川の向こう、「あの世」の入り口に建てられた寺

そんな信仰のありようの変遷は、まさにその10世紀に「西光寺」として創建された六波羅蜜寺の歴史と、開山の空也上人の存在に、凝縮されているようにも思える。苦しみの多い人生のその後の救済を祈って、慈悲と死後の救済の仏である阿弥陀如来に帰依してひたすら「南無阿弥陀仏」ととなえることを説いたという、伝説的な「市聖(いちのひじり)」だ。

重要文化財 康勝作 空也上人立像 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

現在の京都市街の原型は、応仁の乱で市街地のほとんどが焼失した後、戦国時代を通して何度も復興しては戦火に遭って破壊される繰り返しを経て、豊臣秀吉の都市計画に基づいて整備されたものだ。平安京の時代には都市の全体がもっと西にあり、今日の千本通りがかつての目貫通りの朱雀大路に当たる。今日の地名でも京極通りがあってここが平安京の文字通り東の端、その東の河原町通りが秀吉以前には今の3倍ほどの川幅があった鴨川の河原で、市街の東端のさらに外側だった。

その鴨川を渡った東岸にある六波羅蜜寺の周辺には、平安時代の後期になると平家一門が屋敷を構え、南には後白河法皇が本拠とした法住寺殿もあった(三十三間堂はその本堂として平清盛が法皇のために造営)。しかしそれ以前には、霊水の湧く聖地として崇敬された清水寺や「八坂の塔」で知られる法観寺などはあったものの、基本的に街の外であり、人間の世界の外側ともみなされた。

そこには、鳥辺野と呼ばれる葬送地が広がっていた。

重要文化財 閻魔王坐像 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

貴族階級ならばそれなりの葬礼で火葬し、立派な墓所も建てられただろうが、庶民となると遺体が市中から川を渡って運ばれて、そのまま野晒しにされていたような場所だった。

六波羅蜜寺の北東にある六道珍皇寺には、日中は朝廷に仕えていた小野篁(歌人・小野小町の父)が毎晩その境内にある井戸を使って地獄に通い、閻魔王の書記官として働いたという伝説がある。

つまり平安京の人々にとって、鴨川の向こうは端的にいえば「死後の世界」というか、鴨川そのものがあの世とこの世の境界の「三途の川」に見立てられるような場所だったわけでもある。

康猶作 奪衣婆坐像 江戸時代・寛永6(1629)年 京都・六波羅蜜寺蔵
地獄の入り口で人々の衣服を脱がせて丸裸にする老婆。死者は身を隠すものも何もない姿で地獄の十王の裁きにかけられる。

大きな戦乱などはほとんどない状態が200年ほど保たれたとはいえ、「平安」京がそこまで平安だったわけでもない。首都・都市に人口が密集した結果としてしばしば天然痘などの疫病が流行し、山に囲まれた盆地という地形から河川の氾濫にも悩まされた。とくに水はけが悪かった西半分には湿地帯が広がり、その湿気の多い不衛生さが、また疫病を誘発した。当時は農業技術もまだまだ未熟で、天候不順で不作になると飢饉になり、都に運ばれる食糧が不足する度におびただしい数の餓死者の遺骸が、庶民であれば火葬や埋葬も満足にできないまま、この鴨川の東側の「川向こう」に打ち捨てられていたことだろう。

また平安時代の政治体制自体が、その後の時代の感覚からすればひどく差別的というか、貴族階級や朝廷の役人以外はあまり人間扱いすらされていないようなもので、庶民の生活はかなり悲惨なものだったと思われる。

そんな時代を苦しみながらなんとか生き抜いて疫病や飢饉に倒れた庶民の亡骸が、満足な葬礼もなく野晒しにされた鴨川の東岸というのは、想像するに「地獄」のような光景だったのかも知れず、そこから小野篁の地獄通いの伝承も生まれたのかも知れない。

陸信忠筆 十王図のうち 初江王 中国・南宋〜元時代・13〜14世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
地獄には閻魔王を筆頭に十人の王がいて、死者は初七日、二七日などの区切りごとにそれぞれの担当の王の裁きにかけられる。下には鬼に追い立てられ火炎でせめられる死者たち。【この作品は3月21日(月・祝)で展示終了。現在は同じ十王図から別作品を展示】

またその死後の地獄というのも、経典で解かれ仏画に描かれた光景は、身の毛のよだつようなものだ。日々の苦しみをなんとか生きぬいている庶民であればあるほど、そこで閻魔の裁きを恐れなければならない罪を、誰しもがやむを得ずに日々犯してしまうこともあっただろう。

そんな時代に空也上人は、「南無阿弥陀仏」と絶対的な救済の仏である阿弥陀如来の名をとなえてその慈悲にすがれば、身分を問わず誰でも死後には救済されると説いた。「市聖」と呼ばれて庶民から最高位の貴族の摂政関白に至るまで、幅広い信仰を集めたと伝わる。

重要文化財 康勝作 空也上人立像(部分・頭部) 鎌倉時代・13世紀
京都・六波羅蜜寺蔵
「南無阿弥陀仏」の6文字に併せて6体の阿弥陀仏が口から現れたように描写される。仏画ではあった表現だが、それを立体の彫刻で再現したのは珍しい。

重要文化財 空也誄 [原本]源為憲撰 平安時代・12世紀
愛知・真福寺(大須観音宝生院)蔵
空也の没後まもなくまとめられた伝記で、後世に神話化された空也についての同時代に近い数少ない記録。

苦しみの多い人生を終えて、せめて次の世では救済されたいという切実な願いがあった一方で、疫病や自然災害に苛まれる現世の困難もまた、切実な問題だったはずだ。空也上人が開いた「西光寺」の本尊が十一面観音菩薩立像だったのが、弟子によって天台宗の「六波羅蜜寺」になった時に本尊が薬師如来になったのも、平安仏教では天台宗でも真言宗でも、本尊を薬師如来とする寺院は非常に多い(なお現在の六波羅蜜寺は真言宗)。

密教では最高位の仏で世界の中心とされたのは大日如来で、ならば大日如来を本尊とした方が筋が通るようにも思えてしまうが、薬師如来は現世での苦しみを取り除いて悟りに至る環境を整えてくれる仏だ。いずれ悟りを開けるかどうかはともかく、病を癒し苦しみを少しでも取り除いてくれるご利益というのは、疫病の繰り返された時代には、極めて切迫した祈りの対象だったに違いない。

古代から日本では、疫病や天変地異のような厄災は、大自然の神々が荒ぶる神と化したり、死者の怨霊の祟りとして起こる、という強い信仰があった。そうした厄災が続いた8世紀から10世紀という時代なればこそ、大自然の神聖さがそのまま宿ったかのようで神聖視もされる巨木を仏像とする、一木造の不動でどっしりとした造形に、人々は頼れる信仰対象を観たのではないか?

重要文化財 四天王立像のうち 多聞天立像 平安時代・10世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

そうした大自然の霊力の重厚さによって怨霊を追い払おう、荒ぶる神を抑え込もうという意識は、最初期の寄木造である六波羅蜜寺の薬師如来坐像の造形にも引き継がれているように思えるし、また大自然の荒々しさをも含んでその実在を表象しているかのような平安初期の仏像の造形が、定朝の生み出した優美で上品な様式に取って代わられたのは、貴族社会の政治体制が曲がりなりにも安定したことに関連しているのかも知れない。

この展覧会で会場のもっとも奥に並べられた薬師如来坐像と四天王立像を見た後で、振り返って入り口近くにある地蔵菩薩立像のそばに戻ると、横から見たこの像は、比較してとても体が薄い。重厚さよりも繊細で華奢な美学は、こうした定朝様に特徴的な表現にも現れている。

藤原道長の時代を経て、たとえば菅原道真や伴善男のように、朝廷内の激しい権力闘争の結果の政変や陰謀で地位を追われて恨みを残して死に、「天神」となった道真のようにその祟りを恐れなければならない対象が現れなくなった、とも言えるのかも知れない。そこで重厚で迫力のある仏像によって、荒ぶる神と化した日本古来の土着神や、祟りをもたらす怨霊に睨みを効かせて抑止する、という信仰の形が変化した結果が、定朝の貴族的な美学の仏像なのだろうか?

その一方で、定朝の晩年に当たる西暦で言えば1052年(永承7年)には「末法」、仏の法が絶えて現世が乱れる時代が始まる、という考えが広まり、現実世界への諦念というか厭世的な不安を解消するためにあの世、極楽浄土での平安を求める信仰が強まった。定朝の作り出した優美な仏の世界は、いかにもその死後の平安を想起させてくれるような穏やかさにも満ちている。

重要文化財 地蔵菩薩立像 平安時代・11世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
特に足元に向かって非常に薄い身体と、指が繊細に表現された手から垂れ下がる毛髪の束

一方で、やはり六波羅蜜寺にはリアルな実感として「あの世」であり「異世界」の入り口にあたる川の向こう、現世の苦しみの到達点としての死と、地獄のイメージと結びついた寺として、それでもある種のリアリズムというか生々しさは欠かせないのかも知れない。

この地蔵菩薩立像の特徴は、地蔵菩薩は左手に宝珠を持つのが決まり事なのが、この像の場合、左手に持っているのは人間の毛髪の束だ。