日本の密教、その始まりの空海の寺
神護寺の「創建1200年記念」の特別展だが、国宝・薬師如来立像は西暦794年の平安遷都の前後か、もしかしたらそれ以前の奈良時代末の作という説もあり、もっと古い、もっと前じゃないか、と言われるかも知れない。
だが神護寺の歴史とはなによりも、弘法大師・空海が中国・唐への留学から帰国後にここを本拠地として長く住んだ歴史、そして空海への崇敬の歴史だ。だからこの特別展には、空海その人を偲ばせる、空海自身が使ったゆかりの品や、平安時代の「三筆」で日本史上最高の書の名手の一人であったその真筆の文書も展示されている。
古文書を見慣れていない、というかほとんど読めない我々現代人にとっても、空海の書は魅力的だ。素人目にもとても勢いがよく、やや右肩上がりでせっかちな印象さえあって、感情の流れがそのまま文字に表れているかのようだ。
まただからこそ、「弘法も筆の誤り」というが、実際には間違いを上から書き直しているようなところもけっこうあって、そんなところに人間としての空海に想いを馳せることもできよう。神護寺に伝わる「灌頂暦名」(国宝)は天台宗の開祖・最澄も神護寺を訪れて参加した投華灌頂の儀式の場で書いた草稿、メモ記録のようなものなので、清書の前の書き直しがあるのも当然といえば当然ではあるが…。
後期の展示(8月14日から)では、空海の書の中でも傑作中の傑作と名高い、最澄に宛てた手紙の「風信帖」と、最澄が空海の下に派遣して、自分は留学中に学べなかった密教を学ばせていた弟子に宛てて空海の様子を尋ねた「尺牘(久隔帖)」が展示される。
「尺牘」の最澄の丁寧で慎重な言葉遣いと筆使いに対し、空海は同じ文中で書体を自在に変え、時には一字ごとに書体が違うという離れ技を、それも計算というより感性の勢いでやっていて、一箇所は「ここ、間違えて書き直しているよね」と思わせる文字もある。しかもその間違いを無理やり直したっぽい箇所も含め、筆の勢いが見て取れそうな全体が、なんとも見事なリズム感で美しくまとまっている。
空海が朝廷に提出した留学報告書である「御請来目録」の原本は現存せず、比較的近い時代の写本と目される竹生島の宝厳寺本(重要文化財)が前期、最澄が空海から借りて写した東寺本(国宝)が後期に展示される
最澄の写しは、空海の草稿を書き損じや書き直しも含めて忠実に筆写したのではないか?
なんといっても圧巻は、空海が師・恵果との出会いを記した部分だ。それまで楷書できっちり書かれていたのが、この留学体験のクライマックスに入ると筆の勢いが明らかに増してより右肩上がりになり、二、三行ではその勢いのあまり書体がつづき文字の、とても張りのある曲線の行書になる。空海の昂った感情、恵果に認められた喜びと、その師・恵果が自分を後継者に指名してすぐに亡くなってしまった悲しみが、ほとばしっているようだ。
こうした空海の直筆文書の多くが、空海が主に住んでいた神護寺で書かれた。
神護寺は神能寺と高雄山寺という、奈良時代後期の貴族・和気清麻呂が創建した和気氏の二つの氏寺が元になっている。1200年というのは空海が唐への留学から帰国して高雄山寺に入って本拠地とし、高雄山寺が神能寺と合併して「神護国祚真言寺」という国家護持の祈祷を任された朝廷公認の寺院となった時から数えて、ということだ。
高雄山寺がその名の通り京都の北西の山中、現在の神護寺がある高雄にあった一方で、神能寺がどこにあったのか、薬師如来立像が神能寺と高雄山寺のどちらの寺にあったのかなど、詳細は不明で諸説ある。いずれにせよ薬師如来立像は空海が唐に渡るより以前の仏像で、空海がこの寺に入った時の本尊だったのだろう。
もしかしたら空海が高雄の地を拠点としたのも、この本尊像が理由のひとつだったとしても、不思議ではないくらい魅力がある、圧倒的な、傑出した仏像だ。ただし空海が高雄の地に惹かれたのには、他にもいくつか理由が考えられる。
遣唐使に随行して唐時代の中国に留学した空海だったが、国に命じられた20年という留学期間よりもはるかに短い、一年足らずの滞在で帰国したために、最初は朝廷への報告のために都に入ることすら許されなかった。その許しが出るまで、空海は京都の周辺で待機するしかなかったはずだ。
長安で中国密教の最高権威・恵果に弟子入りした空海は、わずか6ヶ月で「密教」、つまりすべてを言葉だけで顕らかに説明はできないので「密やか」に伝えられる真理への道の、あらゆる知識と奥義を授けられたという。留学期間を切り上げて帰国したのも、恵果が空海を後継者に任じて日本に密教を広めるよう言い遺してまもなく亡くなったためだ。
朝廷に許しを得て新しい仏教・密教を日本に広めること、その簡単には教えられない、言葉だけでは説明できないという秘義と秘法をもって日本の国を天変地異や厄災、疫病から護り、その民を新たな悟りと救済に導くことを、空海は自らの義務として身を持って任じていたはずだ。
ならば朝廷に認められるよう政治工作を続け、かつ認められた時にはすぐに参内できるよう待機するには、京都郊外の高雄の山々は最適な場所のひとつだったろう。だがおそらく、空海にとってより重要だったのは、神護寺の立地する山々そのものではなかっただろうか?
高雄は清らかな山の水が流れる谷があり、秋には紅葉に彩られる風光明媚な景勝地でもある。
その厳しくも豊かな自然に、若い頃は故郷・四国の山に籠って衆生の救済を志したという空海が惹かれた(真言宗の根本道場を創建するのにも、空海は紀伊山中の高野山を選んでいる)のには、宗教的・思想的な意味もあったはずだ。
密教の根本的な経典のひとつ大日経によれば、世界の中心には根本かつ最上の仏である大日如来がいて、大日如来は世界が存在する根本的な論理そのものであり、その本質であるところの慈悲は、世界の全体の隅々にまで行き渡っているとされる。
この大日経の世界観を分かりやすく図式化したのが、大日如来を中心に、大日如来から派生する様々な、総計400以上の仏や神々が外側へ、外側へと変化・分身して広がっていく宇宙の根本構造を視覚化した、胎蔵曼荼羅だ。
大日経、胎蔵曼荼羅の世界観を突き詰めて考えるなら、豊かで美しく、時に厳しくもある大自然こそが大日如来の慈悲に満ちている世界そのものであり、ならば山々の環境でこそ大日如来を最も感じられるのではないか?
そもそも仏教ではあらゆる生命は輪廻・転生し、そのすべての生命には慈悲などの「仏性」が宿ると考えられる。空海はそうしたパンテイズム的な宇宙観を推し進め「一木一草、師ならざるものはなし」と語ったともされる。
一方で日本には少なくとも弥生時代には遡り、もしかしたらもっと前の縄文時代から、あらゆる自然の事物や自然現象に神々が宿り、山々を神とみなすようなアニミズムの信仰体系が発達して来た。空海が日本に伝えた胎蔵界曼荼羅の世界観は、そんな日本人の感覚に根ざした自然観とも融合するものでもあり、そこを積極的に結びつけたことが空海を日本の歴史上最大のいわばスーパースター、今日にまで至る根強い憧憬と人気につながったのかも知れない。
神護寺がある高雄の山々は、かつて和氣氏が高雄山寺を造らせた時かそれ以前から、八幡神が宿る八幡信仰の霊場でもあった。
八幡神は九州の宇佐地方の農耕神だった神が、聖武天皇の東大寺建立に伴ってその鎮守神として迎えられ、仏門に帰依した日本の神「八幡大菩薩」として信仰されるようになっていた。神護寺には空海が高雄の山中でこの八幡神と出会って、お互いの姿を描き合ったという「互御影」の伝承がある。
その空海が描いた八幡大菩薩の肖像と、八幡大菩薩が描いた空海の肖像「互御影」の原本はさすがに現存していないが、その写し、あるいは写しの写しと伝わる絵も、展示されている。
付け加えるなら、空海が胎蔵曼荼羅の世界観を伝えたことで、日本土着の、つまり「神道」の神々も大日如来の慈悲からの派生と分身・化身の体系に位置付けることが可能になった。その応用で日本の神々は仏が日本人のために姿を変えて顕現した「権現」とみなす本地垂迹説の、神仏習合の信仰理論も確立し、明治の神仏分離令に至るまで日本人の精神世界の基礎となった。