FRAME #4:
緊急投稿 コロナ禍で映画の公共性を考える
社会を映画というフレームで切り取ろうというこの連載エッセイ。
今回は緊急論考として、コロナ禍で世界各国における映画への支援状況、そこから炙り出される<映画の公共性>について考えてみたい。
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いま新型コロナウィルスにより、世界で感染者数は300万人を超え、死者数は21万人を超えた。(4月28日現在)各国政府が様々な救済・支援策を打ち出している中、美術・演劇・舞台・音楽・映画などの文化芸術分野でも危機感が高まっている。休館や展覧会・イベントの中止によって、アーティストやスタッフの収入が途絶え、また映画館を含む文化施設の維持費も厳しくなってきているからである。
「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ。特に今は」と文化相が断言したドイツは、手厚い保護を打ち出した。連邦政府が決定した7500億ユーロ(約90兆円)規模の財政出動のなかには、零細企業・自営業者(芸術や文化の領域も対象に含む)に対しては500億ユーロ(約6兆円)が含まれる。助成金(3ヶ月で上限9000〜15000ユーロ)や融資(30000ユーロ以上)といったかたちで当座の資金を提供するに加え、個人の生活維持のために100億ユーロを支援し、各種のイベントやプロジェクトが中止になった場合でも助成金の返還は可能な限り求めないとしている。(※)
フランスでは、文化省が第一弾緊急支援策として3月18日に2200万ユーロ(約26億円)の拠出を決定した。映画関係では、映画館入場料税(映画支援の財源)の支払いを猶予し、音楽では不安定な立場のプロフェッショナルに向けられた支援基金(当初予算1000万ユーロ)を創設。舞台芸術では雇用の維持に配慮し、民間劇場に対して500万ユーロ(約6億円)の緊急支援を実施する。
イギリスでは、アーツカウンシル・イングランドが1.6億ポンド(約216億円)の緊急支出を決定。内訳は、フリーランスを含む個人向けが2000万ポンド(1人当たり最大2500ポンド=約34万円)で、ナショナル・ポートフォリオ助成団体向けには9000万ポンド(約122億円)、それ以外の団体には5000万ポンド(約68億円)となっている。
一方、日本では支援策が政府・各省庁で検討段階であり、しかしすでに様々な問題が表面化している。現在(4月下旬)は補正予算づくりの最終段階である。経産省が打ち出した中小企業支援のための「持続化給付金」(上限200万円、個人事業主は100万円)は、もっとも広範囲をカバーするものなのだが、3月から自粛・休業を強いられ、これから5月、6月も回復の見込めない博物館やライブハウス、映画館には、あまりにも少額過ぎる。さらに文化庁は、補正予算案の中に対策費61億円を計上した。だが、残念なことに現場のニーズと全く合わないトンチンカンな内容なのだ。会場にサーモグラフィなどを導入するための「感染症対策支援」で21億、アートキャラバンといって、自粛後再開期に開くイベントへの支援16億(単発のイベント対象。継続支援ではない)などなのだが、家賃も払えない、スタッフの給料も払えない状態でアートキャラバンも、サーモグラフィもない。最も必要なのは使い勝手の良い「真水」なのだ。文化芸術の現場を、とりあえず今の収入ゼロの青色吐息を生き長らえさせる休業補償こそ、最も本質的な支援であり、他の付属的な事業に予算を使っている場合ではないのである。
東京都でいえば「文化芸術活動の幅広い支援 5億円」を打ち出した(4月18日)のだが、それは「活動を自粛せざるを得ないプロのアーティストやスタッフ等が制作した作品をWeb上に掲載・発信する機会を設ける」事業。全く幅広くない。なぜアーティストがサバイバルを賭けている時に、その事業に限定されなければならないのか?
文化庁も東京都も、支援目的を必要以上に具体化して、支援金の使い勝手を非常に悪くするという愚を犯している。今は、アーティストや団体・施設の生命維持にだけ注力すべき状況であり、自由度の高い現金給付こそが本当の支援なのである。
映画界いえば、最も危機に瀕しているといってよい小規模映画館・ミニシアターを救わねばならぬと多くの映画人が動き出した。ご存知の方も多い、SAVE THE CINEMA というムーブメントである。コミュニティシネマ(岩崎ゆう子事務局長)とユーロスペースの北條誠人氏、諏訪敦彦監督、井上純一監督、馬奈木厳太郎弁護士、西原孝至監督、佐伯俊道(シナリオ作家協会)、小林三四郎(配給会社太秦)、白石和彌監督、上村奈帆監督をはじめとする若手映画人にグループ、深田晃司・土屋豊両代表と私・舩橋の独立映画鍋など(※他にも多くの映画の作り手、上映者、関係者を含む)が中心になり、緩やかな連帯する組織として、4月上旬より署名活動を展開した。4月14日までにおよそ67000筆が集まり、それと要請文を15日に4省庁(内閣府、経産省、厚労省、文化庁)に提出した。逢坂誠ニ、山添拓など5議員が同行してくれ、主に二点①逼迫した今のミニシアターへの救済策、②収束後復興期の支援策を要請したのだった。
すぐに具体的な政策をお答えはできないが、前向きに検討したいという言葉を各省庁よりもらった。無論、署名提出だけで終わらせるつもりは毛頭なく、フォローアップして具体的なミニシアター救済策に繋げたいと、SAVE the CINEMAの仲間とも話している。
請願行動のあとは、オンライン記者会見を開催した。それは様々な場所で報じられたが(※2)、最後にクローズドで立憲民主党の枝野幸男代表、福山哲郎幹事長とビデオ会談を行った。立憲民主党や芸術文化議員連盟(枝野氏が副会長)から文化庁などに具体的に働きかけることを約束して頂いた。いままでミニシアター業界では皆無に等しかったロビー活動を、SAVE the CINEMAが進めようとしている。
国への要請を行なう一方で、姉妹プログラムのクラウドファンディング Mini Theater Aid は、なんと開始3日足らずで1億円の目標を達成した。現在もストレッチゴール3億円を再設定し、破竹の勢いで支援が集まっている。(4月28日現在、2億円を突破)参加登録しているのは93団体110劇場で、見事3億円を突破すれば各団体に320万円の一時金が配布されることになる。人生で映画に世話になった分だ、と驚くような多額を寄付した俳優もいたり、映画ファンも関係者も雪崩を打つように映画への愛情を表明している様には、感動を禁じえない。
ここで確認しておきたい大切なことは、今回のアクションがあくまで緊急措置であるということである。
背景には、世界各国ではごく普通にある文化施設としてのミニシアターへの公的支援制度を設けてこなかった国と、我々映画人の責任がある。
世界を見渡しても、映画館でこれほど多様な映画を見られるのはフランス、日本、アメリカぐらいである。ワン・ビンの8時間ドキュメンタリーを上映したり、本国ポルトガルよりも網羅的なオリヴェイラ・レトロスペクティブを企画したり、旧ソ連とグルジア映画の特集を組んだり、東南アジアの見知らぬ新鋭作家のデビュー作を紹介したりなど、本当に意欲と愛情をもってでしか支えられぬ稀有な存在として、我が国のミニシアター文化がある。
その多くは、ミニシアター側の自助努力で支えられてきた。ほとんどそれのみといってもよいだろう。プログラムづくりから、配給会社との交渉、フィルムの配送手配、チケットもぎり、映写操作まですべて館主一人でやっている「ワンオペ」館も全国には少なくない。しかし、綱渡り経営の零細映画館を公的支援でなんと安定させようという取り組みはなく、文化庁も映画館に対する助成はしてこなかった。社会がミニシアターを支えるシステムを構築してこなかったツケが、いま突然襲いかかってきたのである。
この原因を考えたい。なぜか。まずは日本の文化予算の少なさから語らねばならない。
世界的に文化大国と言っても良いフランスや韓国の芸術文化関連予算は、4,238億円、2,525億円。それに対し、日本は1040億円だ。国家の規模がちがうので、国家予算に占める割合を比較すると、0.89%, 1.09%, 0.10%である。産業大国ドイツでも0.43%あり、一方、文化支援という考えが希薄なアメリカは0.04%。つまり日本は世界的に見れば、アメリカに近い経済・産業主導型で、文化政策はとても薄弱な国だと言える。
映画に関していうと、この薄弱さが如実に影響しており、まず映画作品が商品なのか、アートなのか、広い共通認識を欠いた状態で放置されてきた。4月7日発表に文化庁が発表した「新型コロナウィルスの影響を受ける文化芸術関係者への支援」では、劇場、音楽堂、博物館が対象に含まれているが、映画館はなぜか除外されている。映画館は「商業施設」とみなされ、経産省管轄の「持続化給付金」(前述)に応募するしかない。といっても、この給付金200万円では全く足りるわけがなく、小規模と言っても不動産としては大きい映画館が収入ゼロの中、家賃とスタッフ人件費を払い続けるのは困難を極める。渋谷・吉祥寺・京都にあるミニシアターUPLINKは、一ヶ月の家賃にすら満たないと悲鳴を上げた。
文化庁は映画製作資金や上映イベント事業への資金援助を長年継続してきた。しかし、今コロナ禍にあって、霞が関の縦割りの影響なのか、「いつもは支援を受ける映画が、今回は除外される」というねじれ現象が起きている。
SAVE the CINEMAやSAVE OUR LOCAL CINEMAS (関西の映画館支援運動)は、経産省の給付金の拡大を訴えつつ、文化庁にも小規模映画館への支援を求めている。
まだ政治の世界と社会一般において、映画を娯楽(=商品)として分類する傾向がある。しかし、そうではないアート作品、ドキュメンタリーも沢山存在し、それらを支えてきたのがミニシアターであることは多くの人間が知っている。そんな映画は、日本のさまざまな地域に多様な文化芸術体験を提供し、憲法の謳う「最低限度の文化的な生活」を支える重要な存在となってきた。
そのようなミニシアター映画の文化的価値を、この危機を機会にはっきりと定義し、いつの日か通常運転となったときにも、「非商業的なアートとしての映画」が社会で広く認知されるようになるべきである。このCinefilを読む多くの読者は、そんなの当たり前と思われるかもしないが、実社会は驚くほどこれが曖昧であり、その曖昧さがミニシアターの首を締めてきた、というウェイクアップコールを鳴らしたいのだ。
私も所属するNPO法人独立映画鍋では、映画の公共性について継続的に議論をしてきた。ピエール瀧氏の麻薬取締法違反の有罪判決に端を発した「宮本から君へ」(真利子哲也監督)への助成金不交付問題では、文化庁所管の独立行政法人・日本芸術文化振興会は「公益性の観点」から、助成金を取り消した。さらに交付要綱を改定し、今後「公益性の観点」で適当でなければ、助成金が降りないという縛りが追加された。
この映画における「公益性」とは何か?「国益」と混同されていないか?そもそも映画が、なにかしら「市民のためになる=公益」の必要があるだろうか。ではエログロ・ナンセンスはダメなのか?ラス・メイヤーは映画ではないのか?鈴木清順は?むしろ頽廃こそ映画を歴史的に輝かせてきたものではないのかーーーと、表現の自由をめぐる本質的な議論になったのだが、そこで見えてきたのが、公益性はおくとしても、少数派の意見や表現を反映した映画の多様性こそが、公共的な価値があるということだった。公益性ではなく、公共性。これこそが民主主義社会が、表現の自由として保障すべき理念だろうということだった。公共性があるからこそ、国民の血税をもって支えられねばならない、と。
前述のドイツ文化相モニカ・グリュッタースは、アーティストを「生命維持に必要」と表現した。ミニシアター映画の、非商業的・芸術的価値は、我が国の豊かな文化状況としてなくてはならないものなのだ。映画も、音楽も、演劇もない生活は無味乾燥きわまりない。近代民主社会において文化芸術は、水、電気、ガス同様、我々が生きてゆくうえで必要不可欠な社会インフラであることを認めようではないか。だからこそ「不要不急」は否定されるこのご時世にあって、その価値を再確認したいのである。
SAVE the CINEMAは、文化庁に対し、シネコン以外の日本の映画館景240館をミニシアターと定義し、緊急支援策を要請した。館数で言えば全体の約4割、スクリーン数で言えば全体の約1割のミニシアターが、<文化芸術施設>の一員として、博物館、音楽堂、劇場とともに認知されるのか。第一次補正予算案が成立・施行される5月には明らかになるだろう。
このムーブメントは、ミニシアター映画の公共性を社会で広く認知させるべき機会である。我々はいま、アメリカ的産業支配構造の中で、フランス的な文化サポートを打ち立てる分岐点に立っている。それこそ、日本独自の<アートハウス>を日本映画史上初めて、定義づけることになる。
そう、時は熟している。
※1 美術手帖参照
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/21598
WRITER:
舩橋淳
映画作家。東京大学卒業後、ニューヨークで映画制作を学ぶ。『echoes』(2001年)から『BIG RIVER』(2006年)『桜並木の満開の下に』(2013年)などの劇映画、『フタバから遠く離れて』(2012年)『道頓堀よ、泣かせてくれ!DOCUMENTARY of NMB48』(2016年)などのドキュメンタリーまで幅広く発表。日本人監督としてポルトガル・アメリカとの初の国際共同制作『ポルトの恋人たち 時の記憶』(主演・柄本祐、アナ・モレイラ)は、2018年度キネマ旬報主演男優賞(柄本祐)に輝く。現在、日本のジェンダーバランスを問い直す新作「ささいなこだわり」を制作中。
オフィシャルサイト:http://www.atsushifunahashi.com
※カバー写真 アッバス・キアロスタミ監督の遺作『24フレーム』より