琳派の鈴木其一と「写生」の円山応挙、その意外な共鳴
実は「夏秋渓流図屏風」の、左右から中央に向かって水が前面に、見る側に向かって迫ってくるような川の流れの配置が琳派の伝統的図様ではないのはもちろんだが、他ならぬ円山応挙の「保津川図屏風」との類似性が指摘されている。
今回、その影響関係を検証するかのように、「夏秋渓流図屏風」は「保津川図屏風」と同じ展示室に置かれている。すると川の流れのフォルムが確かに似ているだけでなく、応挙の「写生」的表現の自然主義と一見対比されるような其一の、非現実的にすらみえる濃厚でフラットな色彩は、必ずしも「対照的」ではなく、むしろ共鳴し合っていることに気付かされる。
その意味で、この二つの一見まるで別物に見えそうな屏風が並んで展示されていることの意味は、比較のためとは真逆なのであって、まず応挙の屏風があることであらかじめ観る側の感性が触発され、目が敏感になるところにこそあるのかも知れない。
論より証拠、応挙に続けて其一を観ると、其一の描いた渓流が確かに、それもダイナミックに、左右から中央に向かって、画面奥から手前に向かって、流れているではないか。
今回の展示室に入って遠目に見える「夏秋渓流図屏風」が気になりながら、順路通りに展示を見て、ついにその前にたどり着いて近づいてよく見れば、其一の描いた群青は確かに水であって、しかもまるで平面的でもないし、静止もしていないではないか。
実のところ鈴木其一の描き方がフラットに、静止した得体の知れない青い物体のように見えたのは、濃い色の塗り方に目くらましされた先入観に過ぎなかったのではないのか? 群青の色面に描き込まれた細い金の線も決して、いわゆる「琳派的」な水の意匠化・紋様化ではなく、適確な遠近法と立体感で巧みに引かれたその線で、水は確かに画面奥から手前に向けて迫って来ている。
だがそこで、新たな疑問が出て来る。
「夏秋渓流図屏風」に近づいて、群青の色面に引かれた金の線までしっかり見れば、鈴木其一が円山応挙的な「写生」も研究し、遠近法もマスターし、水の流れをダイナミックな線で表現するだけの卓越したテクニックを持っていたこと、そしてその腕を駆使して渓流の速い流れを描き込めていたことも明らかだ。
だがならば、なぜ其一はこの水の流れを、たとえば金の線を太くするとか、群青をベタ塗りにするのではなく琳派おなじみの「たらし込み」のテクニックを駆使して白の顔料で波頭をつけたり明暗を見せるとか、遠目にも「水」「渓流」と分かるように、はっきり表現しなかったのだろうか?
その「たらし込み」のテクニックは、緑で一面に塗られた苔や下草の下に露出した岩肌に、存分にというか、ほとんど過剰なまでに駆使されている。だが今度は、黒を基調に「たらし込み」で描写された岩々は少し離れてみると立体なのに、屏風に近づくと、水の描写の遠近感が浮かび上がるのと反比例するかのように、逆にフラットになってしまう。
離れて真正面からだと群青のフラットなベタ塗りに見えるものが、近づいたり角度をつけると青々とした水の流れになると、今度は遠目には立体的な岩に見えたものがフラットな墨のシミになる。ではどの距離感が、鈴木其一が意図したこの屏風の観られ方なのだろう?