長から安定成長期に入り、「もはや戦後ではない」どころか戦争も戦前のこともほとんど人々の記憶から消えていた時代に、「天皇陛下万歳」を叫んで割腹自殺、である。介錯された三島の生首の写真も一部のメディアでは報道され、その凄惨さが一層、事件の衝撃を増幅した。
このような死亡の経緯から、三島由紀夫は日本社会全般ではタブー視の対象となる一方で、右翼勢力のアイドルにもなった。11月25日は映画『憂国』にちなんで「憂国忌」と呼ばれ、右翼団体の集会が毎年行われるようになる。映画も撮影中からそうした右翼団体の過激な分子からのテロ攻撃を警戒していたし、公開したら劇場に街宣が詰めかけ暴力沙汰になる危惧があるので公開できなくなったのではないか、という推測も成り立つ。
1980年代といえば前後して、アメリカではこれもシュレイダーが関わった企画(脚本)だが『最後の誘惑』がキリスト教保守勢力の脅迫を受けて一度は製作中止、なんとか完成した映画も劇場の爆破予告の対象になったり、フランスでは『ゴダールのマリア』の上映劇場に放火の脅迫があったり、今思えば右翼テロリズムの国際的なブームの時代で、とりわけ標的になったのは映画だった。
とは言っても、米ドルで500万という総予算の半額は日本からの出資だったはずだ。当時のレートは1ドル240円弱、つまり日本側で6億円近い資金が動いていたはずで、なのに出資した映画会社とテレビ局が公的には出資していないことになったまま、撮影が進んだという。いかに三島自身の政財界に及んだ幅広い人脈を平岡遥子が引き継いでいたとしても、夫人の反対や右翼の脅迫だけでこんなことが起こるだろうか?
シュレイダー自身が当時耳にした噂では、市ヶ谷への乱入と自決の前に三島が結成したいわば「私的軍隊」の楯の会を支援していた「(製作)当時の首相のナカソネが」と関係があるのかも知れない。映画『MISHIMA』でも描かれるが、楯の会は富士山麓の自衛隊の演習場で訓練を受けている。これを許可したのがその当時の防衛庁長官、のちに総理大臣の中曽根康弘だった。まさか三島が自衛隊の司令部に立てこもって(ちなみに極東国際軍事法廷、いわゆる東京裁判が開かれたのと同じ建物)クーデター未遂の挙句に自殺なんて、中曽根氏も当時は想像すらしていなかったろうが、自衛隊の訓練施設と訓練を、いかに大人気作家とはいえ一私人の個人的な団体に解放してその武装化に協力するなど、60年代ならともかく80年代では大スキャンダルになりかねない。中曽根首相自身が動いたとは考えにくいにしても、いわゆる「忖度」が働いたとでも考えれば、6億からの資金の謎の動きの説明はつくかも知れない。だがむろん、まったくの憶測に過ぎず、シュレイダーも筆者のインタビューと、後に発売されたDVDの副音声解説(絶版)以外ではこの説は語っていない。
なおその約6億円の資金はそのまま、いわば「自由に使える予算」になった。ポール・シュレイダー自身が「『MISHIMA』ほど思うがまま、自由に作った映画はない」と言い切る結果になったのは、ある意味幸運だった––映画が公開できさえすれば。
「いや、センシティヴになりかねない観客の目を気にしないで映画を作れるというのも自由だ。こんな自由はその前にも後にもない」と、シュレイダーが2000年のインタビューで言っていたのは、その後も議論を呼びそうな映画の脚本を書き、自らも監督し続けた彼ならではの述懐だろう。