狩野探幽 筆「両帝図屏風」江戸時代寛文元(1661)年 根津美術館蔵 狩野安信「牡丹猫・萩兎図」江戸時代17世紀 個人蔵

侯孝賢も感動した中国・宋王朝の絵画と、日本の禅の美術、そして足利将軍家

室町幕府の三代将軍・足利義満は、特に北宋・南宋を中心に、中国絵画や陶磁器、茶器、漆器などの工芸品の膨大なコレクションを蒐集し、将軍権威の重要な一部として政治的にも活用した。この「東山御物」の「唐物」コレクションについては本サイトで相国寺承天閣美術館の「茶の湯 禅と数寄」展の紹介記事 https://cinefil.tokyo/_ct/17317491/p6 でも触れたが、文化芸術を政治に利用したというよりも、朝廷と公家の強烈な存在があった京都に本拠を置いた足利将軍家にとっては、芸術は政治の最重要な一部で、文化力こそが政治力そのものだったとすら言える。

そうやって発想を転換すると、義満の孫の八代将軍・足利義政も、応仁の乱の混乱を疎んで政治を忌避し個人の趣味の文化的なものに逃避したというよりも、軍事的・財政的な権力基盤を失った幕府の最後のよりどころとして将軍家の文化力を高めようとした、と考えるべきだろう。探幽の「両帝図屏風」に話を戻せば、聖人君子の名君・舜帝は、文化教養を象徴する琴を奏でる姿で描かれていることの意味も、忘れてはなるまい。

そしてこの義政こそが、狩野派の二代目・狩野元信の才能を見出し、狩野派が日本の絵画の正統・王道の地位を獲得する最初の一歩に深く関わっている。

伝 狩野正信「観瀑図」室町時代16世紀 小林中氏寄贈 根津美術館蔵
狩野正信は元信の父で、狩野派の創始者。下から見上げた近景と雲を表す空白で処理された中景、遠景の岩山と滝の存在感のコントラストが印象的で、宋風の山水画の空間的な広がりの表現を適確に踏襲している

現代映画と日本の雪舟、そして狩野派が、意外なところで繋がっていた

室町時代の日本の絵画といえば、まず誰よりも天才・雪舟等楊の名が上る。狩野派もまたその画聖・雪舟の系譜の後継者として位置付けられる。雪舟は明帝国の最盛期だった中国に渡り、皇帝から絶賛された、つまり本場で超一流と認められ本場すら超えた、今風に言えば日本の野球選手がメジャーリーグで大活躍、みたいな存在になったわけで、今でも中国の水墨画作家たちにももっとも偉大な古典作家の1人とみなされているのだが、「雪舟」という名前からもわかるように「本業」は禅の僧侶だ。

宋時代の水墨画は文人画、職業画家ではなく教養人、上流階級の貴族で政治家でもあったり、僧侶だったりした人々が、それぞれ自分独自のスタイルと個性で描いていたものだ。中世に日本の禅宗寺院はそうした大陸由来の最新知識や文化が真っ先に受容される場でもあり、禅僧だった雪舟はそうした古典のそれぞれのスタイルと手法を忠実にマスターし、作品によって描き分けるだけに留まらず、それぞれのスタイルをさらに発展させて頂点を極めた、まさに「本場を征した最強のメジャーリーガー」だった。

雪舟にとって手本となった宋の文人画は、例えば夏珪の作品は日本国内にもいくつか伝来しているが、比較するとそのオリジナルよりも雪舟の夏珪スタイルの傑作、例えば国宝の「秋冬山水図」(東京国立博物館蔵)の方が、絵として断然…ひたすらカッコいいのである。圧倒的に完成度が高く、絵画表現として成熟して傑出している。こと空間の把握に関しては、近景・中景・遠景を対比する遠近感の空間の広がりは宋の中国山水画から日本が学んだ表現だが、「秋冬山水図」でも「慧可断臂図」(やはり国宝、愛知・斎年寺蔵、京都国立博物館寄託)でも、雪舟のそれはより大胆でドラマチックだ。

伝 狩野元信 「四季花鳥図屏風」室町時代16世紀 根津美術館蔵

狩野派はこの雪舟の「漢画」、つまり当時でいえば「中国風絵画」の系譜を継いだ絵師集団だが、一方で桃山時代の永徳のライバル・長谷川等伯も「等伯」という号は雪舟の「等楊」にちなみ、「雪舟五代目」を自称していたのだから、「雪舟」というには桃山時代にすでに大変なブランドネームになっていたことが分かる。

伝 狩野元信 「四季花鳥図屏風」室町時代16世紀 根津美術館蔵
右端に近景を描き、中景、遠景と空間を重ねていくダイナミックな構図

本サイトは映画サイトでもあるので、少し話が横道にそれるが、侯孝賢が自身のスタイルを見出し、「台湾ヌーヴェルヴァーグ」の旗手として台湾のみならずアジア映画が世界の現代映画の最先端メインストリームに駆け上るきっかけとなったのは、本人の弁によれば、この宋代の文人画を熱心に見たからだったという。

最初はご多分に漏れず欧米の映画に憧れて映画界に入り、商業映画で青春ものやミュージカルを手がけて一定の成功を収めたものの行き詰まりを感じていた時に、台北の故宮博物院で、蒋介石が北京から持ち出した、明や清の皇帝たちが愛蔵していた水墨山水画を見た、というのだ。

鬱的な精神状態でスランプになっていた侯は、特に西洋遠近法とは異なったその遠近の表現と空間処理に衝撃を受けて、しきりに故宮博物院に通って熱心に研究したのだそうだ。そしてそうした絵画に見られる前景・中景・遠景の多様で奥深い組み合わせを、映画にどう組み込むかを考えることの実験を『風櫃の少年』辺りから意識し始め、『戀戀風塵』で自分も納得できる画面構成と、アジア映画としてのスタイルに到達できたという。

現代台湾映画と日本の雪舟、そして狩野派が、実は意外なところで繋がっていたのだ。

世界の一流とされる映画批評家たちは『黒衣の刺客』のモノクロ・シーンで初めて「水墨画」と気づいてその東洋的な美を絶賛したものだが、そんな白黒だから水墨だなんていううわべの表層ではなく、空間をどう把握するのか、という視覚芸術表現のもっとも本質的な部分にこそ、深い関わりがあったのである。

右都御史(狩野玉楽)「梅四十雀図」 室町時代16世紀 小林中氏寄贈 根津美術館蔵