いま中心を再建する唯一の希望は、それを地球全体へと拡げることである。世界規模の連帯のみが、現代の〈家なき〉状態を乗り越えうる。
同胞愛という言葉はあまりにも安易だ──カインとアベルを忘れ、あらゆる問題が解決可能であるかのように約束してしまう。
実際には多くが解決不可能である──だからこそ、連帯は尽きることなく必要とされる。The one hope of recreating a centre now is to make it the entire earth. Only worldwide solidarity can transcend modern homelessness. Fraternity is too easy a term; forgetting Cain and Abel, it somehow promises that all problems are soluble.
In reality many are insoluble — hence the never-ending need for solidarity.──ジョン・バージャー『And Our Faces, My Heart, Brief as Photos』
一匹の犬から、すべてが始まる
ケン・ローチの映画には、いつも犬がいる。『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016)の庭で糞をして怒られる犬。『麦の穂をゆらす風』(2006)のアイルランドの石垣のあいだにも、『ルート・アイリッシュ』(2010)の街角にも、『家族を想うとき』(2019)のニューカッスルの郊外にも、同じく三本足の犬が姿を見せる。
ローチ自身が語ったところによれば、ある日の撮影現場に偶然、三本足の犬が入り込んできた。そしてまた別の現場でも、もう一匹の三本足の犬がカメラの前を通り過ぎていった。二度続いたこの偶然を、ローチは「幸運の印」と受けとめた。以後、彼は苦境にある人々の傍らに、意識的に犬を置くようになったという。しかし、「最後の作品」と銘打たれた『オールド・オーク』の犬は、三本足ではない。四本の足で走り、「マラ」という名を持っている。
「マラ(marra)」とは、ダラム州やタインサイドの炭鉱地帯で使われた方言で、劇中でも言われているように「信頼できる仲間」「坑道の相棒」を意味している。ローチがキャリアの最後に選んだこの犬の名前は、そのまま本作のテーゼといえるだろう。一匹の犬の名前と死。そのあいだで、ローチが半世紀かけて描き続けた「労働者階級の尊厳」は、最後の形を取る。
『ケス』予告編
ハヤブサと犬
ローチの動物表象の起点は、1969年の『ケス』にある。ヨークシャーの炭鉱町で育つ少年ビリー・キャスパーが、野生のケストレル(ハヤブサ)の雛を巣から取り、独学で訓練する物語だ。映画のなかで最も重要な場面の一つで、ビリーは学校教師に向かって言う「これは〈ペット〉ではない」と。ケスは従順ではない。野生であり続けているのだ。ケストレルが空に放たれ、ビリーの指の上に戻ってくる一瞬。あの瞬間にローチが捕らえたのは、労働者階級の少年が手にしうる唯一の「自由」の形だった。
ビリーの未来は炭鉱か工場しかない。学校は彼を〈負け組〉として扱う。兄は彼を殴る。しかしこの一羽のハヤブサとのあいだにだけ、ビリーは尊厳ある関係を持ちえた。そしてその尊厳を、彼の兄は破壊する。ビリーが賭金を流用し、勝ち馬の払戻しを逃した腹いせによって、兄はケスを殺してしまうのだ。映画は、泥だらけの穴にケスの死骸を埋める少年の後ろ姿で終わる。超然たるハヤブサと苦闘する犬。空を舞う存在と、地を這う存在。この垂直軸のあいだで、人間は引き裂かれる。
ビリーの兄がケスを殺したのは、賭金への腹いせという明確な動機による、意図的な暴力だった。しかし、後で見るように、本作『オールド・オーク』のマラが死ぬのは、同種(犬)による偶発的な、誰の悪意でもない暴力によってである。この差異のなかに、半世紀で世界がいかに変わったかが刻印されている。
『ケス』においてローチは、空を舞うハヤブサと、それを引きずり下ろす地上の労働者階級の暴力という垂直の構図を描いた。ビリーの孤独は、いわば階級による孤独だった。ゆえに救済もまた、階級の外側──空に舞うハヤブサとの関係──に求められた。だが、本作においてローチは、垂直軸を水平軸へと転倒させる。マラは地を走る。TJもまた地を歩く。二人を結ぶのは、もはや超越への憧れではなく、同じ地平にいる者同士の伴侶性だ。そしてその水平の伴侶性を、同じ水平面上にいる別の犬が、偶然の暴力によって断ち切る。ここには、ローチが60年のキャリアの果てに辿り着いた認識があるように思える──希望はもはや垂直=超越にはなく、水平の連帯にしかない。しかし、その水平の連帯は、同じ水平面上の偶発的暴力によって常に脅かされている。

© Sixteen Oak Limited, Why Not Productions, Goodfellas, Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2023
三本足の犬たち ── 苦しみを和らげる存在の系譜
『ルート・アイリッシュ』において、ローチはこう語っている。「ときには編集で切られてしまったけれど、我々の映画にはいつも三本足の犬がいた」。前作に続いて2本の映画で連続して、撮影現場に偶然、三本足の犬が現れた。それを彼は「幸運の印」と受けとめた。以後、三本足の犬たちは『麦の穂をゆらす風』、『ルート・アイリッシュ』、『わたしは、ダニエル・ブレイク』、『家族を想うとき』へと継承されていく。これは単なる演出上の工夫ではない。
炭鉱閉山後の荒廃した町、福祉システムに殺される老人、ギグ・エコノミーに引き裂かれる家族──これらの苦しみをどう見せるか。ローチは犬を画面に入れることで、観客が苦しみのなかにも生命の継続を見ることを可能にする。三本足でありながら、歩こうとする犬。欠けた身体でありながら、生きようとする生。それはダニエルやターナー家の肖像の傍らに置かれることで、彼らの尊厳を裏書きする。
『わたしは、ダニエル・ブレイク』でもっとも記憶に残る場面は、ダニエルの弔辞として読み上げられる遺言の一節だ。不服申立の審判に向かうためにダニエルが鉛筆で書き残し、急逝後にケイティが貧困者用葬儀で朗読する言葉だ。「私の名はダニエル・ブレイク。私は犬ではない、人間だ。だからこそ、私は私の権利を要求する。私を敬意をもって扱うことを要求する。私、ダニエル・ブレイクは一市民だ。それ以上でも、それ以下でもない」。
ここで「犬」は、「人間以下に扱われる者」の比喩として召喚される。福祉システムがダニエルを扱った仕方は、人間に対する扱いではなかった。彼は書類に還元され、番号に還元され、カテゴリーに還元された。その非人間化への抗議の言葉として、ダニエルは「私は犬ではない」と叫ぶ。しかし、注意深く見なければならない。ダニエルのこの台詞は、犬を貶める発言ではない。むしろ、「犬」という言葉が「人間以下に扱われる者」の代名詞として社会のなかで機能してきたことを、逆説的に告発する発言である。なぜ「犬」が卑しさの代名詞になるのか。それは、人間が犬を卑しく扱ってきたからだ。犬の卑しさは、人間が犬に対して持つ関係のあり方そのものの投影である。
ダニエルが「私は犬ではない、人間だ」と言うとき、彼は「人間ならば人間的に扱われるはずだ」という素朴な同胞愛(fraternity)に訴えている。しかし冒頭のジョン・バージャーによる言葉が示すように、「同胞愛という言葉はあまりに安易」だ。人間が同じ人間を犬のように扱う──カインとアベル以来、それが人間の歴史の半面である。だからこそ、ダニエルの弔辞と並置される三本足の犬は、奇妙な希望の形をとる。欠けている。不完全である。しかし生きている。歩いている。傷ついたまま、それでも前に進む。それがダニエルの生そのものの隠喩となるのだ。
ローチ作品における三本足の犬たちは、完全性の要求を拒否する生の形象だ。健康な四本足の犬ではない。しかしその不完全さのなかに、自分の生を続けている。それは新自由主義が要求する「自己責任」「健常性」「生産性」のイデオロギーに対する、沈黙の、しかし頑強な抵抗である。
『わたしは、ダニエル・ブレイク』予告編
マラという名の犬 ──「仲間」を名乗る伴侶として
そして、本作のマラが現れる。「仲間」を名乗るこの犬の登場の仕方が重要だ。TJは浜辺で「長い水泳」──つまり自殺を試みようとしていた。その瞬間、砂浜に黒い小犬が現れる。迷子だったのか、捨てられていたのか、映画は説明しない。しかしその犬がTJの命を繋ぎとめた。三本足の犬が「苦しみを和らげる」存在だったとすれば、マラは「生を繋ぎとめる」存在だ。和らげるのと繋ぎとめるのは違う。和らげるのは外側からの作用であり、繋ぎとめるのは生そのものへの関与である。犬はもはや苦しみの周辺に置かれる緩衝材ではない。生そのものの核心に位置する存在だ。
そしてその犬に、「marra(仲間)」という名が与えられる。炭鉱夫たちが坑道の中で互いに命を預け合った関係を指す言葉。ダラム州やタインサイド地方の、深い歴史を持つ方言だ。1984年のストライキの敗北以降、その関係は静かに死んでいった。労働組合は弱体化した。ローチがパンフレットのインタビューで語るように、歴史は「『自分第一』『社会など存在しない』という、起業家崇拝とも言える意識の変容が、古い価値観を押し流した」。その失われた共同体の記憶を、TJは一匹の犬の名として守り続けている。
そして映画の中盤、マラは死ぬ。TJが両親の墓が並ぶ丘を散歩しているときに。リードなしで走っていたマラは、林のなかで別の大型犬と出会う。その犬もリードなしだった。飼い主の若者たちは懸命に制御しようとしたが、間に合わない。大型犬は本能に従い、マラを嚙み殺した。そこに悪意はなかった。二つの「自由」が同じ場所にあってしまったというだけの偶然だ。しかしローチがこの死を、両親が眠る墓地で起こしたことは偶然ではない。1984年のストライキで戦い、敗北の後に失業し、あるいは炭鉱の事故で命を落とした者たちの名前が、石に刻まれた丘。TJはマラとその場所を歩くとき、独りだった。そしてその静けさのなかで、死者たちの声を聴いていた。マラがそこで死んだことは、TJにとってその聴こえていた声が突然断ち切られることを意味する。
同種が同種を殺す。この「犬」の比喩は、本作の主題──炭鉱夫の子孫たちが難民たちを憎む構造──を、動物の身体のなかで縮図化する。同じ英国北東部で生まれ、同じ緊縮財政に苦しみ、同じ貧困と疎外を経験した人々が、より剥奪された難民たちを憎む。剥奪された者が、より剥奪された者を踏みにじる。これこそが、カインとアベルの論理である。バージャーが「同胞愛は安易な言葉だ」と書いたのも、まさにこのためだ。兄弟だからといって、殺さないわけではない。むしろ同じ地平にいる者たちこそが、互いを傷つけあう。内戦や革命を舞台にした『大地と自由』(1995)、『麦の穂を揺らす風』、『ジミー、野を駆ける伝説』(2014)など、ローチは外部の敵との闘争よりもむしろ「本来同じ側に立つはずの者たち」が引き裂かれ、刃を向け合う構図を繰り返し描いてきた。本作はこの構造を、二匹の犬による「偶然の出会い」として描いたといえる。

© Sixteen Oak Limited, Why Not Productions, Goodfellas, Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2023


