聖徳太子、「本地・如意輪観音菩薩」

聖霊院は南を正面として、中央部分は4本の柱の間に仏像を安置するスペースを3つ設けた建物だ。中央が本尊の聖徳太子で、その左右(東西)にもう一体ずつ、左・西側に半跏像の如意輪観音菩薩、右・東側は地蔵菩薩が安置される。

如意輪観音菩薩半跏像 平安時代11〜12世紀 奈良・法隆寺(聖霊院安置)重要文化財

地蔵菩薩立像 平安時代9世紀 奈良・法隆寺(聖霊院安置) 重要文化財

太子像に付随する4人の侍者像は、実際の聖霊院では東の間の地蔵菩薩と西の間の如意輪観音の左右に並び、中央には聖徳太子坐像だけが安置される。

西側の如意輪観音は、現存はしないが絵図が残る「四天王寺救世観音像」に極めて近いと指摘され、つまり蘇我馬子と物部守屋の内戦の後に太子が大坂に創建した四天王寺金堂の本尊を写した像と考えられる。

半跏思惟のポーズの菩薩像は三国時代の朝鮮半島で流行し、交流が盛んだった日本でも飛鳥時代を代表する仏像の形のひとつだ。法隆寺にもこのポーズの菩薩の金銅像が多数伝来し、有名なところではかつて切手にもなっていた戦後の「国宝第一号」の京都・広隆寺(ここも太子ゆかりの寺院)の、国宝・弥勒菩薩半跏思惟像がある。四天王寺の本尊も元来は広隆寺と同じく弥勒菩薩だったのが、太子を観音菩薩の化身とみなす信仰の強まりと共に観音菩薩に、そして変化観音のひとつの如意輪観音に名称変更されたのだろう。同様の例では法隆寺東院の西隣にある太子ゆかりの尼門跡・中宮寺の国宝・菩薩半跏像が、やはり如意輪観音として信仰されている。

如意輪観音は平安時代に空海が中国経由でインドから新たに持ち込んだ密教の仏のひとつだ。元のインドではサンスクリット語でチンターマニチャクラ、中国と日本では観音菩薩の変化した姿のひとつの「変化観音」として扱われ、真言宗の「六観音」のひとつだ。通常、六臂(腕が6本)で手のひとつないしその指を頰に当て、片膝を立てて座って思いに耽る姿で表される。

如意輪観音菩薩坐像 中国・唐 8〜9世紀 奈良・法隆寺 重要文化財
鎌倉時代に奈良・西大寺を再興した真言律宗の叡尊が修理して法隆寺に納めたと銘文に記されている。叡尊も如意輪観音を太子の本地仏として信仰していた。

空海が日本に導入した密教は、言うまでもなく平安時代の日本の仏教に強烈なインパクトをもたらした。法隆寺にも密教の影響は大きく、太子への信仰の変遷にも大きく関わったのは、ただ密教の仏・如意輪観音が太子信仰に導入されたことだけではない。

密教ではすべてが大日如来、奈良時代には東大寺大仏などの「盧舎那仏」「毘盧遮那仏」と呼ばれていた、世界の中心にあってその根本原理である仏から派生していると考え、あらゆる神仏や菩薩が元を辿れば大日如来に行き着く化身・分身の体系に位置付けられる。この複雑な理論体系の世界観を目で見て理解し易いように図像化したのが「曼荼羅」だ。

法華曼荼羅 平安時代12世紀 奈良・法隆寺 重要文化財

この密教の世界観は日本の神々にも当てはめられ、神仏習合の信仰の理論的根拠になり、日本の神々は仏の化身、仏が日本人向けに世界の真理(仏教の「法」)を分かりやすくもたらすために姿を変えたもの(「権現」)とみなす「本地垂迹説」が定着した。神として信仰されて来た存在の本来の姿である仏を「本地仏」という。建国神・皇祖神のアマテラスオオミカミなら本地仏は大日如来、春日大社の第一神タケミカヅチなら本地仏は不空羂索観音、と言った具合で、実在の人間が神格化された場合でも「天神」になった菅原道真は本地・十一面観音菩薩、死後「東照大権現」「東照神君」になった徳川家康はなんと薬師如来ということになっている。

家康イコール薬師如来というのはさすがに形式的なものだろうし、本当に薬師如来の化身と思われていたことはなさそうだが、同じく密教のチベット仏教で歴代ダライ・ラマが「活仏」つまり先代の生まれ変わりとして信仰されているのも、現14世ダライ・ラマは元を辿れば観音菩薩の32回目の転生になる。もう1人の最高位の活仏パンチェン・ラマは、阿弥陀如来の転生として信仰されて来た。観音の化身としてあらゆる命を慈しむ絶対的な慈悲の存在とされるダライ・ラマだが、その名は「知恵の大海」を意味する。慈悲と知性の二つの特性を備えた神聖君主というのは、日本の聖徳太子への信仰にも共通しているように思える。

仏教にはもともと輪廻転生思想があり、次はどんな命に生まれ変わるのかは前世の行いに左右される(「業」「宿業」「カルマ」の本来の意味)。たとえば釈迦は釈迦として受けた生で悟りに至る前に何度も人間として生まれ変わりを繰り返し、その前世でもいずれ悟りに至るであろう修行や善行を繰り返していたのは、「玉虫厨子」の台座側面に描かれた説話の通りだ。

玉虫厨子 飛鳥時代7世紀 奈良・法隆寺 国宝
金光明経などに記された仏教説話「飼虎捨身」を表す台座の絵。釈迦は前世で飢えた虎の親子に会い、子供の虎を哀れんで自ら身を投げて自分の肉体を食べさせたという。衣を脱ぐ姿、身を投げる姿、虎に食べられる遺体の、異なった三つの時間が異時同図法でひとつの画面に描かれる

そこに描かれている物語は、前世の釈迦が真理を学ぶために自らの命を投げ打とうとしたという「施身聞偈」と、飢えた虎の子を憐れんでその母子のための究極の慈悲として、自ら身を投げて遺体を食べさせたという「飼虎捨身」だ。

二つの仏教説話は釈迦が転生を繰り返しやがて悟りを開いて仏陀となるための修行として、「施身聞偈」は知と真理の探求、「飼虎捨身」は慈悲の実践を表し、この二つの釈迦の特質は理想的な聖人君子にして仏や菩薩として信仰対象になった聖徳太子の両面にも通じる。厨子の正確な製作年代は、太子の生前なのか没後なのか分かっていないが、描かれた説話が太子にも通じることが意識されはしなかったのだろうか? 元来は釈迦三尊が収められていたのなら、法隆寺の本尊の釈迦三尊像は太子の等身大でつまりは分身、と光背の銘文に記されている。

ならば「玉虫厨子」の本尊が釈迦三尊から観音菩薩に入れ替わったのは、聖徳太子が観音菩薩の化身として信仰されるようになった歴史と、どこかで関わっているのではないか? ここでも展覧会の前半と後半、太子信仰の歴史的展開と金堂に安置されて来た飛鳥時代の文物が、深い関わりをもって反射しあうものとして見えて来て、見る者の想像と思索を喚起する。

如意輪観音菩薩半跏像 平安時代11〜12世紀 奈良・法隆寺(聖霊院西の間安置)重要文化財

輪廻を繰り返す度に老いと死を繰り返すのが生きとし生けるものの宿命的な苦しみであり、そこから解放される(「解脱」)ためには悟りに至るべき、というのが釈尊の元の教えだったが、逆に仏や菩薩が衆生(仏教用語で、人間に限らず輪廻転生するあらゆる生命)の救済のために人や別の神仏に生まれ変わるという思想が、密教で理論化された。もっともチベットのダライ・ラマとは異なり、たとえば菅原道真が「天神」になって本地は十一面観音菩薩という信仰は、必ずしも観音菩薩が菅原道真の姿を借りて生まれ変わったので道真は幼い時から観音だった(キリスト教でマリアが聖霊により孕って神の子であり神自身でもあるイエスが生まれた、的な)というような意味づけは、日本では釈迦その人と聖徳太子以外には、そのように信じられたわけでもなかった。

密教が日本に伝わる以前から、聖徳太子を救世観音菩薩が日本人のためにこの世に生まれ変わった化身とみなす信仰は夢殿を中心に根付いていた。四天王寺の本尊が当初は弥勒菩薩だったのが、太子と同一視されて観音像と呼ばれるようになったのも、恐らくはそういう文脈だったのだろう。遺された絵図の時点では夢殿の本尊と同じ「救世観音」であって、まだ「如意輪観音」ではない。

そこに密教と本地垂迹説の理論的体系が援用され、聖徳太子も「本地仏」が観音菩薩、それもなぜか太子の当時の日本では知られていなかったはずの密教の仏・如意輪観音とする信仰は、少なくとも平安時代の後期にまでには遡る。そして中世に入り仏教の担い手が朝廷・貴族から武士、そして庶民にも広がると、「聖徳太子、本地如意輪観音」の信仰は太子が創建したり太子ゆかりの寺院以外にも広まって行く。主に鎌倉時代から室町時代にかけての、二歳の聖徳太子が合掌して仏の名前を唱えたという伝承に基づく二歳像(南無仏太子)や父・用明天皇の快復を祈る柄香炉を持つ十六歳像(孝養太子)、あるいは太子の本地仏としての二臂・半跏思惟の如意輪観音像は、真言宗や天台宗の寺院でもあちこちに見られ、さらには鎌倉新仏教の浄土宗や浄土真宗は太子を宗祖の1人とみなし、大きな寺院にはたいてい少年の姿の太子の画軸が内陣に掛けられている。

聖徳太子立像(二歳像・南無仏太子) 鎌倉時代14世紀 奈良・法起寺

聖徳太子立像(孝養太子・十六歳像) 鎌倉時代13世紀 奈良・成福寺 重要文化財

和と知性、そして慈悲の仏としての聖徳太子

一方で、聖霊院にはその二臂・半跏思惟の、太子の本地仏としての如意輪観音像と左右対称の位置(東の間)に、なぜか地蔵菩薩が祀られている。

地蔵菩薩立像 平安時代9世紀 奈良・法隆寺(聖霊院安置) 重要文化財

東院で本尊・救世観音の背後に三組の阿弥陀三尊がいることも含めて、どういった教義上の理由があるのか、ぜひ一度法隆寺のお坊さんに教えて頂きたいところだ。どちらも死後の救済や死からの救済に関わる慈悲の仏であることに、関連性があるのだろうか? 太子は観音の化身であるだけでなく、阿弥陀になり地蔵菩薩にもなったのだろうか?

もともと法隆寺にあった仏像ではなく、飛鳥にあった橘寺が荒廃したのでそこから移されたものだと記録にあるという。一緒に聖霊院に安置されているが、明らかに聖徳太子坐像や如意輪観音半跏像とは時代とスタイルが異なった、平安時代初期の一木造りの、硬い材木から彫り出されたもので、ボリューム感のある太ももや、シャープな彫りでとても凝った衣の表現には、他の2体とはまた異なった魅力がある。

地蔵菩薩立像 平安時代9世紀 奈良・法隆寺(聖霊院安置)重要文化財 部分

来歴の記録には「白檀」と書かれているというが、実際にはカヤ製の一木造りだ。唇に赤が差されているのが残っている以外は彩色はなく、木の質感をそのまま活かした素地で、つまり唐で流行して日本にも伝わった、香木から彫り出した仏像の「檀像」として作られたものだろう。香木の白檀は東南アジア原産で日本では入手が難しく、カヤやサクラのような硬い材木が代用されることが多かった。

眉間に白豪として嵌められているのは、なんと真珠だ。

地蔵菩薩立像 平安時代9世紀 奈良・法隆寺(聖霊院安置) 重要文化財

この地蔵菩薩立像と聖徳太子坐像のあいだには、だいたい300年弱の時代差がある。それが並べて安置されているところに、平安時代に日本の仏像表現がどれだけ変化したかの歴史も凝縮されている。というか、それをいうのであれば、法隆寺は飛鳥時代から中世まで、日本の仏像と仏教美術の歴史と変遷が凝縮された寺院でもあるのだが。

衣冠束帯の聖徳太子坐像は、かつての一万円札などで現代に普及した聖徳太子の表象と、その基になった「唐本御影」と同じく成人した太子の姿の「摂政像」ながら、両手で笏を正面に捧げていること以外はずいぶん異なったイメージがある。

聖徳太子坐像 平安時代 保安2(1121)年 奈良・法隆寺(聖霊院安置・秘仏) 国宝

太子が水面に映った自らの姿を自画像に描いたという伝承が、法隆寺では「水鏡御影」、四天王寺では「楊枝御影」として伝わる。その太子自身の直筆自画像はさすがに現存しないが、伝承に基づく真正面からの太子像は中世には盛んに描かれたようで、この展覧会でも奈良と東京で前期・後期を分けて計3件の「水鏡御影」と、「水鏡御影」の四隅に四天王を配して仏としての大使を取り囲んだ「聖徳太子四天王図」が展示される。

水に映った姿を直視して描いた、ということなのだろうか?「水鏡御影」では座った太子が真正面から描かれ、「唐本御影」の洗練され貴公子の雰囲気が漂う繊細な様式と対照的だ。よりストレートで無骨でプリミティヴとさえ言えそうな力強い存在感で、太子は見る者の正面に向き合う。

聖徳太子四天王図 南北朝時代 14世紀 奈良・法隆寺
「水鏡御影」の形式の聖徳太子に四天王を組み合わせたもの

聖霊院の聖徳太子坐像は、太刀を佩いていないのを除けば、袍の色や冠の形式やポーズなど、この「水鏡御影」の形式を踏襲している。

どうも「唐本御影」ではなくこの「水鏡御影」の摂政像の方が、歴史的に親しまれて来た大人の太子の姿だったのではないか? 逆に近現代の我々が太子というと「唐本御影」に基づくイメージを持つようになったのはなぜなのか、気になって来るところでもある。

もちろん直接的に大きいのはかつての一万円札などの紙幣に描かれた肖像だが、紙幣のデザインは国家事業だ。では明治以降の近代日本政府は、なんらかの意図があって仏教的なイメージとして定着していた「水鏡御影」ではない、他に類例が極めて少なかった太子像をあえて採用したのだろうか?

この疑問を考えるのはまた、今度は東京国立博物館でこの展覧会が開催された時の宿題のひとつとしておこう。

聖徳太子坐像 平安時代 保安2(1121)年 奈良・法隆寺(聖霊院安置・秘仏) 国宝