カミと仏を同時に信仰した日本人と、明治の神仏分離令、廃仏毀釈
「菩薩」になって東大寺の盧舎那仏(大仏)を守護するようになった八幡神は、第15代応神天皇の神格化としても信仰され、平城京(奈良)から平安京(京都)に遷都した際には、ほぼ山で囲まれた盆地である新首都の最も開けた方角である南方の守護神として、石清水八幡宮が建てられた。また天皇家から臣下に下って武士階級の大きな流れとなった清和源氏の氏神となり、たとえば源義家は「八幡太郎義家」と称せられた。
武家の守護神として崇拝されるようになった八幡大菩薩は、全国に祀る社が建てられるようになる。義家の子孫の源頼朝が打ち立てた武家政権の本拠地・鎌倉も鶴岡八幡宮を中心に都市設計されているのは、その最も代表的な例だろう。鶴岡八幡宮といえば社殿に登る大きな石段で三代将軍の源実朝を暗殺した二代将軍・頼家の子・公暁はその八幡宮の別当つまりトップで、琵琶湖畔の三井寺(園城寺)で修行した天台宗の僧でもあった。また境内にある源頼朝の墓所は鎌倉時代には法華堂という仏堂で、その中に頼朝の遺骨が収められていた。つまり神社と寺院の間に、明確な区別はそもそもなく、八幡宮は寺院と同様の位置付けだったのだ。
現在の鶴岡八幡宮の社殿は江戸時代に、源氏の流れを継ぐ徳川将軍家によって再建されたもので、江戸幕府にとっても「八幡大菩薩」の信仰がいかに重要だったかが分かる。その江戸時代に使われていた扁額が今も残っているが、明治維新以前にここは正式には「八幡宮寺」という寺院だった。
法蓮の像も、そうした神仏習合の信仰の中で造られたものだろう。
また「八幡大菩薩」が武士が武運を祈る神であると同時に上記のように鎮護神、悪霊や怨霊、天変地異や疫病から人々を守る神でもあったことから、その八幡神に仕える法蓮の姿もこのように力強く、特に強烈な眼差しで魔を睨み付け調伏するような造形が求められたのかも知れない、などと想像が膨らむ。
だがこの大倉集古館の法蓮上人坐像、実は来歴がはっきりしない。
法蓮の像と特定されたのも比較的最近のことで、研究者が同じポーズを描いた仏画から法蓮と特定できたものだ。それまでは、誰の像なのかもよく分かっていなかった。
こうした事情はしかも、この像に限ったことではなく、大倉集古館の所蔵する、明治・大正の財閥・大倉喜八郎の蒐集した仏教美術コレクションの多くには、大なり小なり似たようなことが言える。
明治維新にあたって、それまでいわゆる「神仏習合」が当たり前だったというか、天皇家が仏教の檀家であり日本人は「神仏」を信仰して来たのが、そのカミへの信仰を「神道」として区別して独立させる神仏分離令を、新政府が強行したことだ。
たとえば先述のように鶴岡八幡宮は正式には「八幡宮寺」だったのが、多宝塔などの仏教建築物は破壊撤去され、「八幡宮寺」と書かれていた扁額は「寺」と書かれた最下部が切断されている。藤原鎌足を神格化して祀っていた多武峰妙楽寺(奈良県桜井市)のように、寺院であったものを「神社」に改めなければ取り潰す、全山焼き討ちにする、というような脅しがあったとされる場所は、「祇園感神院」であった京都の八坂神社、修験道の聖地だった奈良県の吉野山の金峯山寺、山形県の出羽三山、香川県の金毘羅宮など全国にある。このうち修験道と仏教の寺院に戻っているのは金峯山寺だけだ。
法蓮上人坐像もおそらくは、どこかの八幡宮か八幡神社に祀られていた仏像が、神社に仏像があるのは許されなくなったので、流出したものだったのだろう。
神仏分離令と同時並行的に、おそらくは新政府が扇動したのであろう「廃仏毀釈」の嵐も全国を吹き荒れた。民衆が寺院を襲って放火したり破壊・略奪する事件が全国で起こったのだ。また江戸時代まで、寺社は幕府によって寺領を与えられて経済基盤が保証されていたのが、そのほとんどが政府に没収され、経済的にも苦境に立たされることになる。
いわゆる「文明開化」の西洋化の空気の中で仏教など伝統信仰に基づく伝統文化自体が軽視されがちでもあった明治時代に、寺院の経済的困窮で流出した文化財には海外に流出したものも多い。そうした散逸を防ぐことに少なからざる役割を果たしたのが、大倉喜八郎のような財閥によるコレクションでもあったのだ。
奈良の興福寺は、こと中世以降隣接する春日大社と一体化していたこともあって、神仏分離令と廃仏毀釈に苦しめられた大寺院のひとつだ。今は国宝になっている五重塔がわずか50銭で売りに出され、しかし取り壊すなり維持するなり、いずれにしてもその経費の方が膨大になるので買い手が付かなかった、というのは学校教科書にも載っているような有名な話だ。
その興福寺に伝わる奈良時代の脱活乾漆像で、有名な「阿修羅像」を含む八部衆像とともに国宝に指定されている十大弟子像は現在、六体しか興福寺に残っていない。明治初期の混乱で寺外に流出してしまった四体のうち一体も、実はかつて大倉集古館のコレクションだった。残念ながら関東大震災で焼失してしまい、今回の展覧会では当時の絵葉書の拡大パネルが展示されている。
興福寺の十大弟子立像と八部衆立像は、焼失したまま再建されていない西金堂に安置されていた像だった。この堂が一度は鎌倉時代に再建されたとき(平家の南都焼き討ちで焼失)に運慶が作った像は、頭部だけが現存している。
なお関東大震災で焼失した十大弟子のうちの優波離尊者立像の絵葉書の拡大パネルと並べて展示されている仏画は、釈迦三尊と十大弟子の組み合わせというのは興福寺に独特のもので、他には例がないそうだ。600年以上経過しているので褪色はあるものの、金を用いた釈迦三尊を中心に鮮やかな色彩で描かれた、華やかなものだ。