光悦の書と書画の共演・俵屋宗達と本阿弥光悦
光悦が書写した日蓮宗の理論書などの仏教文献は、その性質からして装飾性のある料紙などは用いられず、ただ白い紙と墨の黒の文字だけなのに、なんと華やかなことか。読むよりもまず(というか漢文でもあり現代人には読解はなかなか難しい)その視覚的な美しさに目を奪われてしまい、見飽きない。
文字が判読できないほどの距離から見ても、逆に文字としての意味性を判別できないからこその濃淡の自在でリズミカルな配置に、思わず目を奪われてしまう。
文字は意味伝達の機能を超えて線の太さと細さ、墨の濃淡、人間の手による筆使いの運動性を反映した直線と曲線の純然たるフォルムの美しさに輝く、そんな自在で闊達な光悦の書の華やかで装飾的な世界は、こと下絵のある紙に和歌を書写した作品で最大の魅力を発散する。
「蓮下絵百人一首和歌巻」は百人一首の全百首を蓮を描いた紙の上に書写した長大な大作だったはずだ。関東大震災で半分以上が被災し、現在は断簡の形で各所に分蔵されている。上の写真では鉛色に描かれた蓮は蕾の状態だ。
蓮とその生命のサイクルは、法華宗・日蓮宗において特別な意味を持つ(宗祖・日蓮の名に「蓮」の字が入るだけでなく、特に重視された法華経の「法華」つまり仏法の花とは、蓮だ)はずだ。断簡の状態では絵の連続性が失われてよく分からなくなってしまうが、今回の展示で各所に分けて所蔵されていたものが並べて見られると、下絵自体の持っていたストーリー性が見えて来る。
つまり、鉛で描かれた蓮は蕾だったのが花開き、満開になり、やがてその花弁が散っていく。
「百人一首」は平安時代の栄華が終わり武士の時代が到来した、承久の乱の後の鎌倉時代に、藤原定家が和歌の歴史の名作100首を選んでまとめたものだ。蓮の花の一生の絵は定家が選んだ100の和歌の内容と直接の関係がない、別のストーリーを語っているはずが、光悦ならではの視覚的にリズミカルな書と同じ画面に融合した時に、歌の内容それ自体の意味性と、蓮の一生という意味性を超越した何かが、例えば栄枯盛衰と失われてしまった美しい過去を懐古する選者・定家の物語が、そこに生まれていはしないだろうか?
「摺下絵千載和歌巻」は色とりどりに漉いた紙を貼り合わせた巻物に書写されている。こうした巻物は平安時代にも見られるもので、光悦の古典と王朝文化への崇敬がよく現れている。
近づいて、角度を変えて見ると紙に雲母を漉き込んだのか、上から雲母で描いたのか、光沢のある模様が浮かび上がるところにも注目したい。
同じように角度を変えて見ると反射や光沢を楽しめるのは、金泥や銀泥で豪華に装飾された下絵に和歌を書写した作品でも忘れないでおきたい。
そうした金銀の豪華な下絵がある墨跡では特に、琳派の創始者・俵屋宗達とのコラボレーション作品、宗達の下絵に宗悦が三十六歌仙の歌三十六首を書写した重要文化財・鶴下絵三十六歌仙和歌巻のすべてが、全長13m以上を巻き替えなしで、全巻を広げて展示されている。
今回の展示では奔放な大小と濃淡のリズミカルな変遷の文字をよく見たいのなら近づいて真上から、一方で少し距離を置いて、1メートル半ほど下がって見ると、金と銀で描かれた宗達の下絵に凝った照明が反射して光り輝いて見えるのが楽しい。
近くで見ると1首目の作者・柿本人麻呂の名が「麻呂」を「丸」の当て字で書いたはずが、「人」の字が抜けてしまって後から細い文字で横に書き足しているのはご愛嬌というか、宗達のこれだけ豪華な下絵を提供されながら、光悦の筆が慎重になるのとは真逆に、ますます自由闊達な勢いで、嬉々として三十六歌仙の和歌を書写して行ったことが見て取れるように思える。
それとも、まさかとは思うが…この一行目は「柿本人丸」の4文字より「柿本丸」3文字の方が、確かに視覚的に、構図として座りがいい。もしかして、わざと間違えたのだろうか?
宗達の絵の方は、水辺に群れる鶴たちがやがて波打つ海辺から飛び立ち、天高く雲の合間を舞い上がって群れをなして大空を旅し、別の土地に降り立つという、渡り鳥の生態を長大な絵巻として描写している。
その絵には、三十六歌仙の歌とのテーマ的な関連性は特に見られない。そもそもこの歌集自体、歌自体の内容はバラバラで、鶴の群れの旅というひとつのストーリーでまとめる必然はどこにもない。
なのになぜか、光悦のリズミカルに奔放な書と鶴たちの躍動が不思議にマッチして、ひとつの作品として完璧な統一感を持ってまとまっている。