1980年代初頭のほんの数年間でアート・シーンを駆け抜けて、あっという間にどこかに行ってしまったジャン=ミシェル・バスキアは、そのほんの短期間の活動期に膨大な数の作品を残しただけでなく、そのアート・シーンに決して後戻りできないレベルの革命を、確かに引き起こした。これほどの革新を西洋絵画の世界にもたらしたアーティストがいるとしたら、この以前に遡るならフィンセント・ファン・ゴッホくらいしか思い当たらない。
ファン・ゴッホが19世紀末のパリに登場し、やはり疾風のようにあっという間に去ってしまったことは、近代の「芸術」つまり個人表現としての絵画を観客がどう受け止めるのかについてのあり方を、根本的に変えてしまった。バスキアの衝撃はこれに近い。あえて極論を言ってしまうなら、先駆者としてポップ・アートの大旋風を巻き起こしたアンディ・ウォーホルでさえ、その最大の功績はなにかと問われれば、この若者を見出したことじゃないか、とすら言ってしまいたくなる。
日本でもすでに人気のバスキアだが、体系的にその創作の全キャリアを追った大規模展はこれが初めてだ。バスキアがいなくなってしまって(あえて「死んでしまった」とは言う気になれない)30年以上経って初めて、「理解を超えた天才」を理解すべく、本格的にその作品を体系的に整理して、その創造の根元に迫ろうとしている。
凝縮された完成作だけでは「暗号解読」できない様々な記号の原点
バスキアの絵はどう発想され、どう生まれたか? この展覧会では立体作品や映像作品も展示されているが、手がかりとしてなによりも重要になるのが、アクリル絵の具や油絵で仕上げられた、いわば「売り物」として描かれた「完成作」と言うか「大作」だけでなく、膨大な量のメモやスケッチが、展示されていることだろう。
もちろん我々がバスキアに惹かれるのはまず、その大画面の大作の、色使いもポップで鮮やかで、自由奔放なグラフィティ(落書き)のように画面に叩きつけられたかのようなエネルギーだ。それは理論に基づき芸術形態そのものを解体しようとする現代美術の、論理つまりは理屈の枠内に止まりがちな、高邁ないしお高く止まったインテリ趣味の枠組みから解放してくれる自由さにあふれ、アートを見ることの感動の原点がプリミティブで直感的な衝動にあることを再確認させてくれる。
絵を見て感動するために「理解する」必要は、確かにないはずなのだ。
そして映像に遺されたバスキアの創作風景も、そうした我々の感動を裏付けてくれる。映像の中のバスキアは、まるでストリートの壁をゲリラ的に自分の絵で占拠してしまうようなスピード感で、どんどん絵の具を塗り、不可思議なフォルムを即興で創造し、まるでアートの衝動がプリミティブな本能であるかのように、世界を自分色に変えて行ったように思いがちだ。
そして確かに、そう言うバスキアの理解が間違っているわけではない。実際に彼はほんの数年の、とても短い創作期間の間に、膨大な量の作品を残した。つまり一枚一枚の絵はまさに猛スピードで描かれたはずだし、まさに疾走する画家、立ち止まらない画家であることが彼の魅力のひとつだ。
立ち止まらず駆け抜けたアーティストは、全てを考え抜いたアーテイストだった
だが膨大なスケッチやメモから明らかになるのは、彼が疾走する画家、立ち止まらない画家であるからと言って、考えること、計算すること、画面を構成する時間を無視して、ただ直感と衝動だけで描き続けた画家などでは、まったくなかったことだ。
大作に現れたモチーフのほとんどは、実はなんどもなんども紙の上で試行錯誤され、選び抜かれたものに他ならず、しかもそこには膨大な量の言葉もある。
この太い柱にびっしり並べられたメモのほとんどは、言葉だ。実はバスキアの作品は、彼独自のロジックで、思考され、試行錯誤され、考え抜かれ、計算し尽くされたものだったのだ。
そうして頭の中で出来上がったイメージがほとばしり出るように絵の具の奔流となって絵画化したものだから、確かに創作のスピード自体は異常なまでにスピーディーだったし、そのタッチにもスピードと躍動感がこもっているが、決して脇目も振らず、知性に頼ることなく、野蛮なまでのエネルギーとして作品化されたものではまったくなかった。
むしろ、これほど言葉による思索を費やして作品を生み出した画家は、むしろ珍しいのかも知れない。いや絵画の歴史の中には、ダ・ヴィンチの手稿やファン・ゴッホの弟への手紙のように、膨大な言葉を残したことがその創作や人生を理解する手がかりになった画家は、他にも何人かはいる。
膨大な言葉から、バスキアが考え抜いていたことは分かる。だが何を考えていたのかは、まだ誰にも分からない
これらのやはり絵画の、芸術とそれを我々がどう受容するかの歴史を根底から変えてしまった先人たちと比べて、バスキアのメモにはさらに厄介なことがある。ゴッホもレオナルドも文章を構築していたので、その思索のプロセスを追うことはある程度可能だし、その理解を元に作品をより深く解釈することもできるし、現に研究もされて来ている。ところがバスキアはスケッチの描線と渾然一体化した農大な言葉を残しても、そこに普通の言語として理解・解読する手がかりとなる文法がないのだ。
そこにこの展覧会の刺激的なおもしろさと、ミステリーがある。我々はバスキアの大作に一見無秩序に並べられた様々な記号がどこから生まれて来たのかと、そこには膨大な言葉による思索が関与していたことまでは理解できるが、これらのメモやスケッチが暗号解読の手がかりになるのかと言えば、まるで逆なのだ。むしろさらに複雑な暗号体系を突きつけられて、我々は圧倒されつつ途方に暮れるしかない。
いやしかし、こうして途方にくれさせられるからこそ、バスキアの絵はますます魅力を増幅する。一般に、「みんなのアーティスト」になるためには、「みんな」に理解されることを心がけた表現を、普通なら考えるだろう。ジャン=ミシェル・バスキアは、「みんなが理解できない画家」だからこそ、「みんなのアーティスト」としての、超然とした魅力を発散し続ける。
それで、いいのだ。それが一番、いい。世界もそう簡単に「理解」可能なわけがないし、簡単に理解できるなら、おもしろくもなんともない。
アートが「分かる」なんて考えほど退屈なものはない。そう教えてくれたことこそ、バスキアの最大の革命なのかも知れない。
開催概要
- 展覧会名
バスキア展 メイド・イン・ジャパン Jean-Michel Basquiat : Made in Japan - 会期
2019年9月21日(土)- 11月17日(日) - 開館時間
10:00 ~ 20:00
※入場は閉館の30分前 - 会場
森アーツセンターギャラリー(六本木ヒルズ森タワー52階) - お問合せ
03-5777-8600(全日8時〜22時 ハローダイヤル) - 展覧会公式サイト: www.basquiat.tokyo
- 主催
フジテレビジョン、森アーツセンター - 特別協賛
株式会社ZOZO - 協賛
損保ジャパン日本興亜 - 後援
アメリカ大使館、ニューヨーク市観光局、WOWOW、J-WAVE - キュレーター
ディーター・ブッフハート - アソシエイト・キュレーター
アナ・カリーナ・ホフバウアー、小野田 裕子 - 日本側監修
宮下 規久朗(神戸大学教授/美術史家)
※巡回展はありません。
アクセス
東京メトロ日比谷線「六本木」駅1C出口より徒歩3分(コンコースにて直結)
都営地下鉄大江戸線「六本木」駅3出口より徒歩6分
都営地下鉄大江戸線「麻布十番」駅7出口より徒歩9分
東京メトロ南北線「麻布十番」駅4出口より徒歩12分
東京メトロ千代田線「乃木坂」駅5出口より徒歩10分