国宝 観音菩薩立像「百済観音」 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺

今日の絶景スポットの観光地は、かつて巡礼地だった。大自然の威容に人々は神仏を見て、山はそのものが神、そして仏として信仰された。「富士山の御来光」も日の出の太陽ではなく、霧の夜明けで起こるドッペルゲンガー現象が阿弥陀如来、あるいは大日如来の姿に見えたから、だそうだ。

国宝 玄奘三蔵絵 巻第六 鎌倉時代・14世紀 大阪・藤田美術館 展示期間:4月19日~5月11日
唐から天竺(インド)に釈迦の足跡と経典を求めて旅した玄奘三蔵の伝記絵巻。本展に巻十八が出品された「春日権現記絵」と共に、朝廷に仕えた絵師・高階隆兼の代表作。

国宝 玄奘三蔵絵 巻第六 鎌倉時代・14世紀 大阪・藤田美術館 展示期間:4月19日~5月11日
大自然の中の祈りを緑青や群青の高価な顔料に金銀まで混えた豪華さで丹念に描く。山々や木々、草に至るまでそこに神仏が宿るかのような描写。

科学、とりわけ医学の発達で病気になっても祈るよりも病院に行き、医師の指示に従うようになった現代人の我々には、「信貴山縁起」の過去の日本人のように真剣に祈る必然が、もはやない。

国宝 辟邪絵 全五幅のうち「毘沙門天」 平安時代・12世紀 奈良国立博物館 展示期間:4月19日~5月18日
疫病をもたらすと信じられた悪鬼を懲らしめ退治する様子を描いた元は絵巻物の一部。この図では画面左下の写経する僧侶の祈りで毘沙門天が現れ、弓矢で悪鬼を退治している。

しかし近代科学や特に医学が未発達だった時代に、祈ることは生きていく上で真剣な必然だった。飛鳥時代から奈良時代、平安時代にかけて何度も日本を襲った疱瘡(天然痘)のような疫病も、細菌やウィルスが発見される遥か以前の時代には、目には見えない悪鬼・悪霊が人から人へと乗り移ると信じられていた。

細菌もウィルスも、目には見えない。

国宝 辟邪絵 全五幅のうち「神虫」 平安時代・12世紀 奈良国立博物館 展示期間:4月19日~5月18日
疫病の元となる悪鬼たちを捕まえては食べてしまう、神の力を持った怪物

つまりは実のところ、目に見えないものに「悪鬼」「悪霊」を当てはめて、感染症の伝染性のイメージをちゃんと把握していたのは現代とそう変わらない。

患者に近づけば悪鬼・悪霊が飛び移って来るので近づかないようにしたり、手や体をこまめに清め、食器などもよく洗って使い回しはしない、といった科学的にも有効な予防策も取られていたわけで、決して安易に「迷信」呼ばわりはすべきではない。

国宝 辟邪絵 全五幅のうち「天刑星」 平安時代・12世紀 奈良国立博物館 展示期間:4月19日~5月18日
中国から伝わった疫病退散の神が疫病をもたらす悪鬼を4本の腕で捕まえてむしゃむしゃと食い散らしている

奈良国立博物館の所蔵するまがまがしくグロテスクだが、ユーモラスでもある「辟邪絵」は、そうした疫病(悪鬼・悪霊)を退治する神仏や神仏の使わした怪物を描く。悪鬼を食い散らす「天刑星」や片っ端から飲み込んでしまう「神虫」は、今で言えば白血球T細胞の模式図のようなものかも知れない。

国宝 辟邪絵 全五幅のうち「栴檀乾闥婆」 平安時代・12世紀 奈良国立博物館 展示期間:4月19日~5月18日
当時の宋時代の中国は薬草の知識や鍼灸治療なども飛躍的な発展を遂げた医療先進国であり、平安時代の日本ではそうした先端知識が、こうした神話伝承と一緒に受容されていた。

「辟邪絵」の中でも鍾馗は、今日でも子供の日・端午の節句の五月人形の定番になっていて馴染みがある。平安時代には貴族階級くらいしか知らなかった儒教の神が、江戸時代には疱瘡(天然痘)やはしか(麻疹)を防ぐ神として広く庶民にも定着していたのだ。端午の節句の子供のお守りになったのは、はしかはとりわけ子供がかかりやすい感染症で、ワクチンがなかった時代には死因となることも多く、子供の死亡率が高かった最大の原因のひとつだったから、でもある。

国宝 辟邪絵 全五幅のうち「鍾馗」 平安時代・12世紀 奈良国立博物館 展示期間:4月19日~5月18日

ワクチンも抗生物質も抗ウィルス薬もなく、現代人であれば免疫力を高める、というのが過去の人々にとっては「祈り」だった。「悪鬼が乗り移るから近づくな」というソーシャル・ディスタンスで感染を避けていても、それでもいったん罹患してしまえば本人の抵抗力・免疫力以外に有効な手立てがなかった以上、すがれるのは神仏への祈りだけだったのも、厳しい現実だった。

だから今とは比べ物にならないほど呆気なく、人は死んでいた。そうして死別した人々への思いもまた、表現できる手段は「祈り」だけだ。

人間が相手ではない、神仏との真剣なコミュニケーションとしての、かがやく祈りの金の宝

一見微笑ましい姉と弟の再会譚である「尼公巻」も、そうした不条理としか思えない生死の分岐点があまりに身近だった時代にこそ生まれた物語でもある。通信手段も未発達な当時、大仏のお告げでもなければ家族は生き別れになったまま、再会どころか居場所も分からず、人馬が物理的に運ぶしかなかった手紙も届かず、孤独に死んでいくしかないことがほとんどという、そんな切実さの表れでもある。

だからこその「祈りのかがやき」という展覧会のテーマであり、その真剣さの理解につながる展示品を二点、挙げておきたい。

まずこの半球状の大きな金属の環は、仏塔の最上層の屋根の上につけられる部品の伏鉢だ。ここが土台になってさらに上に、金属製の装飾の相輪、水煙、宝珠が天に向かってそびえ立っていた。

国宝 粟原寺三重塔伏鉢 奈良時代・和銅8年(715) 奈良・談山神社
後ろのパネルに銘文の全文の現代語意訳を展示、なにが書かれているのかがよく分かる。

金で仕上げられた表面にはびっしりと、寺と塔が建立された経緯と目的を記した長い銘文が刻印されている。本展ではこの全文が現代語訳されて後ろのパネルに書き出されている。内容は粟原寺という寺院の由来と、この伏鉢が乗っていた三重塔の造立の経緯だ。

粟原寺の創建は天武天皇と持統天皇の長男で父の後継者と目されていた草壁皇子の追善・供養のためだった。皇子が早逝したのが持統天皇3年(689年)で、銘文によると「比賣朝臣額田」によって5年後の694年に金堂と丈六の釈迦像(経文に基づく仏の身長で1丈6尺、約4.8メートル、坐像では2.4m強)が完成し、三重塔が22年後の和銅8年(715年)に造立された。

この金の伏鉢は、その三重塔の最上層の屋根の上でかがやくために作られた。施主の「比賣(ひめ)」の「額田」は一説では「万葉集」の女性歌人・額田王かもしれず、ならば草壁皇子の没後26年もかけて寺を完成させた彼女にはどんな思いの強さがあったのかも、想像を巡らせることもできよう。

だがそれ以上に肝心なのは、これが三重塔の屋根の上、最上部の部品であることだ。そんな高いところを誰も見られるはずがない、つまりこの銘文は、誰か人間に読ませるために書かれたものではない。

国宝 金地螺鈿毛抜形太刀 平安時代・12世紀 奈良・春日大社 展示期間:4月19日~5月18日

春日大社の神宝・金地螺鈿毛抜形太刀は平安時代後期の工芸技術の最高峰として名高い。春日大社本殿の平成の式年造替(2016年)の際、三人の人間国宝に依頼されて復元の写しが製作されたが、平安後期のあまりの技術の高さは現代の人間国宝にとっても大きなチャレンジで、超絶技巧を手探りで解明して試行錯誤を重ねた末、3年がかりになったことがニュースにもなっていた。

とくに見どころは鞘に螺鈿で生き生きと猫と雀が描き込まれていることで、白い螺鈿(夜光貝の内側を切り抜いたもの)にはさらに細かな毛彫が施されて猫の表情や毛並みの立体感が表現され、目と黒いブチにはガラスが嵌め込まれている。

国宝 金地螺鈿毛抜形太刀 平安時代・12世紀 奈良・春日大社 展示期間:4月19日~5月18日
螺鈿の猫と雀には緻密な毛彫が施されて毛並みや羽毛までもが表現されている。鍔と柄にも金工で徹底して微細な文様が彫り込まれている。

毛抜き型、内側をくり抜いた柄はほぼ純金のムクで、唐草模様にミリ単位の小鳥が飛び回っている。地の部分は梨子地といって1ミリより遥かに小さい半球でびっしり覆われている。一点一点を工具を打ち付けて彫り込んだものだ。丁寧に、きっちり規則的に金の凸の粒子が並んでいないと、この品位ある美しさは出せない。

神宝は本殿に神々の持ち物として納められると、その本殿は封印されて人は立ち入れない。春日大社の第一神・武甕槌は雷の神でもあり、腕が氷の刃となって敵の手足を切り落とす神話もあったり、その神域を犯せば稲妻に打たれて死ぬと言われる怖い神だ。普段は本殿に近づくことも許されず、参拝しても武甕槌神の本殿・第一殿そのものがほとんど見えず、中門の中までは神官や僧侶は入れても、本殿はその先の柵越しに拝むだけだ。これほど豪華で恐ろしく手の込んだ太刀を今日、我々が目にすることが出来るのは、式年造替で写しが新造されて本殿に納められたからで、春日大社の本殿の中で、半永久的に人目に触れることがない前提で製作された「宝」だった。

「宝」というと現代人はつい「財宝」を連想し、権力や財力などを社会を相手に誇示すること、こうした宝物の直接の政治的・社会的な意味を考えてしまうが、この二点はそもそも人の目に見られることを想定していない。「信貴山縁起絵巻」の尼公も一人で大仏殿に籠り、誰か人間が見ていたわけではない。人が相手のコミュニケーションではない、神仏が相手の表現行為、それこそが「祈り」の本質だろう。その太古の人々の真剣さのかがやきをこそ、これらの「宝」は我々に伝えてくれる。