運慶による北円堂「祈りの空間」、その再現の試み〜旧南円堂四天王像
国宝 四天王立像・持国天 鎌倉時代・13世紀 奈良・興福寺蔵
興福寺では平成の中金堂再建と並行して研究が進み、どの仏像が本来はどの堂にあったのか、どこに安置するために造られた像なのかが解明されつつある。興福寺は何度もの火災に加え、明治初期には国家神道を国教とする神仏分離政策で一時は廃寺にされた混乱期もあり、本来の仏像の配置がよく分からなくなっていたのだ。
猿沢の池の西端より台地の上の興福寺、左の八角円堂が江戸時代に再建された南円堂(重要文化財)
今回展示される四天王は以前には南円堂にあった。
北円堂には従来から、運慶の弥勒如来と無著・世親、室町時代の再興像で法苑林菩薩と大妙相菩薩が安置される八角形の須弥壇の南東・南西・北東・北西(堂全体は南向き)を守護するために平安時代初期の四天王が置かれて来たが、この四天王は大安寺から移された木芯乾漆像(重要文化財)で、おそらくは運慶が造仏した復興時に置かれていたものではない。
一方で運慶の父・康慶による不空羂索観音菩薩坐像(国宝)と法相六祖坐像(国宝)が安置される南円堂では、従来置かれていた四天王とは別の、ずっと中金堂跡裏の仮講堂にあった四天王が本来はここのものだったと判明し、平成30年以降はその四天王(国宝)が南円堂に安置され、それまでの南円堂の四天王(国宝)は再建された中金堂に移された。
国宝 四天王立像・多聞天(部分) 鎌倉時代・13世紀 奈良・興福寺蔵
この四体の像に科学調査でCTスキャンをかけて分かった木材の構成から、運慶ないしその工房の作、しかも時期的には北円堂の三体と同時代の可能性が浮かび上がって来た。さらに「興福寺曼荼羅」などの記録文献の絵図に描かれたポーズからも、実は北円堂の四天王だったのではないかという説が有力になっている。
そうは言われても、素人目にはちょっと信じ難い。北円堂で見慣れて来た旧大安寺の四天王に比べ、この従来は南円堂にあった四天王はずいぶん大きい。
本当に置けるのか、スペースがどう考えても足りないのではないか、と半信半疑にならざるを得ない。ならば実際に見て検証しよう、というのがこの展覧会のコンセプトだ。
展示風景・中央の八角形の展示台の広さが北円堂の須弥壇のほぼ実寸大、ただし展示の見易さのためかなり低い。奥に左は広目天、右は多聞天
後ろから。八角形に仕切られた展示スペースは興福寺の北円堂の須弥壇と同じ広さで柱の位置も現地に準ずるが、ただしかなり細い。前方・この写真の柱の向こうに増長天(左)、持国天(右)
弥勒如来・無著・世親が展示されている八角形の仕切りは、北円堂の須弥壇のほぼ原寸大だ。法苑林菩薩・大妙相菩薩がなく、弥勒如来の光背が取り外されている(よって弥勒如来の背中が見えるのは珍しい)のでそのぶんは若干広いのと、北円堂の柱はもっと太いが、どうだろう?
四隅の斜めの線の内側に、外側に展示された四天王が置けるだろうか?
国宝 四天王立像・多聞天 鎌倉時代・13世紀 奈良・興福寺蔵
国宝 四天王立像・広目天 鎌倉時代・13世紀 奈良・興福寺蔵
北円堂を模して天井にも八角形の展示スペースの仕切り
以前は南円堂で年に一度10月17日の大般若経転読の時、ここ数年は常時中金堂で拝観できる四天王(2017年の東京国立博物館の特別展「運慶」にも無著世親立像と共に出品されていた)は、筆者にはとても大きな像という印象があって、最新の説はとても無理だ、狭すぎると半信半疑だったのだが、こうして同じ展示空間の中に置かれると…
「あれ? なんとか置けそうじゃん?」
像高も、台座に乗った弥勒如来の高さとそう変わらないので、極端にアンバランスにはならなさそうだ。
国宝 四天王立像・増長天 鎌倉時代・13世紀 奈良・興福寺蔵
そうは言っても逆に気になるのが、弥勒如来と無著・世親も同じ運慶の作とはいってもずいぶんスタイルは違うが、それでも無著・世親が表面的な動きは抑えた一見静謐な像なため、弥勒如来のスッキリと抑制の効いた表現とはまだバランスが取れている。
だが鎌倉時代の四天王はもともと動きと力強さで迫力を強調されるのが定番だとしても、この四天王はそれがあまりに激しい。とりわけ須弥壇後方向かって右、北東を守護していたことになる多聞天は宝塔を持つ左手を高々と腕を伸ばして掲げ、四天王のポーズが経典では決まっていないとはいえ、他に類例を見ない。
国宝 四天王立像・持国天 鎌倉時代・13世紀 奈良・興福寺蔵
そのちょうど反対側の、須弥壇の向かって右の前方・南西の持国天も珍しいポーズで、多聞天の上へ上へと向かう運動性と対比するように、剣を低く構え今にも下にパッと伏して攻撃態勢に入らんばかりだ。このように独創性でダイナミックな運動を創造するのはたぶん運慶じゃないか、とか素人の想像では言いたくなるし、先例のない激しいポーズでも破綻がない技量の確かさも間違いないが、だから運慶だと言える根拠となる史料などがあるわけではない。
国宝 四天王立像・持国天(部分) 鎌倉時代・13世紀 奈良・興福寺蔵
作者や作風を特定するのに見た目以上に手掛かりになるのが、表面からは見えない像の構造だ。運慶の時代に仏像はほとんどが寄木造り、つまり複数の木材の組み合わせで作られ、東大寺南大門の金剛力士などは一千数百のパーツから成っている。
国宝 四天王立像・増長天(部分) 鎌倉時代・13世紀 奈良・興福寺蔵
北円堂の三体の像は材木も比較的珍しいカツラ材、その使い方も特徴的なのが、四天王にも共通しているという。常識的にはより硬くて加工が難しくなる芯、年輪の中心を含む材をあえて用いていたり、元の木では内側だった方を外に向けた材があるのだ。
国宝 四天王立像・増長天 鎌倉時代・13世紀 奈良・興福寺蔵
図録には七体のX線CTスキャンの断面写真が掲載されているのだがなるほど確かに、体の外周が木目に沿ってではなく逆らって彫られた部材や、木の芯が彫られた表面の間近にある部材が見て取れる。
日本の木の仏像はもともと一木造り、一本の材で頭頂部から足までの主要部分を彫り出すのが普通で、自然と外周は年輪の同心円の木目に沿って彫られていた。木材は芯に近づくほど目が詰まって硬くなるので、運慶のように芯材を使えば木が硬く、より労力が必要になるだろう。
平安中後期頃から発達した寄木造りでパーツ分けした場合でも、このように材を裏返しにすると木目に沿ってでなく、木目が彫っている面に対して垂直に近く、木目に逆らって彫るのに近くなり、木はより硬く感じられるだろう。版画の版木なら、板を木材から垂直に取った板目版画が、後世の日本・江戸時代の浮世絵などでは一般的だが、木材を水平に、輪切り状態にして年輪が同心円に見える断面を版木とする木口版画では、木はより硬く彫りにくくはなるが、木目に左右されることが少ない緻密な表現が可能だ。
国宝 四天王立像・広目天(部分) 鎌倉時代・13世紀 奈良・興福寺蔵
晩年の運慶が狙ったのはこれに近い原理なのかもしれない。彫る力に反発する木材の硬さがより強く感じられる代わりに、より緻密で精確な彫刻ができると考えたのではないか?