密教の仏たちと「怖い顔の仏像」の変遷〜曼荼羅と「明王」の登場
一方で空海が日本に伝えた密教と曼荼羅に描かれた新たな神仏によって、天変地異を起こす「荒ぶる神々」や疫病の原因(感染源?)になる怨霊・悪鬼に睨みを効かすような「怖い顔」の仏像は、如来や菩薩ではない別の仏がその役割を担うことになる。
空海と真言宗、密教というと真っ先に思い浮かびそうな不動明王に代表される「明王」だ。不動明王をはじめとする五大明王が日本で最初に描かれた例が「高雄曼荼羅」胎蔵界の中央・八葉院のすぐ下の「虚空蔵院」と、金剛界の右中段・二つめの区画「降三世会」になる。
それまでの仏教では解脱を妨げる現世への執着、煩悩として戒められて放棄すべきと、いわば否定的に捉えられて来た人間の感情を、密教では悟りに至るひとつの段階として肯定的に考える。
胎蔵曼荼羅でも最も外側の区画の外金剛院には、星座や惑星、彗星などの天体をや、胎蔵界つまりは世界の全体を守るように取り囲む方位神の十二天も描かれている一方で、人の遺体を貪る悪鬼や餓鬼などもいる。一見否定的に見える存在や事象ですら、突き詰めれば大日如来の論理に埋め尽くされて大日如来そのものでもある世界の一部であって、いたづらに全否定せずにまずその存在を受け入れるべきであることが説かれるているのだ。
そして金剛界曼荼羅においては、今度は人間の内面についても同様の教えが描かれている。
この金剛界曼荼羅の「理趣会」と共通する思想を体現する明王が愛染明王で、官能や個々人への愛情や恋愛感情、つまりは性欲も悟りへの道へと昇華させる存在だ。激しい憤怒相なのは本来は、煩悩に耽溺するだけでその先に結びつけようとしない人間を叱咤するためだ。
もっとも、空海のもたらした密教のこうした深い理念、煩悩に囚われた人間でも一歩一歩、少しずつ段階を追って悟りに近づけ、釈迦のように人としてだけで七回も八回も生まれ変わらなくても、現世のうちに悟り・解脱に到達できるといったような斬新な思想が理解されて、密教が空海の真言宗や円珍・円仁らが中国に留学して体得した天台宗の密教(台密)だけでなく、奈良の興福寺や薬師寺、法隆寺の法相宗(法隆寺は戦後は聖徳宗)、東大寺の華厳宗など既存の寺院や宗派にも影響を与えてその理論が取り込まれたとは、必ずしも言い難い。
今年のNHK大河ドラマは平安時代が舞台で、安倍晴明が活躍して呪詛や祈祷も積極的に描かれているが、奈良時代から平安初期にかけて「怖い顔」の仏像が「悔過」つまり自らの罪の懺悔の儀式の本尊として造られながら「魔除け」的な意味も持ったのとちょうど同じように、不動明王や愛染明王の激しい憤怒の顔も我々を厳しく叱咤しているだけでなく、怖いからこそ悪霊に睨みが効く的な、あるいは単に異形で強い霊力を持っていそうだと言った感覚で、祈祷の対象として信仰された面が大きい。皇位の継承や戦勝の祈願のために愛染明王の修法が行われたという記録も、多く残っている。
曼荼羅も、密教の複雑な理論や世界観は図解した方が理解できる、言葉や抽象概念を視覚に変換した方が納得し易い、というもともとの役割だけでなく、災害の消滅や利益の増加を祈願する「尊勝法」の本尊として使われる尊勝曼荼羅のように「修法」で使う需要から多く描かれたものが多い。
「修法」とは、仏の名を古代インドのサンスクリット語の発音を踏襲した「真言」で唱えることで呼び出し、特別な秘儀でその仏と業者が一体化することで神仏の力を現世に活かす儀式だ。これが祈祷や呪詛が重要な政治手段だった平安時代の朝廷や貴族社会のニーズに応えることになったのも、密教が一気に広まった大きな理由だろう。空海自身が修法で虚空蔵菩薩の力を借りて驚異的な記憶力を身につけた、という伝説すら生まれた時代だった。
時代が中世に移って武家が支配階級となると、愛染明王のように憤怒相で法具としての武器を持つ仏たちは、戦勝祈願の守り本尊にまでなってしまう。
上杉謙信は自らを毘沙門天(四天王の多聞天・北方守護の護法神)になぞらえたが、その家臣・直江兼続の兜の前立てが金の「愛」の一字で有名なのも、兼続が人類愛を唱える慈愛の武将だったからとか、そんな戦国ロールプレイング・ゲームで思われているような意味ではまったくない。「愛染明王」の「愛」の一字で、だからあの兜を見ても敵も味方も「LOVE」などとは考えるはずもなく、連想したのは愛染明王の猛り怒った怖い顔と、左の二本目の手に弓、反対側の手には矢を持っているので弓矢の名手、とかそういうことだった。
他の手には蓮の蕾、五鈷杵、一鈷鈴と、密教法具を持っているのだから、弓矢だってただの武器つまり殺傷の道具とは思わないはずなのだが…。なお左のいちばん上の手が握り拳なのは、やがて祈願の内容に相応しい道具を持たせるようにもなった。
神護寺に伝わるこの愛染明王坐像は、鎌倉時代の、運慶の孫・康円の作だ。
慶派の典型的な名作の、力強く華やかな仏像だ。実はそんなに大きな像ではないのに、慶派ならではの力のみなぎった緊張感が六本の腕の指先にまで及んでいて、装身具の細部に至るまで精緻に作り込まれていることも、この像を実際よりもひと回りもふた周りも大きく見せている。
平安時代の後期には、仏像は一本の材木ではなくパーツごとをに別の材木で作って組み立てる「寄木造り」が主流になり、一本の木という制約がある「一木造り」より自在な造形が彫り易くなったことも、この力強く精緻な造形に貢献している。
さらに鎌倉時代になると、空洞になった頭部の目に穴を開けて内側から水晶やガラスで作った眼球を嵌め込む「玉眼」が一般化する。
この愛染明王坐像ではカッと見開いた明王の眼だけでなく、獅子の頭の冠のその獅子の目にも玉眼が施され、四つの眼がギラリと光って睨みつける迫力が凄まじい。今回の展示では、その四つの目にスポットを当てる照明で、迫力がいっそう増して見える。