タイトル画像の、鉄という素材の本質を凝縮したような、鉄のオブジェとして世界で最も美しいかも知れない物体は、かつて徳川家康も所持した短刀だ。
鎌倉時代の刀工・粟田口吉光の作であることが、実際に使われるときには柄(つか)で覆われる茎(なかご)に刻印された「吉光」の銘から分かる。近世には「名物」とされ、吉光の通称「藤四郎」(近代以前の日本人の呼び名は「吉光」であるとか「家康」であるとかの本名にあたる「諱」を使うことは滅多になく、「太郎」とか「四郎」といった通称や、公式の位がある場合は官職名で呼ばれるのが普通だった)と、写真でも分かるであろう刀身の分厚さから、「厚藤四郎」という名でも知られる。
日本刀で通常見られる「峯」、つまり刀身の刃の反対側が、「厚藤四郎」では平になっていて、頭身の輪切り状の断面はほぼ二等辺三角形状になると思われる。この美しいフォルムは刃物、それも武器、殺傷の道具として作られ、実用性を突き詰めたもののはずだ。戦場で鎧の隙間から敵を刺す「鎧通し」なのだろう。
だがそうした実用の役割をしばし忘れてしまうほどに、そのシンプルさを極めた姿も、磨かれた刀身に浮かび上がる鍛え抜かれた鉄の質感も、その美はすべてを超越するかのようだ。
今回の特別展では、展示室ひとつがまるまる壁面も展示ケースも真っ黒にアレンジされて、そこに適確に考え抜かれたスポット照明で刀剣が浮かび上がる。その光を神々しく反射する現物を見ると、多様な刃文の移り変わりと、鍛え抜かれた鉄の質感に圧倒される。
東京国立博物館と19振りの国宝の刀剣
この数年、刀剣の展示や展覧会で女性客が急増しているという。名刀を擬人化してアニメのキャラクターを当てはめたりすることも流行しているそうだが、そうした「刀剣女子」の皆さんにとってこの「三日月宗近」は「イケメンNo.1」なのだそうだ。
写真を拡大表示しても分かるかも知れないが(来訪時にはぜひ単眼鏡か拡大鏡をお勧めしたい)、「三日月」という通称は、刃の部分の白身がかった刃文からほんの数ミリ離れて、小さな円弧の紋様が無数に見られることを三日月に見立てているという。個人的には、この無数の模様は、この刀そのものの美しい曲線の極小の相似形に、太刀の全体像そのものが三日月にも見える。
日本の鉄製の刀剣は古墳時代、おそらくヤマト王権成立の前後に、朝鮮半島から鉄とその加工技術が伝わったことに始まる。古代には真っ直ぐの直刀や剣だった。この「三日月宗近」が作られた平安時代の中後期に、いわゆる「日本刀」の、緩やかな曲線を描く機能美が確立したと考えられている。
先に行くほど細身になる刀身の、端正で気品に溢れたフォルムは、いわば「元祖」日本刀と言っていいのかも知れない。この日本刀ならではの曲線美も、本来は実用的なものだ。刃物は刀に限らず身近な包丁でも、刃を切る対象にただ押し当てるのだけではなかなか切れず、前後させなければならない。
直刀や剣であれば振り下ろした刃は対象を切るというより、むしろ叩いているだけの状態になるが、曲線の刃ではその上下運動が自動的に刃を手前へと引く動きに変換されて、切れる。だから曲線の刀はイスラム圏などにも見られるが、ただ曲線に造形するだけなら、今度は切れ味と、打ち合った時に折れない頑丈さを確保するために、刀身を鍛えることが難しくなる。
日本刀は鉄の塊を打って伸ばしては折り曲げてさらに打って伸ばし、それをまた折り曲げて重ねては打って引き伸ばすという作業を数え切れないほど繰り返すことで、鉄を無数の層に重ねて鍛えて、切れる硬さと折れないしなやかさを出していく。研いで磨き上げられた、一見鏡面のように見える刀身には、よく見ると鉄が何層にも折り重なっていて、それが複雑なニュアンスの質感を作り出している。これも美術品としての刀剣の、ひとつの大きな見所だ。ただすべすべの鏡面に仕上げられていたら、鉄の質感のデリケートな風合いは生まれないだろう。
こうして鉄を打って鍛え伸ばしていく工程では、刀はまだ湾曲はしていない。反りは峯の側と刃の側で、急速に冷やした際の収縮率が異なるようにして、高温で熱したところで冷水に浸けた時に、峯の方が収縮率が大きいのでそちら側が引っ張られ、刃の側がより引き伸ばされることで生み出される。
いわば一瞬に起こる自然現象の偶然性を予測・計算して産み出されるのが、この曲線であり、刀身に現れる鉄の質感なのだ。
人為的な知見や努力と、人意の及ばない自然の偶然性、その偶然性つまりは自然現象を経験の積み重ねから学びコントロールしようとしても、自然の偶然性は必ず予測しきれない何かを引き起こす、そうしたせめぎ合いと調和が凝縮した刀剣に、日本人は武器としての実用を超えた美と精神性を見出して来たのかも知れない。
刀剣はもちろん、こと中世から近世にかけて支配階級の武士の必需品であり、大量に生産され、実用品でもあった。近世に「名物」と称賛されて来たりした名刀の多く、特にこの展覧会で紹介されている国宝指定の刀はいずれも、平安時代中後期の日本刀の形が生まれた時期から鎌倉時代にかけて打たれた、江戸時代、戦国時代の時点ですでに300年〜400年以上昔のものだ。
下の写真の太刀も鎌倉時代の、福岡一文字派の傑作だが、「岡田切」という呼び名は、織田信長の息子・信雄が、岡田という名の家臣をこの刀で斬り殺したという伝承に由来する。
つまり3〜400年前の古い刀が、武器として実用で使われていたのだ。当時はもちろん、戦乱の時代に応じて高まる需要に対応して新しい刀も大量に作られていたが、有力な武将になればなるほど過去の名刀を好み、そうした刀を身に付けたりすることが、いわば武将のステータスシンボルにもなっていた。
それにしても、実際に人を切るのに使われたとされる伝承を知ってしまうとますます、武器、殺傷の道具としての存在感が増す。比較するなら「三日月宗近」のような繊細な、先に向かって幅が細くなっていく端正な姿とは対照的な太い刀身は、重々しくて武骨で、猛々しささえ覚える。峯のすぐ下に溝が穿たれているのは太い刀身でも軽量化を図るとともに、強い衝撃を吸収して折れにくくする効果もある。
変化が激しく荒々しくも見える刃文は、「岡田切」という呼び名を意識すると滴る血にも見えて来てしまうが、武士が支配者となった鎌倉時代に、その武士に好まれた華やかさなのだという。
こうした刃文は、鍛造の最終段階で刀に刃をつける焼きを入れる時に、鉄に対する熱の伝わり方をコントロールするために泥で一部を覆う結果として生み出される。泥を塗った部分はより熱の伝わり方が遅くなるわけで、その泥の塗り方(「土置き」)で現れる紋様が左右されるのだが、これも完全にコントロール可能なわけではなく、刀の湾曲と同様、人為的な計算と自然現象の微妙なせめぎ合いで、偶然性を予測計算する中で産み出される。
数百年の時代を超えて実用の武器であり続けたことは、持ち手の部分の柄(つか)で覆われる部分(「茎・なかご」と呼ばれる)に開けられた穴からも分かる。日本刀の柄は一箇所の「目釘(めくぎ)」で固定されるので、本来ならその「目釘」が通る穴はひとつで済む。実際、「三日月宗近」や「定利」銘の太刀では、穴はひとつしか開いていない。
それが「岡田切」や「厚藤四郎」、「大包平」「観世正宗」「小龍景光」では二つ以上あるのは、時代的な変遷に応じて実用の観点から刀の長さを変えているから、なのだ。「小龍景光」は刀身の根元に不動明王を象徴する、倶利伽羅剣に龍が巻き付く図柄が彫り込まれているのが「小龍」という呼び名の由来だが、のちに開けられた目釘の穴に柄を装着したら、この龍は隠れてしまうだろう。
鎌倉時代なら、こうした太刀を用いるのは主に大将で、騎馬戦の一騎打ちで用いるので、刀身は長い方がよかったのだが、それが接近戦では使いにくく、またより重くもなるので、刀身をより短くしたのだろう。
また太刀を刃の側を下にして腰から吊り下げるか手で持つよりも、刃を上、峯を下にして腰に差す「打刀」の方が、いわゆる「戦国時代」に突入した室町期代中期以降一般的になる。
太刀の形式であれば刃は下向きなので、刀を手前・上に向けて引き抜いたあとで刀を正面に構え直してから、振り下ろして攻撃することになるが、峯を下・刃を上に腰に差せば、刀を抜くことと構えること、構える間もなくそのまま相手に切りつけることが、一連のひとつのストロークの動きでできる。
実用にまつわる伝承がある名刀といえば、「岡田切」とはまた趣の異なっているのが、名物「童子切安綱」だ。
「童子切」と呼ばれるのは、別に子供を切ったわけではない。童子とは平安時代に京を脅かしたとされる鬼・酒呑童子のこと。源頼光が日本史上最強の、伝説の鬼を退治したといわれる、神話めいた天下の名刀だ。
刃物・刀剣に呪詛的ないし霊的な、「魔除け」の意味を持たせる風習は、鉄がまだなく銅製の銅剣や銅矛が祭礼に用いられていた弥生時代にまで遡るだろう。奈良時代にも、東大寺の大仏殿の地下から地鎮の意味で埋められた2本の剣が発見されているし、今日でもそうした悪霊を鎮めるために刀剣を置く風習は、たとえば一部の地方の葬儀などに見られる。
刃物・刀剣が魔除けになるのは必ずしも日本に限ったことでもないだろうが、この展覧会でも見ることができる「上杉太刀」が伊豆の三嶋権現(三嶋大社)に奉納されたものであるのも好例として、あるいは名古屋の熱田神宮の御神体が剣である(天皇位の継承を象徴する「三種の神器」のひとつでもある「天叢雲剣」、別名「草薙剣」)ことも含めて、日本刀はカミガミへの信仰と深く結びつくものでもあり、国宝や重要文化財になっている名刀には神社の所蔵も多い。
日本で刀が宗教性を帯びることは、刀を打つには玉鋼という特殊な最高級の鉄しか使わないこと、そして刀を造る過程でどんなに優れた刀工でも自然現象の偶然性に任せなければならない局面が多々あることとも、無関係ではないのかも知れない。
そうした神聖性を帯びると刀剣を、本来は実用の武器であるのに美術品としても愛でる、数百年前に作られた刀剣に美と権威を見出す文化というのは、さすがに日本独特のものだろう。
もちろん美術的な価値も持った刀剣はたとえばヨーロッパにもあるが、その美的な価値は鞘や柄に貴金属や宝石を用いるような豪華な装飾にあるのであって、刀身そのもの、鍛え抜かれ夾雑物を削ぎ落とした鉄に美を見ること、またその審美眼に耐えるだけの美が追及され、刀鍛冶が刀工として、芸術家的な地位を確立したことも日本固有の文化であり、日本人の美意識や価値観を考える上で、重要なポイントになりはしないだろうか。
そんな刀剣のなかでも国宝に指定されている名刀を最も多く所蔵しているのが東京国立博物館であることには、この博物館がそもそもなぜ産まれたのかにも関わる理由がある。ここ以外でそうした名刀を所蔵しているのは主に、先述の熱田神宮に代表されるような神社で、優れた刀が神宝として奉納されたもので、「上杉太刀」は三嶋大社から流出しているものの、多くがそのまま熱田神宮、春日大社、日光東照宮、厳島神社、各地の八幡宮などに所蔵されている。
一方で鎌倉時代や平安時代中後期まで遡る古刀・名刀には、戦国時代に武将たちが自らの権威づけもあって所有し、江戸時代に入ると将軍家や大名家の家宝として受け継がれ、あるいは最高級の贈答品として活用されて来たものも多い。だがそうした藩のほとんどが幕末には財政難に陥っていて、しかも明治維新の廃藩置県で所領と経済基盤を失うことになった。
明治維新を主導したのが幕藩体制下では外様、領地も江戸や近畿から遠くおよそ中央・文化的中心ではなかった薩摩や長州の、それもその多くが下級武士出身者だったこともあるのだろう。権威や美意識よりもプラグマティズムが優先され、武士の中でも上流階級の、刀剣を家宝として珍重したり贈答し合う文化とはかなり無縁だったことだろう。こうして旧大名家の家宝だった刀剣の多くが財産整理や借金返済の一環で売り払われ、散逸しかねない状況になった。あるいは統治者としての地位を失って、新政権の安定化のためにも慎ましい立場に徹しようとした旧将軍家の、名刀などの文化財にしても、それを国民的な財産として引き継ぐ受け皿が必要だった。
急速な近代化・西洋化で江戸時代までの日本古来の文化がどんどん軽んじられる一方で、新国家として国際社会に躍り出た近代日本には、「日本人」としての国民アイデンティティ、ひとつの大きな文化を共有し継承して来た民族としての意識を自覚することで国民国家としての統合を図る必要性も急務になったのが、戊辰戦争の混乱が一応は落ち着いたかと思えば、再び大きな内戦の西南戦争が勃発したような明治初期という時代だった。