この正方形の阿弥陀堂は、奥州藤原氏の祖・藤原清衡が平安時代後期の天治元(1124)年に造営したものだ。
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奥州藤原氏は一般的な日本史理解では清衡の孫・秀衡が源義経を保護した、いわば源平合戦と鎌倉幕府の成立の時代の第三勢力という感覚になるが、そこから百年近く遡って藤原三代が東北地方に安定した統治を実現していたため、古代の国家秩序の崩壊と中世に向けた混乱の真っ只中にあった近畿の中央よりも栄えていたとさえ考えられている。
中尊寺金色堂がその豊かさの証としばしば言われるのは、あまりに有名な総金箔貼りのせいだけではない。
この時代の仏堂は内部の柱や梁に華やかな彩色を施すのが一般的で、金色堂とほぼ同じ時代で形もよく似た方形の仏堂、例えば福島県いわき市の白水阿弥陀堂(国宝)の内陣の柱や梁、天井には、極彩色で彩られていた顔料の痕跡が今でも肉眼で確認できる。
だが金色堂では、内陣の柱や須弥壇には全面に真珠貝の内側を切り取って嵌め込んだ螺鈿と金細工が施されている。しかも四天柱や高覧などの須弥壇の材木そのものがなんと紫檀、日本では産出しない香木だ。東南アジア原産で輸入するしかない木がこれだけふんだんに使われているということは、つまりそれだけ平泉は繁栄し、海外との交易(この時代なら日宋貿易)も盛んだったのだ。
藤原時代の平泉の豊かさは、たとえば中尊寺に伝来した当時の経巻の類にも見て取れる。この経箱は536合でワンセットのうち148が現存しているうちの1合なのだが、ひとつひとつが丁寧に黒漆が施され、側面に書かれた納められた経巻を表す文字が、なんとこんなところまで螺鈿だ。
膨大な数の同様の箱には、清衡が発願して書写された一切経(主要な仏典を網羅した集成で全体で5000巻に及ぶ)が納められていた。その清衡経、ないし清衡一切経は、下の写真のように紺の染料で染められた紙に、一行ずつ互い違いに金と銀で書かれていて、見返しには金で細密な仏画が描かれている。
よくも悪くも、金色堂はこのような奥州藤原氏の繁栄と豊かさの象徴として、その一方で江戸時代・元禄期に平泉を訪れた芭蕉が「夏草や 強者どもの 夢の跡」「五月雨の 降り残してや 光堂と」(光堂とは金色堂のこと)と詠んだように、三代のあいだこれだけの栄華を誇った藤原氏が四代・泰衡が源頼朝に敗れて儚なく滅びてしまった夢の名残として、興味関心を集め続けて来た。
今日、金色堂は保護のため覆堂(鞘堂)が全体を覆うように建てられているので屋内にあり、修復で貼り直された金箔の状態も極めてよく、ガラス越しに燦然と輝く金色のお堂からほとんどの参拝者が受ける印象もまた、最初はまずなによりも光り輝く黄金=豪華、豊かさ、だろう。
あくまでお寺なのだしそこまで俗っぽい受け取りに耽溺するのも憚られるしで、精神性を見出そうとするなら、圧倒的な黄金の輝きに現代人がまず思いつくのは「荘厳さ」かも知れない。
一方で、金色の堂の中に見える華麗で重厚な須弥壇の、柱と高覧の向こうに配置された仏像群は、いずれも国宝指定される名品であっても、遠目になんとなくしか見えなかった、注目すらしにくかったのが、正直なところだろう。
今回の展覧会はその金色堂から運び出された仏像を間近に見ることができるという極めて稀な機会になるので、平泉で金色堂を以前に見ている人はもちろん、それこそ地元で慣れ親しんで来た人たちこそ、意外な発見が大きい展覧会なのかもしれない。