ブニュエル最大のヒット作『昼顔』(1967)
若夫婦を乗せた馬車が森の中に真っすぐと延びる道を進んでいく。カトリーヌ・ドヌーヴとジャン・ソレル演じる夫婦の間で取り交わされる幸せに満ちた仲睦まじい会話からは2人は新婚旅行の途上のようにも見えるが、ちょっとした諍いから夫は馭者に命じていやがる妻をむりやり馬車から引きずり下ろしてしまう。森の中を引きずられ木の枝から吊り下ろされたロープに両手首を縛りつけられた彼女はやはり夫に命じられた馭者たちによってむち打ちたれそして凌辱される……。このようにショッキングな映像を立て続けに見せることで『シェルブールの雨傘』などでのドヌーヴの可憐なイメージをサディスティックに破壊してしまうブニュエルの演出に、観る者はまず度肝を抜かれる。
二人の諍いはドヌーヴ演じるセヴリーヌの不感症の話題がもとで起こったものだが、彼女は友人から聞いた噂話などから興味を抱いて訪れた娼館で医師の夫が家を留守にする平日の「昼間だけ」客を取りやがて性の快楽に目覚めていく。冒頭の凌辱シーンは実はセヴリーヌの幻想なのだけれど、この映画ではほかにも彼女の幻想シーンが用意されていて、娼館でのさまざまな客とのやり取りとともにこの映画の見せ場となっている(客の一人で、不気味なオーラを放つピエール・クレマンティは重要な役回りをつとめることになる)。
セヴリーヌの潜在的な欲望や怖れを表す幻想シーンは精神分析あるいはシュールレアリスム的なアプローチを“誰にでもわかるように図解した”映像とでもいえそうなものだが、いずれも観る者に鮮烈な印象を与える(夫のピエールがる病院の前に置かれた車椅子に「なぜだか」見入ってしまい自らの未来を無意識のうちに予知するシーンも精神分析あるいはシュールレアリスムからの影響圏内にあることをうかがわせる)。
若夫婦の住居はモンソー公園東南のメシーヌ通りに立つアパルトマンの3階。1階コーナーの木の葉をまとった壁面装飾が印象的で、繊細さと堅牢さの印象をあわせもつこの建物の二面性がセヴリーヌの妻と娼婦の二重生活を暗示しているかのようだ。彼女が「昼顔」の名で客を取る娼館の入る建物は、高級アパルトマンの並ぶこの界隈とは対照的な、サンテ刑務所のすぐ東側の雑然とした通りに面して立っている。
並走する3つの物語『死刑台のエレベーター』(1958)
この映画の主要な舞台のひとつとなる建物はモンソー公園南側のクルセル通りとオスマン通りがぶつかる交差点の南西側に立つが、現在では外観が大幅に変更されている。元は水平に連なる窓を貫くように縦のラインを施した壁面デザインで無機質な表情が特徴の建物だったが、その基本的なつくりをベースとしつつもポストモダンの味付けのなされたものとなっている。
原題も「死刑台へと向かうエレベーター(Ascenseur pour l'échafaud)」と邦題とほぼ同じだが、この建物のエレベーターに閉じ込められたジュリアン・タヴェルニエ(モーリス・ロネ)を中心として物語が進むのかというとそうではない。この映画が単独では初の監督作品となるルイ・マルはこのジュリアンの物語にさらに2つの物語を巧みに並行させて語っていくのである。
いっぽうはジュリアンの車を盗んでたどり着いたモーテルで殺人を犯す若いカップルの物語、もういっぽうは自分たち2人のために殺人をおかした愛人のジュリアンが自分の元へと現れるのを待つフロランス・カララ(ジャンヌ・モロー)の物語だ。フロランスは夜のパリの街をロネの彼の姿を求めながら彷徨する――ジュリアンが閉じ込められた建物からシャン=ゼリゼまで。
このジャンヌ・モローが素晴らしい。時に神々しいまでの表情を湛え時に放心のあまり亡霊のような姿を見せて夜の闇の中を当てどなくさまようのだ。モローの長い女優キャリアの中でも特に強い印象を残すシーンが続く。
撮影はアンリ・ドカ。このあとシャブロル『いとこ同志』やトリュフォー『大人は判ってくれない』を撮ってヌーヴェル・ヴァーグを盛り立てることになるドカは、高感度フィルムと手持ちカメラの機動性を駆使してパリの夜の姿を生々しくとらえている。パリへと逃げ帰った若いカップルがエッフェル塔の西側にあり15区(左岸)と16区(右岸)を結ぶビル・アケム橋で車を乗り捨てるが、この時の早朝のパリの空気感もよくとらえられていて朝の冷気がこちらに直に伝わってくるようだ。
ドカのカメラとともにこの映画で銘記すべきはマイルス・デイヴィスの音楽だ。暗くも熱い情念をぐっと内へとしまい込んだようなこの映画の空気感を映像とともにつくり出したマイルスの名演奏はラッシュフィルムを観ながら即興で録音されたもの。
愛人関係のロネとモローはこの映画ではいちども会えずじまいだが、5年後に同じルイ・マルによって撮られた『鬼火』ではこの2人が久しぶりの再会を果たすといった趣もあり感慨深い。
ロメール初期の奇跡の物語『モンソーのパン屋の女の子』(1963)
21歳のトリュフォーが「フランス映画のある種の傾向」と題した文章で前の世代の作家たちの気取った文学趣味を激越な調子で告発したのが1954年。トリュフォーはその5年後に『大人は判ってくれない』で長編デビューしゴダールやロメールらとともに映画の世界を大胆に更新していくが、彼らヌーヴェル・ヴァーグの作家たちの作品と前世代との違いは都市への視線にもはっきりと現れている。トリュフォーらの作品には、その時代とともに舞台となった地区や場所々々の空気感が生々しくとらえられているのだ。
パリの北西部に位置するモンソー公園から東に数百m離れたエリアを舞台としたエリック・ロメールの1963年のこの短篇映画は、中でもこの空気感をとらえている点で突出している。冒頭でサクレ・クール寺院を正面にとらえたカメラがズームアウトして映し出すのはメトロのヴィリエ駅のある交差点だ。ナレーションがいくつもの通りの名を挙げていくのと同時にカメラはドキュメンタリータッチでそれらの通りを次々にとらえて界隈の空気感を忠実に伝えていく。
物語は主人公が通りでよく見かけるシルヴィーという名の若い女性の姿を探し求めて街をさまようという他愛のないものだが、このエリアの生々しい空気感の中で陳腐な物語が生気を帯びて主人公とともにわれわれもシルヴィーの不在を感じ取りその姿を探し求めるようになる。そしてラストにはロメール映画ではおなじみの奇跡の瞬間がやってくる。前触れなく2人に不意に訪れるこの奇跡が、まさに映画の奇跡ともなって心を打つのは、こうした街のリアルな空気感があってこそのことだろう。
内野正樹
エディター、ライター。建築および映画・思想・文学・芸術などのジャンルの編集・執筆のほか写真撮影も行っている。雑誌『建築文化』で、ル・コルビュジエ、ミースら巨匠の全冊特集を企画・編集するほか、「映画100年の誘惑」「パリ、ふたたび」「ヴァルター・ベンヤミンと建築・都市」「ドゥルーズの思想と建築・都市」などの特集も手がける。同誌編集長を経て、『DETAIL JAPAN』を創刊。同誌増刊号で『映画の発見!』を企画・編集。現在、ecrimageを主宰。著書=『パリ建築散歩』『大人の「ローマ散歩」』。共著=『表参道を歩いてわかる現代建築』ほか