聖徳太子、仏になる
ただその情報量の濃密さと、個々の展示品の圧倒的な美しさ、特に太子と同時代の文物のミステリアスさに、なかなか頭の整理が追いつかないのも、正直なところだ。幸い「聖徳太子と法隆寺」展は7月には東京国立博物館でも開催される。奈良では展示されるが東京では見られないもの、逆に東京だけで展示されるものも多々あり、また異なった東博ならではの展示構成も期待しつつ、今回は個々の展示品の印象を中心に、散漫になるのを承知で紹介を続けていくことまでしか、筆者の考えが追いつかない。
またそれだけ、「聖徳太子」という存在が日本人の歴史に投げかけた影響はあまりに我々の文化的DNAの根幹に深く染み込んでいて、その意味を考えるのには時間がかかって当然なのかも知れない。
展示冒頭の「唐本御影」の聖徳太子像も、太子生前の同時代ではなく奈良時代の作だ。一万円札などの紙幣デザインはこの肖像に基づくが、衣冠束帯は太子の時代ではなくのちの天武・持統天皇の時代の官服や冠だという。
絵そのものはとても精緻に描きこまれ洗練されていて、太子に従う2人の童形の王子は、殖栗王の衣は緑の若葉の、山背王は緑の葉に赤い花の文様が鮮やかでみずみずしい。
ここに描かれた太子の長男・山背王は、推古天皇の死後に皇位継承問題に巻き込まれて蘇我入鹿と対立、斑鳩寺で妃ら一族と共に自害に追い込まれ、太子の直系の血統は絶えることになる。この展覧会の出品作ではないが法隆寺の「百済観音」の通称で呼ばれる長身の観音菩薩立像(国宝)は、今回出品されている太子の娘・片岡女王が寄進したという金銅製の「灌頂幡」(国宝)と共に、山背王の魂を鎮め菩提を弔うために作られたのではないか、と言う説がある。
だとすると、法隆寺には蘇我氏によって滅亡に追い込まれた太子一族の鎮魂のための寺という役割もあったのかも知れない。その蘇我氏を滅した中大兄王が天智天皇として即位した時代に斑鳩寺が焼失すると、まもなく西院伽藍が再建されたのも、もしかしたらそういう理由が背景にあったのだろうか?
最古の肖像画の「唐本御影」が飛鳥時代ではなく奈良時代の作、というとまた「後代の創作で非実在」の根拠になると勘違いされそうなので付記しておくと、古代に限らず日本の文化的伝統では肖像画や肖像彫刻が生前に作られることは滅多にない。この絵にしても信仰対象として必要になったから描かれたのだろうし、後代のものであること自体にはなんの不自然もない。
ただし注目すべきなのは、これが描かれたのが奈良時代であることだろう。その奈良時代に斑鳩宮の跡地に夢殿が建立され、東院伽藍が創建されているのだ。「唐本御影」も明治時代に皇室に移る以前は、この東院に伝来していた。
こうした八角円堂は古代インドの墓やストゥーパに由来し、本来の円形が日本の木造建築は直線の木材で構成されるので八角形に建てられたものだ。つまり故人の菩提を弔うのが元々の役割で、太子の供養追善のために夢殿が作られ、より太子本人に直接結びついて太子信仰の中心になったのがこの東院だ。なお法隆寺には他にも、西院の西北に光明皇后が父・藤原不比等の菩提を弔うためのに建立した西円堂*がある。
*ちなみに興福寺の北円堂もやはり光明皇后が父・不比等のために建てたもの。平家の南都焼き討ちで焼失し、運慶の弥勒如来・無着・世親像で有名な現在の北円堂は鎌倉時代の再建
また今回展示されている国宝のひとつである「海磯鏡」(東京国立博物館・法隆寺献納宝物)も、光明皇后が法隆寺に寄進したものとされる。
夢殿の建立時には、太子をその本尊の救世観音菩薩と同一視してその化身とみなす信仰が成立していたと思われるが、その夢殿を創建した奈良時代の高僧・行信の像(国宝)も出品されている。通常は夢殿の東側に、孝養太子像にかしずく位置で黒漆の厨子に収められて安置されている像だ。
観音菩薩化身としての聖徳太子と聖武天皇の奈良時代
行信僧都坐像は木造ではなく脱活乾漆像、漆とおがくずを混ぜたペーストで麻布を何層も固めて整形した、日本ではほぼ奈良時代にのみ見られる技法で作られている。大変に高価だったらしく、そう滅多に使われるものではなかったはずだが、それが行信の像に使われて法隆寺に納められているのも、聖武天皇の朝廷にとっても夢殿を建立して聖徳太子への信仰の拠点とすることが重要な事業だったのではないか?
現在の東院伽藍の建物の多くは鎌倉時代のものだが、夢殿の他にも最北部の伝法堂が奈良時代の建築で、聖武天皇の側室・橘古那可智の屋敷の建物を移築・改造したものだ。奈良時代の住宅建築の貴重な遺構で、元が住居なのでこの時代の仏堂には珍しく床が張られているそうだが、残念ながら非公開のため、筆者は見たことがない。いずれにせよ、つまりこの伝法堂も聖武天皇に関わる建物なのだ。
聖武天皇の治世の初期にも、疱瘡(天然痘)のパンデミックが日本を襲い、記録から人口の三分の一が亡くなったと推計されている。この大きな危機に瀕した国を建て直す精神的支えとしての政策が、仏教の振興だった。全国に国分寺・国分尼寺を建立し、東大寺の大仏を造立、さらに戒律の権威・鑑真を中国から招き、上皇になっていた聖武帝自身と妻の光明皇太后、娘の孝謙天皇が「菩薩戒」を授かっている。
パンデミックを体験した聖武天皇は、国を建て直し民を救うために自ら「菩薩」になろうとまで考えたのではないか? だとしたらその時にモデルにしたというか、自らを重ね合わせる理想としてもっともふさわしかったであろうのは、すでに観音菩薩の化身として信仰されていた聖徳太子だったに違いない。
救世観音菩薩(イコール聖徳太子)が本尊として南面する夢殿の北・真後ろにある伝法堂には、三組の阿弥陀三尊が安置されているそうだ(非公開なので未見)。この三組の阿弥陀三尊も伝法堂の建物と同様に聖武天皇の天平時代のものだが、ではこの配置には聖武天皇の朝廷の、どんな思いが込められているのだろう?
阿弥陀三尊で阿弥陀如来の左に従うのが観音菩薩だ。
また観音菩薩は冠に阿弥陀如来を表す化仏を頂いて表され、つまり修行者=菩薩である観世音はあらゆる衆生を救済する如来である阿弥陀にいずれなる存在、ないし阿弥陀の化身ともみなされる。
東院・伝法堂に3組あるという阿弥陀三尊のうち、この展覧会に出品されている東の間の阿弥陀如来の手は、よく見られる定印(手を前で組んで瞑想する姿・阿弥陀の場合は人差し指から小指までを第二関節から立てて人差し指が親指に接する)や来迎印(指で輪を作る、死者を訪ねその魂を浄土に導く「お迎え」の手の形)ではなく「説法印」、教えを説く時の手の形だ。
そして建物自体が「伝法」、仏の教えを伝える場だという。
慈悲の体現者であると同時に、教えを説き諭す存在といえば、太子の重要な仏教的な功績のひとつが、遣隋使がもたらした勝鬘経・維摩経・法華経の三つの、かなり長く内容も複雑な経典を、即座に解釈してその内容を説いたことだ。
つまり太子は、出家する前の釈迦のシッダールタ王子にも通じるような倫理的で敬虔で慈悲深い道徳君主=菩薩が「和」を説いただけではなく、第一級の仏教学者で知的にも傑出した修行者=菩薩としても、信仰を集めて来た。
その太子が「和を以って貴しとなす」を説いた、「日本書紀」に記された政治的業績のひとつ「十七条憲法」も、いわゆる法律ではなく統治する側の官吏・公務員が行政・職務に当たる上での道徳的心構えを説いたものだ。その道徳律は中国の儒教を踏まえて簡潔に要約したもので、当時の倭国(日本)としては最先端の洗練された内容だという。つまり太子は仏教以外の学問についても深く学び、それを平易な言葉で説く能力に傑出していたのだろうし、またかつての日本では寺院という場所自体がただ現代人が想像するような宗教施設で純粋な信仰の場に留まらず、大陸から伝わる最先端の文明や知見が集積する場所でもあった。
太子がこの三つの経を読み解きその教えを説いたことにちなみ、西院伽藍の西に位置する僧坊は南端が改造・増築され、「三経院」と呼ばれる修行と学問の場になっている。
なお太子による勝鬘経・維摩経・法華経の注釈書「三経義疏」のうち、法華経のぶんは写本ではなく太子直筆とされるものを行信が法隆寺東院に納め、以来法隆寺に伝来して来た。明治時代に皇室に献上されて御物となっており、つまり太子の筆跡として今では天皇家が大切にしている文書も、展示される(後期展示・5月25日から)。