北宋・南宋こそが、実は今にもつながる「日本の美」の最大の源流?
鎌倉幕府に引き続き室町幕府も禅宗を重視し、とくに三代将軍の足利義満は禅宗と結びついた北宋・南宋の文化財を積極的にコレクションして、将軍家の文化的権威を高めようとした。京都から離れた関東に本拠を置いた鎌倉幕府と異なり、室町幕府は京都を本拠地としたため、平安時代以来綿々と息づく朝廷と貴族たちの文化力に対抗する意図もあったのだろう。
山中での過酷な修行を8年間続けても悟りに到達できないまま、その山を下りる修行時代の釈迦(つまりまだゴータマ・ブッダではなくシッダールタ王子だった頃)の姿を中央に、左右に雪景色の山水を描いたこの三福対は、実は元々はワンセットの作品ではない。
梁楷は南宋の宮廷画家で最高の位である画院待詔も授けられたが、権威を嫌う型破りな性格で、その印の金の帯を皇帝に与えられても身につけようとせずに家の柱に掛けっぱなしにしていたという。大酒飲みでもあったそうだが、そうとは思えない緻密で重厚な画風が圧巻だが、どれも梁楷のものとされるものの元はまったく別々の三幅をこうして組み合わせたのは、将軍義満本人だったという。
この三幅が義満コレクションの中でも重要な作品になったこともあって、梁楷はその後の日本の山水画に大きな影響を与えた。だが近年の研究では、実際には中央の「釈迦出山図」と左の雪景色は確かに梁楷の作品だが、右の雪景色は少し時代が下り、梁楷の作品とは確定できないそうだ。
本展の国宝を展示する第一部に対して博物館の150年の歴史を振り返る第二部では、宋代の青磁器も展示されている。こうした輸入陶磁器も足利将軍家コレクション(「東山御物」「唐物」)の重要な一部で、後に「茶の湯」の文化が発展していく基礎となったことも付記しておく。
足利将軍家が重んじた北宋や南宋の画家たちは、日本の絵画を大きく革新させることになる。例えば先にも紹介した雪舟の「秋冬山水図」だが、特に「秋」の絵は、見るからに中国の風景だ。実は南宋の宮廷画家・夏珪の様式を忠実に踏襲したものでもある。
雪舟自身が、すでに明になっていた中国に留学し、その皇帝から当代一の名手であると賞賛すらされていて、今日でも雪舟は中国で、日本の画家としてではなく中国山水画・水墨画の最高峰の一人として評価されている。夏珪の作品は日本国内にもあるが、それと比較する限りでは雪舟の夏珪スタイルの水墨の山水画は、夏珪以上に夏珪らしく優れている、夏珪スタイルの水墨画を完成させたのは雪舟、とすら言いたくなってしまう。
一方で、その対となる「冬」は、謎めいた絵だ。
山水画は実際の風景を忠実に描いたものでは必ずしもなく、中国各地の名勝・景勝地の要素を取り込みながらも自由な想像で描かれた、理想の風景を表す。そうは言ってもこの雪舟の冬の景色はあまりに自由過ぎるというか、画面上部の中央やや左の縦線は、一体なんなのだろう? オーバーハングした切り立った岩の断崖は中国の景勝地にはある(たとえば石灰岩は時々、こういう絶景を作り出す)とは言え、近景の岩山と木々との整合性が取れず、この断崖と遠景に見える建物との大きさの対比と位置関係も、よく分からなくなる。
そして前景右の岩山の手前では、笠をかぶった人物が、北風に立ち向かうように坂を懸命に登っていえる。
こうした山水画の本来の楽しみ方は中国語で「遊臥」、想像上の理想の風景を寝そべってみながら、空想でその絵の中に入り込んで、自由に風景の中に遊ぶことだという。先にも触れたがミュージアムシアターではVR技術を使ってそうした体験を再現したVR作品『雪舟 ―山水画を巡る―』が上映されているので、こちらもぜひ見ていただくと実際の作品の理解もより深まると思うが、「冬」の坂を登る人物や、「秋」の中景で二人の人物が座って話し込んでいる、そうした人物をさりげなく描きこむことで、観るものはその人物に同化して絵の中の風景に入り込めるという仕掛けが、雪舟はとりわけ巧みだ。
というのも、例えば「秋」の絵では、中景の二人の人物はよく考えると遠近法的に大き過ぎるはずなのだが、しかしそこに不自然さはなぜか全く感じられず、むしろ大きさで目立つことで、我々が風景に入り込むために同化する対象として、より有効に機能する。この大きさの選択が、また絶妙である。
政治史的な観点では従来、宋王朝は中国が衰えた時代として評価が低く、代表的な皇帝の徽宗などは自分の趣味に耽溺して国の衰退を顧みなかった暗愚の君子のようにみなされて来た。実際、北方騎馬民族の侵入に抗しきれずに北宋から撤退して南宋に、そして最後にはモンゴル帝国に滅ぼされたのは事実だし、一方で趣味人だった徽宗は絵画を愛好して自らも絵筆を奮い、その作と伝わる絵は日本にも何点も伝わっている。だがそうした徽宗の作と伝わる絵(ちなみに緻密な筆致で優れた作品が多い)がある寺院で話を聞くと、身勝手で暗愚という評価はあまり正しくないように思える。
中国史の研究でも最近、宋の評価は変わりつつある。異民族の侵攻に軍事力ではとても敵わない代わりに、徽宗は文化政策を重んじ、文化の力で王朝の権威を高めようとしたのではないか。また貿易など商業の発展に努め、今もアジアを中心に世界中に華僑コミュニティがあって中国系商人の一大ネットワークが構築されたのも始まりは宋の時代で、そうした宋王朝の、皇帝の権威は守る代わりに経済活動は自由にやらせた政策が、政治と経済活動がある意味別次元で政治的には敵対するような国とでも密接な経済関係を構築するしたたかな現代の体制の起源にもあると言える。
いずれにせよ、少なくとも文化史、特に絵画と陶磁器では、宋の後代への影響は日本でも中国でも圧倒的だ。足利将軍家の珍重した「唐物」は実際には「宋物」というべきかも知れないし、その日本では雪舟に代表される室町時代の新しい、禅の美術の隆盛を経て、狩野派や長谷川派などの「漢画」の近世絵画が生まれたこと、「茶の湯」にも宋の影響が絶大であることは、すでに述べた通りだ。
そうした宋の文化への憧れと宋の文化の継承は、元以降の中国にも見られる。
国宝「出山釈迦・雪景山水図」や国宝「紅白芙蓉図」をはじめ、日本にある宋の絵画のほとんどは、中世に日本に輸入されて寺院や大名家に伝来して来たものだが、「李」という署名のある「瀟湘遊臥図巻」は例外だ。宋代の水墨画でも梁楷や夏珪などとはまたまるで異なった、微細な点と線で緻密に構成された淡い濃淡から浮かび上がる、霞に浮かぶ山々と水の風景が3メートルを超える横長の画面に、夢のように広がっている。空の余白に書き込まれた漢詩と朱印から、その詩が清朝の最も偉大とされる皇帝・乾隆帝のもので、印判は乾隆帝の蔵書票であることが分かる。つまりこの絵巻は北京の紫禁城に受け継がれた、乾隆帝の愛蔵品なのだ。
明や清の皇帝たちも、足利義満や義政のように、宋代の絵画を深く愛していた。その多くの作品は国共内戦で蒋介石の国民党政府が本土を離れた時に台湾に運ばれ、台北の国立故宮博物院に所蔵されている。本サイトは映画のサイトなので相応しい逸話も付記しておくと、侯孝賢は歌謡映画などの商業映画で一定の成功を収めたところで創作上の壁に突き当たり、このまま映画監督を続けていくべきか迷っていた時に、たまたま故宮博物院でその宋代の水墨画に出会ったという。90年代に世界映画を席巻した侯孝賢の独特の構図の作り方や長回しの多用は、「中国らしい映画のスタイル」を模索していた侯孝賢が、宋代の水墨山水画にインスパイアされて生まれたものだったのだ。
「瀟湘」とは現在の湖南省にある洞庭湖に合流して注ぐ瀟水と湘水の二つの川のことで、水の豊かなこの景勝地は宋代に好まれた画題となり、八つの代表的な景色の「瀟湘八景」は日本でも繰り返し描かれる代表的な画題になった。
東京国立博物館の江戸時代の国宝絵画のひとつ、池大雅の「楼閣山水図屏風」も瀟湘、洞庭湖の風景を(文献から想像して)描いた大作だ。この画像ではいささか分かりにくいが、金箔を貼った一面の金地に墨で描かれ、随所に群青、赤、緑青の岩絵具の彩色を散りばめた、大胆で斬新な画面構成が眩い。デフォルメを駆使した温かみのある奔放なタッチは大雅ならではの真骨頂で、それが輝く金地に一際映える様は、やはり一度は現物を見ていただかなくてはとてもではないが伝わらないだろう。この屏風は8代将軍・徳川吉宗の時に新たに作られた徳川家の分家・一橋家に伝来し、近代に国有財産となって東京国立博物館に所蔵されている。
こうした瀟湘の名勝への憧れは江戸時代後期には大衆化し、八つの名勝のパターンを日本に当てはめた「近江八景」「金沢八景」「江戸近郊八景」などが、歌川広重らの浮世絵の人気のシリーズものにもアレンジされることになる。現代の我々が純日本的なものだと思っている美意識は、実は北宋・南宋なしには考えられないものなのだ。