断絶の時光と、戻れない親子の時間

中国語で、「青春時代」とか「私が若かった頃」というときの“時”には、“時光”という言葉のニュアンスがありますが、“時光”という言葉には「当時から今までの時間の経過」と、「その頃の空間」というふたつの要素が含まれています。

⸻ホウ・シャオシェン(『百年の恋歌⸻侯孝賢』)

「時光」。その言葉は、時間と空間の両方を抱えた、ホウ・シャオシェン作品の根幹に流れる美しい概念である。彼の映画は、この「時光」を映し続けてきた。長回しと静謐な画面の中で、過去が現在へゆっくりと流れ込み、痛みさえも郷愁として沈殿する。そこでは人生の傷は記憶と溶け合い、空気のようにやわらかく回帰可能なものとして映し出される。しかしスー・チーによる初監督作品『女の子』において、この「時光」はまったく別の表情を帯びている。

画像: 断絶の時光と、戻れない親子の時間

「断絶」として訪れる光景

スー・チーは脚本を書きながら、過去が「連続する物語」としてではなく、ある瞬間、唐突に立ち上がる「光景」として現れたと語っている。その光景はノスタルジーや癒しではなく、ふいに彼女の意識に差し込む鋭い痛みの断片であった。だからこそ、彼女は過去を「自分の痛み」として描こうとはしていない。むしろ、かつての自分と母親を「他者」として想像し直す。俳優として培った「他者の痛み」を自分の内部に置くが、同一化はしないという倫理を、彼女は監督になっても貫いたとはいえないだろうか。痛みは痛みのまま、断絶として残しておく必要があったのだ。

スー・チーはホウ・シャオシェンに導かれ、俳優に自由を与える演出、語りすぎない倫理、生活の息遣いを捉えるカメラを学んだ。しかし、「時光」の持続がもたらす甘美さや寂寥だけは継承しなかった。なぜなら、彼女の記憶は持続によって美しく包み込まれうるものではなく、むしろ持続を拒むほど切実なものだったからである。ホウ・シャオシェンの時光が「流れ続ける時間」としてもう一つの現実を形成するものだとすれば、スー・チーの時光は「つながらない時間」であり、それは断絶と欠落の形でしか姿を持てない。だから『女の子』は、長回しよりも断片、沈殿よりも飛躍、郷愁よりも裂け目によって構成されている。その断裂は、例えばクローゼットに身を隠した娘シャオリーに襲いかかる父親の暴力のようにして、突発的に現れるものだ。

画像1: 「断絶」として訪れる光景
画像2: 「断絶」として訪れる光景

夜雨と晴天──断裂のあとに訪れる転調

終盤、夜雨の中で母と娘シャオリーの別れが描かれる。父の事故という突然の暴力が同時に起こり、シャオリーと家族の時間はそこで完全に切断される。そして次の瞬間、映画は何事もなかったように晴天を映し出す。この青空は祝福ではない。むしろ、少女が過去の時間から強制的に断ち切られる痛みと解放の光である。シャオリーは自由を得たのではなく、過去の持続が突然失われた結果として、別の光の下に立たされる。スー・チーが描く光は癒しではなく、断裂のあとに立ち尽くす光なのだ。

夜雨と晴天という断絶の後、映画は成長したシャオリーと母の再会へと静かに移る。最後に至って、スー・チーの時間はわずかに持続する。しかしその持続は和解のためではなく、戻れない年月を静かに照らし出すための持続である。母が差し出した麺線(ミスア)を啜りながら、シャオリーは涙を流す。その涙は親子の距離を埋めるものではなく、涙が続けば続くほど、二人の間にある埋めがたい溝がよりはっきりと姿を現す。ホウ・シャオシェンの「時光」は痛みをやさしく包み、過去を現在へと連れ戻す持続の時間だった。だがスー・チーの「時光」は、その持続がかえって受けた痛みの不可逆性を明瞭にしてしまう時間なのである。ここに、ふたりの映画作家の決定的な差異がある。

『女の子』は、断絶によって形づくられた映画だ。だがその断絶は絶望ではない。むしろ、過去に回帰できない者が他者の痛みを想像しながら、それでも現在を生きるための新しい「時光」として静かに差し出されている。ホウ・シャオシェンが「時光」を持続の美学として映したのに対し、スー・チーは「時光」を断絶の倫理として映した。記憶は途切れ、光は何度も裂ける。それでも、わずかな持続の中で涙を流すシャオリーと母の姿は、確かにひとつの時間を共有している。その時間は和解ではなく、救いでもない。ただ「ここにいる」というだけの、しかし限りなく切ない、スー・チーだけの「時光」である。そしてこの「時光」こそ、彼女が初めて監督として世界に置いた、唯一無二の光のかたちなのだ。

『女の子(女孩)』予告編

画像: - YouTube youtu.be

- YouTube

youtu.be

作品解説

内向的な少女シャオリーが、自由奔放な同級生リリーとの出会いを通じて、抑圧された生活から抜け出し、自分自身の人生を模索し始める姿を描く。シャオリーは、母から受け継がれた悲しみと、自由への強い願いとの間で葛藤しながら成長していく。

俳優として国際的に知られるスー・チー(舒淇)が、長編映画監督としての第一歩を踏み出したデビュー作『女の子(女孩)』は、1980年代末の台湾・基隆を舞台に、家庭内の葛藤と成長の痛みを抱える少女シャオリーの日常を描く。物語の中心にあるのは、家庭のなかで愛情を求めながらも、母との複雑な関係や父の暴力に揺さぶられる少女の姿である。彼女は、出会ってほどなく親友となるリリーとの交遊や小さな冒険を通して、閉ざされた世界にかすかな光を見出していく。

本作は、スー・チー自身の幼少期の経験や、当時抱えていた感情や記憶を出発点としながらも、それらを直接的に語るのではなく、ひとつの物語として編み直すことで形づくられている。劇的な展開を強調するのではなく、記憶の綾や心の微細な揺らぎに静かに寄り添うその語り口は、映画全体の佇まいを決定づけている。

カメラの繊細な動きや余白を生かしたフレーミングには、ホウ・シャオシェン(侯孝賢)をはじめとする台湾ニューシネマの影響が色濃く感じられる一方で、映画という表現媒体への深い理解と誠実な眼差しに裏打ちされた作家としての意志もはっきりと伝わってくる。本作はベネチア映画祭コンペティション部門でワールドプレミアを迎え、翌月の釜山国際映画祭では最優秀監督賞を受賞した。

台湾 / 2025 / 125分
監督:スー・チー(SHU Qi)

画像: 作品解説

This article is a sponsored article by
''.