セーヌに向かってさらに北上

パリ大学ソルボンヌ校の西側を通るソルボンヌ通りを北上するとエコール通りにぶつかる。この交差点からはクリュニー中世美術館が正面に見える。この美術館は元は中世に絶大な影響力を誇った修道会の院長の宿舎で、現在はタピストリー《貴婦人と一角獣》(15世紀末)ほか中世のものを中心に2万数千点を所蔵している。この西側にはローマ時代のテルム(共同浴場)跡があり、通りからもそのかなりの部分を目にすることができる。

交差点から東に300mほど歩いてから左折すると右に『静かなふたり』の舞台となった「緑の麦」書店がある。「静かな2人の時間が流れるにふさわしい」とでも表現したくなるような地味な通りだが、隣には感じのいいレストランもある。この通りからサン=ジェルマン通りまで出て1本入った道のコーナー部分はトリュフォー『逃げ去る恋』(1979)でアントワーヌ・ドワネル(ジャン=ピエール・レオー)の彼女、サビーヌ(ドロテ)がつとめるレコード店があった場所だ。

公園越しにクリュニー中世美術館を見る。建物の裏手の一角には中世に使われていた薬草や野菜を育てる庭がある。この手前の公園もそれと関連したものかもしれない。この建物の左(西)側にテルム跡がある。

画像: テルム(共同浴場)跡。アレーヌ(円形劇場兼闘技場)とともにパリに残る古代期最大の遺跡。

テルム(共同浴場)跡。アレーヌ(円形劇場兼闘技場)とともにパリに残る古代期最大の遺跡。

画像: 『大人はわかってくれない』に始まるジャン=ピエール・レオー主演のいわゆるアントワーヌ・ドワネル物の掉尾を飾る『逃げ去る恋』ではドワネルの彼女、サビーヌがつとめるレコード店が奥の右側コーナーにあるという設定。

『大人はわかってくれない』に始まるジャン=ピエール・レオー主演のいわゆるアントワーヌ・ドワネル物の掉尾を飾る『逃げ去る恋』ではドワネルの彼女、サビーヌがつとめるレコード店が奥の右側コーナーにあるという設定。

さらにセーヌに向かって北上すると『ビフォア・サンセット』(2004)に登場するガランド通りがある。両側から建物の迫る狭くて曲がったこの通りは中世の街の趣を今に伝える。続けて北へ足を延ばすと同じ『ビフォア・サンセット』で主演の2人(イーサン・ホークとジュリー・デルピー)が久々の再会を果たすシェークスピア・アンド・カンパニーという書店がある。

以前はオデオン通りにあったこの書店は、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(1922)の版元として知られ、ヘミングウェイらロスト・ジェネレーションの作家らが訪れた。現在の場所に移ってからもバロウズやギンズバーグ、ヘンリー・ミラーといった作家がよく訪れたという。観光名所になっているようで観光客がひっきりなしに訪れ店をバックに記念撮影をしている。店内は撮影禁止だが、『ビフォア・サンセット』では6分超と比較的長いシーンが撮られているので、中の様子をじっくりと眺めることができる。『ミッドナイト・イン・パリ』には主人公のギルがこの書店から出てくるショットがある。小説家を志す人間としては必ず訪れるべき聖地ということなのだろう。

中世の時代と変わらずに狭くて曲がったガランド通り。『ビフォア・サンセット』のイーサン・ホークとジュリー・デルピーの2人はこの通りの奥から手前側に向かって歩く。

画像: 左がサン=ジュリアン=ル=ポーヴル教会。この通りの奥にガランド通りへの入口がある。

左がサン=ジュリアン=ル=ポーヴル教会。この通りの奥にガランド通りへの入口がある。

画像: いつも観光客で賑わうシェークスピア・アンド・カンパニー前。店で本を購入すると中に店のスタンプを押してくれる。

いつも観光客で賑わうシェークスピア・アンド・カンパニー前。店で本を購入すると中に店のスタンプを押してくれる。

ジャック・ベッケルの『七月のランデヴー』(1949)ではこの書店と隣の公園の間の通りを走り抜けた後、ポン・デ・ザールの近くからそのまま水陸両用車でセーヌに入って向こう岸へと渡るシーンが見られる。このルネ・ヴィヴィアーニ公園には12世紀建立のサン=ジュリアン=ル=ポーヴル教会がある。外観はロマネスク様式。公園からのノートルダムの眺めは素晴らしくおすすめの撮影ポイントであったが修復中のため残念ながら下の写真と同様の眺めは現在味わうことができない。

画像: 『ビフォア・サンセット』の2人はこの通りを左手に折れてすぐの場所にあるシェークスピア・アンド・カンパニーを出てからガランド通り(手前側の奥にある)へと歩いていく。

『ビフォア・サンセット』の2人はこの通りを左手に折れてすぐの場所にあるシェークスピア・アンド・カンパニーを出てからガランド通り(手前側の奥にある)へと歩いていく。

画像: シェークスピア・アンド・カンパニーの東側にあるルネ・ヴィヴィアーニ公園からの眺め。ノートルダムが修復中のため当分の間この素晴らしい眺めは味わうことができない。

シェークスピア・アンド・カンパニーの東側にあるルネ・ヴィヴィアーニ公園からの眺め。ノートルダムが修復中のため当分の間この素晴らしい眺めは味わうことができない。

河岸を東へ進む

ノートルダムの南側に位置するセーヌ左岸ではさまざまな映画のシーンが撮影されている。ノートルダム前からそのまま南下した場所に位置するドゥブル橋では『突然炎のごとく』(1962)の有名なシーンが撮られた。カトリーヌ(ジャンヌ・モロー)が突然セーヌに飛び込んで驚かせるシーンだ。モローが飛び込むのは橋のやや西側のあたり。『獅子座』で主人公のピエールが石畳の上に直に寝てしまうのは同じ橋の東側だ。

画像: このドゥブル橋の手前側で『突然炎のごとく』の有名なシーンが撮影された。ジュールとジム、 カトリーヌ(ジャンヌ・モロー)の3人は観劇の帰り道。劇からボードレールの詩へと話題が移り、「(ボードレールは)若い女についてこう書いた。“醜怪な死骸 芸術の破壊者”……」とジム。それを歩きながら聞いていたカトリーヌが、突然、セーヌに飛び込む。それがちょうどこの橋の下のあたり。飛び込むのはスタントの女性の予定だったが、直前におじけづいてしまったためにモロー自身が替わりに飛び込んだという。

このドゥブル橋の手前側で『突然炎のごとく』の有名なシーンが撮影された。ジュールとジム、 カトリーヌ(ジャンヌ・モロー)の3人は観劇の帰り道。劇からボードレールの詩へと話題が移り、「(ボードレールは)若い女についてこう書いた。“醜怪な死骸 芸術の破壊者”……」とジム。それを歩きながら聞いていたカトリーヌが、突然、セーヌに飛び込む。それがちょうどこの橋の下のあたり。飛び込むのはスタントの女性の予定だったが、直前におじけづいてしまったためにモロー自身が替わりに飛び込んだという。

画像: 橋の手前のあたりで『獅子座』の主人公のピエールは寝てしまう。

橋の手前のあたりで『獅子座』の主人公のピエールは寝てしまう。

同じ河岸を東へ進んだあたりはノートルダムの火災前には古くて美しい景色が素晴らしくセーヌ河岸でもとりわけ気持ち良く散歩のできる場所であった。聖堂の南側ではベッケル『モンパルナスの灯』(1958)の夜のシーンが撮影された。この場所から少し東へ進んだところでは『獅子座』のピエールがノートルダムをバックに赤ワインをラッパ飲みする。

雨の日のノートルダム。『モンパルナスの灯』では夜のシーンがこのあたりで撮られた。

画像: 『獅子座』ではピエールがノートルダムをバックに赤ワインをラッパ飲みする。

『獅子座』ではピエールがノートルダムをバックに赤ワインをラッパ飲みする。

シテ島の東端部分と左岸とを結ぶアルシュヴェシェ橋はオードリー・ヘプバーン主演の『おしゃれ泥棒』(1966)の冒頭近くで登場。橋のたもとに赤いアウトビアンキを停めたニコル(ヘプバーン)がラジオで父親の窮地を知る。『パリ3区の遺産相続人』(2014)では主人公のマティアス(ケヴィン・クライン)が左岸のアルシュヴェシェ橋の東側を歩いているとオペラを歌う若い女の声が聴こえてくる。マティアスがそちらに目を向けるとショットはシテ島のポン・ヌフ近くに移りそこで歌う若い女の姿が映される。『パリ3区の遺産相続人』にはほかにもこの橋が映るシーンがいくつかあるが、ラスト近くにもノートルダムを背後にマティアスがこの橋を北へ渡るシーンを入れている。

画像: 『おしゃれ泥棒』でオードリー・ヘプバーンが赤のアウトビアンキを停めるのはこのあたり。『パリ3区の遺産相続人』のラスト近くでは主人公のマティアスがこの橋を渡って3区のペイエンヌ通りにある建物へと向かう。

『おしゃれ泥棒』でオードリー・ヘプバーンが赤のアウトビアンキを停めるのはこのあたり。『パリ3区の遺産相続人』のラスト近くでは主人公のマティアスがこの橋を渡って3区のペイエンヌ通りにある建物へと向かう。

『ビフォア・サンセット』では12区のプロムナード・プランテ(高架上の緑の散歩道)のシーンに続けてトゥルネル河岸からスロープを下りた主役の2人がアルシュヴェシェ橋の近くまで歩いて遊覧船に乗るシーンがある。『ボーン・アイデンティティー』(2002)ではボーン(マット・デイモン)がスイスからマリー(フランカ・ポテンテ)運転のミニでパリに到着するが、そのパリでの最初のシーンがそれよりもトゥルネル橋寄りの場所で撮られた。

画像: 『ボーン・アイデンティティー』のパリでの最初のシーンは左の車の手前あたりで撮られた。『ビフォア・サンセット』では主役の2人がその少し先、トゥルネル河岸から下りたところからアルシュヴェシェ橋の近くまで歩いてから遊覧船に乗る。

『ボーン・アイデンティティー』のパリでの最初のシーンは左の車の手前あたりで撮られた。『ビフォア・サンセット』では主役の2人がその少し先、トゥルネル河岸から下りたところからアルシュヴェシェ橋の近くまで歩いてから遊覧船に乗る。

左岸とサン=ルイ島を結ぶトゥルネル橋の上では『華麗なる相続人』(1979)でのオードリー・ヘプバーンとベン・ギャザラが左岸に向かって歩くシーンや『PARIS』(2008)のアフリカ人の男が絵葉書に写ったノートルダムと実物のノートルダムを見比べるシーンが撮られている。『オーギュスタン 恋々風塵』(1999)では13区の中国人街へ自転車で向かうオーギュスタンがこの橋を左岸へと渡るシーンが見られる。 

トゥルネル橋の脇に立つのはサント=ジュヌヴィエーヴの像。サント=ジュヌヴィエーヴはパリの守護聖人で451年にはフン族のアッティラの攻囲からパリを護った。

静かに沁みる『静かなふたり』(2017)

イザベル・ユペールの娘のロリータ・シャマ主演のこの映画でまず気付かされるのは、パリという都市へとそそがれる視線である。ほかの映画ではあまり見かけたことのないアングルで撮られているショットがいくつも見られるのだ。イザベル・ユペール主演の『間奏曲はパリで』(2014)ではパリでのシーンの最初に、アレクサンドル3世橋を見せてからセーヌの船上からノートルダムをティルトアップでとらえたショットが続く。この見慣れぬアングルのショットには思わず画面に見入ってしまったが、この『静かなふたり』という映画では意図して、この種の、いまだクリシェには堕していないパリの映像を選択しているように思える。

まずは冒頭のショット。サン・ミシェル橋越しにノートルダムの2つの塔の先端が見えるのだけれど、これは一瞬、どこから撮られたものだろうと撮影ポイントをつかむことができなかった。左岸側からノートルダムを撮るショットはパリ映画では定番のひとつだが、それらを見飽きしてまった眼にはとても新鮮なものに映ったのだった。

またパリ東部に位置するベルヴィル公園からのショットでは、左にモンパルナス・タワー、右にエッフェル塔のシルエットが確認できるが、パリ16区の西側のブローニュ・ビヤンクールのさらに西側に位置する高台からのショットでは、この2つのタワーの左右を入れ替えたものになっている。これはもちろん偶然ということはありえないだろう。地味ながらも新たな視線でパリをとらえ直してみよう、そんな意図が感じ取れるのだ。

画像: ベルヴィル公園からの眺め。中央付近にモンパルナス・タワーとエッフェル塔が見える。ブローニュ・ビヤンクールの西側の高台からのショットではこの2つのタワーの位置が左右逆転する。

ベルヴィル公園からの眺め。中央付近にモンパルナス・タワーとエッフェル塔が見える。ブローニュ・ビヤンクールの西側の高台からのショットではこの2つのタワーの位置が左右逆転する。

物語は表の壁が緑色に塗られている以外は取り立てて目を引くところのない、ごく平凡な書店を中心にして展開される。そしてそこで営まれるごく平凡ななんてことのない日常に“非日常”が侵入してくるのだが、“侵入してくる”というのは適当な表現ではないかもしれない。その非日常は店主のジョルジュ(ジャン・ソレル)の過去と深く関係したものだし、これとはまったく無関係ながら鳥たちの非日常的な奇妙な死に様(原題は『奇妙な鳥たち』)は冒頭からすでに示されているからだ。

ジョルジュは過去にイタリアの「赤い旅団」に関係していたらしい。赤い旅団は1978年にイタリアのモロ元首相を誘拐・暗殺したテロ組織だ。ジョルジュもイタリア人でありジョルジオというのが本名である。警察に追われているようなのだが、しかし観ている者を大きく揺さぶるような劇的な展開を見せることなく、どちらかというと淡々と物語は流れていく。淡々としていても、印象が薄いという訳ではない。眼に不意打ちをくらわすような視覚的な仕掛けはないし説明過剰の描写もないのだが、だから、というべきか、それゆえにといった方がいいのか、観客はショットのひとつひとつ、画面に映し出される空間や人物に目を凝らして観ることになる。

画像: 緑の壁が目を引く「緑の麦」書店。店の名前は映画のものとは異なっている。

緑の壁が目を引く「緑の麦」書店。店の名前は映画のものとは異なっている。

たとえば、何度か登場する、たぶん書店の近くにあるであろうカフェのシーン。静かに見守るだけといったふうのカメラは新聞を読んだりノートに文字を書きつける様子をとらえるだけだ。フィックスで撮られたそのシーンではマヴィ(ロリータ)の隣に座る、彼女と一言も言葉を交わすこともなく読書に集中する男の表情が妙に気になってしまうし、壁の角に何かの衝撃でつけられたであろう大きなくぼみへと眼が移ってしまう。ふだんは気にすることのない、物語には無関係の細部に思わず眼が向いてしまうわけだ。そうなったらすでにこの映画の空気感にとらわれたことになる。そして、その空気感みたいなものが静かにそしてゆっくりと身体へと浸透してくる・・・。

物語に没入することで捨象されてしまうその場所その瞬間でしかありえない何ものかを救い出すこと――これはすなわちバザンのいう「ドキュメンタリー的なリアリティ(réalité documentaire)」を救い出すことであろうし、あるいはまた、ゴダールの「フィクションの登場人物をつかって、ドキュメンタリー的な様相をもったなにかをつくろうとした」という発言も同様の意図を表したものであろう。同じ監督(エリーズ・ジラール)による『ベルヴィル・トーキョー』(2011)もしかりだ。冒頭で書いたパリという都市への視線もこの唯一の時・空へのこだわりと無関係ではないだろう。

齢の離れた男女の静かなラブストーリーを軸にしながら、放射能汚染(この映画は3.11の後に撮られたが、鳥たちの奇妙な死はこれに関係しているらしい)やテロ(これは容易に2015年のパリ同時多発テロ事件を想起させる)をからめて日常と非日常がつねに隣り合わせであることを静かに語る映画でもあるが、猫好きにとってたまらない映画でもある。ジャックと名付けられたそのネコは、出演シーンは少ないものの、演技指導通りに(?)実にいい動きを見せてくれて目を離すことができない。

画像: ジョルジュ(ジャン・ソレル)の住むアパルトマンはサン=シュルピス教会前の広場に面して立つ。

ジョルジュ(ジャン・ソレル)の住むアパルトマンはサン=シュルピス教会前の広場に面して立つ。

次回はカルチエ・ラタン紹介の最終回として、さらにセーヌに沿って東に向かい、植物園から南下し、時計回りに移動していく予定。

内野正樹
エディター、ライター。建築および映画・思想・文学・芸術などのジャンルの編集・執筆のほか写真撮影も行っている。雑誌『建築文化』で、ル・コルビュジエ、ミースら巨匠の全冊特集を企画・編集するほか、「映画100年の誘惑」「パリ、ふたたび」「ヴァルター・ベンヤミンと建築・都市」「ドゥルーズの思想と建築・都市」などの特集も手がける。同誌編集長を経て、『DETAIL JAPAN』を創刊。同誌増刊号で『映画の発見!』を企画・編集。現在、ecrimageを主宰。著書=『パリ建築散歩』『大人の「ローマ散歩」』。共著=『表参道を歩いてわかる現代建築』ほか

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