アール・デコ美学の饗宴〜旧・朝香宮邸にラリックのガラスが置かれるぜいたく
会場となる東京都庭園美術館の本館だが、建物自体が重要文化財で、住宅として建てられた本来の形をなるべく残し、窓があって外光が入り込むことだけが、ここがこの展覧会にふさわしい場所である理由ではない。1933年に竣工したこの邸宅は、1929年の世界大恐慌でアール・デコがフランス本土でも急激に衰退した後とはいえ、ほぼ同時代の建物になる。
しかも施主でこの館の主人となった皇族の朝香宮は1922年にフランスに留学、交通事故に遭って重傷を負ったためそのまま25年まで、妃も看病のため合流して夫妻で長期滞在し、その25年にパリで「L'art de vivre 生きることの芸術/生活の芸術」のスローガンで開催されたアール・デコ博覧会も訪れていた。
ラリックはこの博覧会で「ガラスとガラス産業部門」の代表を務め、モニュメンタルで大規模な展示を行っている。
帰国した夫妻が自邸の建設に当たり、フランスのアーティストでインテリア設計者のアンリ・ラパンに主要な部屋の内装を依頼し、アール・デコ様式で建てさせたのがこの邸宅だ。
今日でもパリにはアール・デコの建築物は公共建築ならシャイヨー宮やパレ・ドゥ・トーキョーなどが知られているし、アール・デコ様式のアパートなどはもちろんあるが、内装まで当時のままの場所はほとんどないか、あっても個人住宅だったりしてまず一般の目に触れることはない。
映画でいえばヨーロッパのサイレント映画、とくにジャック・フェデー監督の『女郎蜘蛛』(1921年フランス)やカール・Th・ドライエル監督の『ミヒャエル』(1924年ドイツ)、アメリカ映画でもチャップリン監督の『巴里の女性』(1923年)や、エルンスト・ルビッチ監督の都会派ブルジョワ喜劇がアール・デコの様式を美術に採用している。とりわけルビッチの最高傑作『極楽特急』(1932年)は主な舞台がパリであることもあって、アール・デコ的な美術に満ち溢れている。この傑作の影響もあってか、その後トーキー初期のアメリカのコメディやミュージカルには、アール・デコ的なデザインが盛んに用いられた。
だが現代の映画ファンにとってもっともアール・デコの印象が強い映画は、おそらくベルナルド・ベルトルッチの『暗殺の森』(1971年)だろう。イタリアにおけるファシズムの勃興とそこに順応してしまう普通の人間たちの精神的腐敗をテーマとしたこの映画は舞台がローマとパリで、ローマの部分でもイタリア未来派にアール・デコが混交したインテリアで、舞台がパリに移るとほとんどの空間がアール・デコ調のデザインに染まる。
というわけで、映画ファンがこの展覧会にで日没近くまで粘ると、ベルトルッチと撮影監督ヴィットリオ・ストラーロが偏愛した日没前後マジック・アワーの青い光にアール・デコの、『暗殺の森』ごっこも出来てしまったりする。
朝香宮は終戦後の臣籍降下で夫妻は皇族の身分を失い、屋敷は一時はGHQに接収され、その後は政府が旧宮家から借り受けて外務大臣公邸として使用した。
当時の外務大臣は総理大臣の吉田茂が兼任している。吉田はどうも永田町の総理大臣官邸(現在の首相公邸)よりもここがお気に入りだったようで、むしろこちらに居住することも多かったらしく、俗に「目黒公邸」と通称されたこともある。
二階東南角の書斎は見晴らしもよくて、吉田は来客があると相手がすぐ分かるところも気に入っていたそうだが、それはともかく外務大臣の公邸ということは、外国要人の接待も想定していたことは容易に想像がつく。
敗戦後の荒廃した日本だからこそ、このようなヨーロッパ的に洗練された建物は外国相手の政府のイメージ戦略として重要な役割を果たしたはずだし、現に吉田内閣の退陣後は「白金迎賓館」として国賓・公賓の滞在・接遇に活用され続けた。
その後1968年に、明治末建設の赤坂の旧東宮御所(皇太子の宮殿)が戦後は国会図書館になっていたのが赤坂迎賓館に改装され、旧朝香宮邸はやがて東京都に所有が移り、1983年に東京都庭園美術館として開館し、現在に至っている。
1929年世界大恐慌後の近代史とアール・デコ、その光と影と、曖昧さと〜フランスでも、日本でも
朝香宮夫妻が自身でパリ滞在中に花瓶「フォルモーズ」や、テーブル・センターピース「火の鳥」などのラリック作品を買い求めていたこともあるのだろう、正面玄関の扉はラリックに特注され、客間とダイニングルームの照明にもラリック社の製品が採用された。
そのラリックは1920年代半ば、アール・デコ博覧会の前後から、身の回りのガラス製品だけでなく建築の一部としてのガラス工芸に関心を強めたという。大規模なガラスのモニュメントや噴水なども手掛け、フランスの国家的威信をかけた大客船ノルマンディ号の内装も担当した。
朝香宮邸の玄関扉と大客室・大食堂の照明は、現存するだけでなく実際に今も建物の一部として使われている貴重な作例でもある。北澤美術館のコレクションと合わせてその創作の全体像が、美術館の建物そのものも含めて俯瞰できる展覧会ともなっているわけだ。
とりわけ玄関の、分厚いのに軽やかなガラス・レリーフの扉は特注品の一点もので、建物装飾としてそのまま使われている希少な例でもあり、ラリックの傑作の部類だろう。ただ本展ではこの玄関扉のデザイン・スケッチも展示されているが、当初の構想では裸婦像だったのが、「体を布で覆わなければならない」とメモが付記されている。結果は見ての通りだが、さすがに当時の宮家の邸宅では、裸婦はまずかったのだろうか。
昭和天皇の弟宮・高松宮宣仁親王の日記が昭和天皇の没後、宮妃の徳川(旧姓)喜久子の尽力で公刊されていて(中央公論社)、戦時中や戦後まもなくの天皇家の内実や、特に海軍軍令部にいた宮が戦時中の極秘暗号電報を書き写していたこと、さらに近衛文麿と側近の細川護貞と共に昭和天皇を説得する終戦工作に奔走していた事実(いわゆる「近衛上奏」として戦後ずっと噂されていたこと)の詳細な記述など、昭和史の一級資料として注目されて来たが、そんな激動の時代に突入する前のまだ平和だった頃に、高松宮は帰国した朝香宮がすっかりヨーロッパかぶれで困る、というような愚痴を綴っている。
そういう高松宮の邸宅(高輪皇族邸、昨年退位した上皇夫妻がまもなくここに引っ越す予定)もこじんまりとしながらもなかなか瀟洒なアール・デコ調なのだが。
高松宮の茶化したような愚痴はともかく、この邸宅の建築を「皇族のぜいたく」「国民から吸い上げた税金で好き勝手」という批判もあろう。
だが果たして、妥当なのだろうか?
確かに陸軍将校だった朝香宮は若い頃から洒落たデザインにアレンジした軍装を好んで着用したような人物で、明治天皇の娘だった妃も西洋美術好きだったらしく、この邸宅はその個人的な趣味が反映されているとも言える。
だが一方で、朝香宮が軍の任務で最新の軍事的知見の研究のため(つまりはフランスの軍や政府の高官との交流も任務のうちとして)フランスに留学したことも含めて、皇族の大きな役割は国を代表しての国際交流、いわば名誉外交官としての活躍が期待されていたのも確かだ。戦後の皇室は権限が極端に制約されているが、戦前の宮家の当主は貴族院議員でもあり、いわば政府の要職にあるに等しく、また男子皇族は軍務に着く義務もあった。帰国した朝香宮も、陸軍の大物になって行く。
朝香宮邸でとりわけ豪華な1階の、玄関を入ってすぐの大広間、次の間、大客室と大食堂は接待用の施設だ。2階に上がるまでの階段とその上の踊り場の広間までは広々としたスペースで立派なものだが、宮一家の居住スペースである2階や1階の奥の小食堂(大食堂は来客を招いての食事会用、日常の食事はこちら)は、洗練されたデザインではあるものの、こじんまりとしていてそこまでぜいたくとは言えない気がする。
文化的で洗練された生活だったのは間違いないが、そういう先端的な新しい価値観を天皇や宮家が自らが生活に取り込むことでいわば国民を「お手本」的に先導するのも、天皇家の歴史的な役割であった面が、日本の文化史には古代からあるのだ。近代の例でいえば明治以降の日本にそれまでタブーだった肉食が大きな抵抗なく定着したのは明治天皇が牛肉や乳製品を食したから、と俗に言われているし、洋装の普及に関しては天皇皇后夫妻が洋服を着て公の場に現れ、「御真影」も洋装だったことが明らかに影響している。明治天皇本人は最初かなり嫌がったようだが、皇后の一条美子(のちの昭憲皇太后)は自ら率先して肩も露わなイヴニングドレスを着用した(「御真影」もその姿)。
美子皇后は十二単姿の自分を見る西洋人の好奇の目に人種差別を敏感に感じ取り、覚悟を決めたと言っている。朝香宮の「アール・デコの館」もそのような延長上にあって、フランスで自分が見た工業化されたフランスの文化的な生活を日本にも定着させようという意図も、あったのではないか?
朝香宮は幕末の朝廷で孝明天皇の側近の1人だった久邇宮朝彦親王の息子だ。久邇宮は攘夷派の大物として修好条約勅許をめぐって幕府の大老井伊直弼と対立し、一時は安政の大獄で失脚、桜田門外の変のあと公武合体派のリーダーとして返り咲き、和宮の降嫁を実現させた1人でもある。朝香宮はその8男として、明治20(1887)年に生まれている。父・久邇宮の還暦を過ぎてからの子だ。
フランスに留学して「かぶれた」と揶揄されたほど海外事情にも明るかった宮にとって、このフランス風最先端の洗練された邸宅は、日本を西洋先進国並みの「文明国」に引き上げたい、その国際的な地位を高めたい野心の現れだったのかも知れず、言下に「個人的なぜいたく」とも否定できない気は、するのである。
朝香宮邸の2階の、大理石の市松模様が美しいベランダには、宮の居間・寝室と妃の居間・寝室からしか入れないように設計されている。建物の南正面から見ると、夫妻の部屋は共用のバスルームを挟んで左右対称に配されている。
だがその妃は、この邸宅が竣工して半年足らずの1933年の11月3日(奇しくも父の明治天皇の誕生日)に42才で亡くなっている。
軍務に専念するようになった朝香宮は、4年後の37年には日中戦争の最中に上海派遣軍司令官となり、同年12月の南京総攻撃の指揮官の1人だった。一説には南京大虐殺の首謀者とも疑われているし、また陸軍大将となり対米戦争の末期には強硬な主戦論者として、本土決戦を前提に海軍に対する陸軍の覇権・主導権を確保しようと運動・暗躍した。
先述の、パリ帰りの朝香宮を揶揄していた高松宮は海軍軍令部参謀として日本に不利な戦況をいち早く掌握し、一刻も早い終戦を画策して兄・昭和天皇を説得しようと尽力を続け、朝香宮のいた陸軍と激しく対立することになる。高松宮は終戦直前の日記に、陸軍の「精神論という不合理」に対抗して日本を破滅から救うには「御聖断という不合理」で対抗するしかない、とまで書いている。細川護貞の証言では、宮が東條英機について「暗殺するしかない」とまで口走ったこともあったとか。
この美しい邸宅にもそんな歴史の一端の痕跡が秘められてもいるわけだが、美的なセンスの高さが政治的なセンスに結びつくわけでもない、と言うことなのだろうか? ここまで海外事情に明るかったはずの朝香宮が、高松宮の言う通り「不合理」そのものの、日本国内でしか通用しない精神論に暴走した陸軍の中枢に身を置き、その「精神論という不合理」を主導する1人にすらなってしまっていたのは、一体どういう心境の変化があったのだろうか?
妃が亡くなってしまったことが、どこかで影響しているのだろうか?
あるいは、やはり先に言及したベルトルッチの映画『暗殺の森』の視覚的な歴史的要素の分析を想起するなら、アール・デコの耽美的な享楽主義に内包されていた思想的な曖昧さと矛盾が、結果的にファシズムの揺籃として機能してしまったのではないか、ともいえる。
美とは常に、両義的なものである。だからこそ我々は美に魅了される。
ラリックが好んだ意匠の、男女を問わない裸体表現の奔放なしなやかさや、花鳥・動植物の自然愛好は、リベラルな価値観の反映のようにも今日では思える。だが裸体の美しさの表象はレニ・リーフェンシュタールのオリンピック映画『民族の祭典』(1936年)に顕著なように、のちにナチスがプロパガンダに利用するイメージにもなった。
ラリックをはじめアール・デコに見られる自然への回帰や古代趣味も、後にはその『民族の祭典』をはじめとしたファシズム的なプロパガンダ意匠としても活用されることになる。オリンピックの「聖火」もそうした古代趣味の典型で、ドイツ的な白人文明の優越性を古代ギリシャに結び付けて誇示するプロパガンダ装置だった。
そもそも今日でこそフランスには反ファシズムの伝統があるように思われているが、これは戦勝国になったフランスで戦時中のレジスタンス運動が戦後称揚されたことから逆算された、現代の政治的な都合に偏向した見方に過ぎない。ファシズム的な価値観への支持は、戦前のフランスにも確かにあったし、パリの陥落とナチスによる占領すら、必ずしもフランスの全国民がそこに敵意を抱いたわけでもなく、歓迎する層すらあったのだ。『暗殺の森』でもイタリア未来派とアール・デコは決して対立的な視覚要素としては扱われず、むしろ視覚的にも連続性があるものとして映し出されている。
ちなみに朝香宮は皇族であったことから戦犯訴追は逃れ(昭和天皇の訴追回避も含めてここでも裏工作に奔走した1人がこれまた高松宮で、その情報収集と説得の手段がこれまた、自邸で外国要人を接待することだった)、熱海の別邸でゴルフ三昧の生活を送り、93才の長寿をまっとうしている。
あるいは、ガラスは本質的に無色透明で、どんな色にでも染まり得るものでもある、ということなのかも知れない。
そのガラス作家、ルネ・ラリックは1929年の世界大恐慌で顧客の多くを失いながら、70代の高齢になっても豪華客船ノルマンディ号の内装などの大規模なプロジェクトで活躍を続けた。79歳の時の1939年に第二次大戦が勃発、ドイツ国境に近いアルザスにあった工場がドイツ占領軍に接収されてしまう。翌年にはパリが陥落、ラリックはそのショックで病に倒れる。それでもその翌1941年にはパリ郊外で工場を再開して占領下で創作を続けた。本展で展示されている1942年の作品「カマルグ」は、カマルグ地方は野生馬の自生で知られ(映画ファンにはアルベール・ラモリス監督の1953年の短編『白い馬』でおなじみ)、自由と抵抗の愛国的メッセージ性も読み取れるモチーフだ。
ヨーロッパにおける第二次大戦終結のわずか3日前の、1945年5月5日に逝去。
北澤美術館所蔵 ルネ・ラリック
アール・デコのガラス モダン・エレガンスの美
会期:2020年2月1日(土)– 4月7日(火)
会場 東京都庭園美術館(本館+新館ギャラリー1)
東京都港区白金台5-21-9
ハローダイヤル 03-5777-8600
休館日 第2・第4水曜日(2/12、2/26、3/11、3/25)
開館時間 10:00–18:00(入館は17:30まで)
ただし、3/27、3/28、4/3、4/4は、夜間開館のため20:00まで(入館は19:30まで)
観覧料
当日 | 団体 | |
---|---|---|
一般 | 1,100円 | 880円 |
大学生(専修・各種専門学校含む) | 880円 | 700円 |
中学生・高校生 | 550円 | 440円 |
65歳以上 | 550円 | 440円 |
*団体は20名以上
*小学生以下及び都内在住在学の中学生は無料
*身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳・被爆者健康手帳をお持ちの方とその付き添いの方2名は無料
*教育活動として教師が引率する都内の小・中・高校生および教師は無料(事前の申請が必要)
*第3水曜日(シルバーデー)は65歳以上の方は無料
主催:公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都庭園美術館、NHK、NHKプロモーション
特別協力:公益財団法人北澤美術館
後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
年間協賛:戸田建設株式会社、ブルームバーグ・エル・ピー
東京都庭園美術館「ルネ・ラリック」cinefilチケット・プレゼント
下記の必要事項、をご記入の上、「ルネ・ラリック展」 cinefil チケットプレゼント係宛てに、メールでご応募ください。
抽選の上5組10名様に、ご本人様名記名の招待券をお送りいたします。
記名ご本人様のみ有効。
この招待券は、非売品です。転売業者などに入手されるのを防止するため、ご入場時他に当選者名簿との照会で、公的身分証明書でのご本人確認をお願いすることがあります。
☆応募先メールアドレス info@miramiru.tokyo
*応募締め切りは2020年2月12日(水)24:00
記載内容
1、氏名
2、年齢
3、当選プレゼント送り先住所(応募者の電話番号、郵便番号、建物名、部屋番号も明記)
建物名、部屋番号のご明記がない場合、郵便が差し戻されることが多いため、
当選無効となります。
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